悪意は鮮やかに
事件は、誰にも気づかれずに始まった。
その日もいつもと同じ朝が来た。城の老庭師は自らに与えられている部屋で、もぞもぞと這い上がるようにしてベッドから起き上がると、湯を沸かして茶を飲んだ。喉の奥からじんわりと温かさが広がっていく。若い頃はそうでもなかったのに、今やこの一杯を飲んでからでないと、まともに体が動かない。
彼はこの城で庭師として雇われてから、もう五十年近くになる。何度か引退を考えたこともあったが、この庭はまだ若造だった頃から彼が管理していた、いわば我が子のような存在だった。辞めろと言われるまでこの庭を離れないと決めたのは、もう十年も前のことだ。
彼は腕を衰えさせた覚えはないが、年を重ねていくほどに身体の節々が痛み、自由が制限されてきた。特に冬になると、五年程前に折った右足の骨が染みるように痛み出すのだ。今日は朝から晴れて、空気が冷たい。庭師は労わるように右足をさすった。
老庭師の部屋は、使用人達の下宿に使用されている建物の中でも、彼の庭が最もよく見える角部屋にあった。この中庭は主に王侯貴族が鑑賞するために作られたものだ。本来ならば、庭が見える位置に使用人の部屋など作ることはできないのだが、かなり無理を言ってこの部屋を借りた。昔は一階であることに文句ばかり言っていたのだが、この歳になると、段差がないことがむしろ好ましい。
老庭師は窓の外を見遣った。彼の弟子たちがもう、枝切り鋏を片手に作業を始めていた。さすがにもう現役として梯子に登ることのできない彼は、主だった作業は弟子たちに任せ、指示を与える役割に徹していた。
既に空になったカップを緩慢な動作で片付けると、老庭師は部屋着から仕事着に着替え、杖を片手に外に出た。右足を半ば引きずるようにして歩き、庭の点検を始める。
老庭師が出てきたのに気づくと、まだ若い見習いの小僧たちが老庭師に挨拶をした。老庭師は呻くように挨拶を返して、庭全体が見渡せる位置に置かれた小さな椅子に向かった。
よいしょ、と小さくつぶやきながら椅子に腰掛けると、一番弟子が近づいてきて今日のスケジュールと完成予定図の確認をしに来た。
老庭師は自分が死んだら、この弟子に後を任せるつもりだった。そのくらい信用の置ける、付き合いの長い弟子だ。弟子が話す内容を聞き、細々した点のみ多少の修正を加えて、後の作業を任せた。一番弟子が作業に戻った後も、ひっきりなしに他の弟子たちが老庭師の元にやってきては何か相談して戻っていく。老庭師の指導は厳しかったが、その実力はこの国でも随一として有名だった。弟子からの信頼も厚い。
老庭師は彼の愛する庭を眺め、ある一点で目を留めた。一見何ともないその花壇には、彼の知らない花が咲いていた。老庭師は顔をしかめると、すぐに弟子の一人を呼んだ。
「おい、あれはなんだ」
「あれ、ですか?」
「あの花だ。赤いやつ」
この弟子は入ったばかりのやつで、まだ察しが悪い。もっと教育を徹底する必要がありそうだ。弟子はたっぷり時間をかけて、ようやく庭師の言いたいことを理解したらしい。のんびりした様子で、ぽんと手を打った。
「ああ、ああ。あれでございますね。
何でしょうか……。一本手折ってきましょうか」
「いや、引っこ抜いて、根ごと持ってこい。
俺が知らん花など、雑草に決まっている」
「へい、わかりました」
老庭師はこの庭を隅から隅まで管理し、把握していた。この庭に植えてある植物はすべて彼の指示によるものなのだ。しかし彼には、その花を植えろと指示した覚えはない。つまりあの花は老庭師がぼけたのでなければ、この庭にとって異物であり、勝手に生えてきた雑草であるはずなのだ。
丁寧に土を取り除き、弟子が花を持って戻って来た。老庭師は花を隅から隅まで観察する。
一言で表すと、それは異常な花であった。
花弁は五枚。全てが鮮やかな緋色だ。しかしその他に、今までに見たことがない特徴を持っている。例えば根はまるで木のようにしっかりしていて、岩場でも生えることができそうだし、その代わりに葉がほとんどなかった。何より特徴的なのは、花弁の中央の窪みだ。まるで呼吸孔のような穴が開いている。
長年庭師として植物に触れているが、こんな花を見るのは初めてだった。老庭師は興味を示したが、植物の中には毒性を持つものもあり、それは植物や昆虫のみならず、人間にだって害を加えることもある。老庭師は職業柄それを承知していたし、ここは王の住む城の庭だ。万が一のことがあってはいけない。
老庭師は花を隅々まで観察し、その特徴をしっかりと覚えた。これで、後で図鑑なりなんなりを使って調べることができる。
老庭師は先ほどの弟子を再度呼んだ。
「おい、もういいから、これは焼却炉で燃やせ。大丈夫だとは思うが、一応他の雑草とは一緒にするな。今持ってけ」
弟子は赤い花を受け取ると頷いて、焼却炉へと走った。
焼却炉は主に雑草の処理や、厨房で出た生ごみの処理に使われる。使用頻度は多いのだが、いかんせん城の外観を損ねるということで、目立たない隅の方にひっそりと建ててあった。
まるで小さな小屋が建っているかのように、塀に囲われた空間があった。入り口には鍵がかけてあり、弟子は山とついた鍵の中から、目当ての鍵を探す。小さな鍵は少し錆付いていて、とても回りにくい。
塀の内側にある焼却炉には頑丈な鉄の蓋がつき、完全に密封されていた。脇には排気口がついていて、そこから真っ白な煙が立ち上っている。鉄の蓋を開けると、轟々と燃えさかる炎に前髪がちりちりと焼けるような気がした。
弟子はその中に無造作に花を放り投げる。緋色の花弁が炎に包まれて見えなくなった。弟子はそれを見届けると、重たい鉄の扉を閉め、老庭師のところに走って戻った。そして先ほどの花のことなどすっかり忘れて、今朝の仕事に戻った。
この老庭師が遺体で発見されたのは、それからわずか三日後のことだった。
珍しくエラ以外の人間の視点です。
おじいちゃん視点でものを書くのは始めてで、感情移入が難しかったです。




