追跡
ガラスの靴が奪われたことは、この国にとって恐ろしい事態であった。この国は百年ほど平和な時代が続いていて、それはつまり、兵たちに実践の経験がほとんどないことを意味していた。
伝説によれば、あの靴には海を渡る能力があるはずだ。それを確かめたわけではないが、あの靴がエラ以外の人間に履かれることを拒んでいる様子を目にした日から、あれが魔法の産物であることは一度も疑っていない。
だから何が何でも、ガラスの靴を隣国に渡すわけにはいかない。王子はこの国を治める者の末裔として、その責務を果たさねばならないのだ。
ガラスの靴を盗んだ者は、王城で兵役に就いているトーマスであることが判明した。エラに顔を見られたトーマスは当初の予定を大幅に変更せざるをえなかったのだろう。密偵として、これまで見事に隠れきっていた割には、その逃走劇は杜撰だと評価せざるを得なかった。
しかし密偵が王城に忍び込んでいたという事実に、王子をはじめとした城の有力者は内心で舌を巻いていた。密偵が一人であるとは限らない。すぐにでも使用人たちの身辺調査が必要になるだろう。
トーマスが逃走を始めてから、すでに数時間が経過している。城門は閉じるように命令を出したが、すでに通り過ぎている可能性もあった。心は急くが、王子は未だ城内の執務室にいた。
急ぐ時ほど、落ち着かねば。王子は自分にそう言い聞かせながら、追跡の兵を幾つかの隊に分ける。まずは王都の内部を探る隊。これは人海戦術で片端から調べていくしかないだろう。続いて、東西南北の門から逃走経路を想定し、トーマスを追跡する隊だ。
隊の編成さえ決めてしまえば、後の指揮は各隊の隊長に任せてしまうつもりだった。王子は身分が高いから、各隊長よりも発言権があるだけで、その指揮能力で彼らよりも勝っていると思い込むほど愚かではない。
各隊の編成を決め、その指示を与え終えたころには、王子はすっかり疲れ切っていた。しかし休む間も無く、直属の部下であるダグラスとロビンを呼んだ。
ロビンはダグラスに比べると随分と若く、華奢であった。ゆったりとした服に身を包み、矢筒を背負っている。彼の短い髪は清潔に整えられ、なかなかに綺麗な顔立ちをしているのだが、その眼光の鋭さゆえに、ロビンには近寄りがたい雰囲気があった。
「さて、お前たち二人は僕に同行してもらう」
王子は捜索隊とは別行動をとるつもりだった。捜索隊に王子は必要ない。捜索の許可さえもらえれば、彼らは勝手に優秀な結果を残すに違いないのだ。むしろ、ろくに訓練を受けていない王子では、足手まといになりかねない。だから王子は、彼らにはできない方法でトーマスを追跡しようと決めていた。
「僕たちは、トーマスが通ったであろう経路を予測し、最も可能性の高い経路を選んで港を目指す。人数が少ない分、早く動けるはずだ」
王子は王国全土が描かれた地図を机に広げた。
「王都はここ。トーマスがどこの国の密偵にしろ、ガラスの靴を運ぶためには王国の東側に行かねばならない」
王国は大きな本島と、大小さまざまな六つの島から形成されている。その最東端は本島の次に大きなオルトラ島で、大陸との玄関口としての機能を果たしている。本島とオルトラ島には大橋がかかっていて、徒歩での移動が可能である。基本的に国外との行き来は、すべてオルトラ港を経由することが義務付けられていた。
オルトラ港を除くと、漁船以外の大きな船をつけることができる港は、ユヴィナ港しかない。ユヴィナ港は本島の中では最東端の港であるが、王国を南北に割るように連なるピタ山脈よりも南に位置するため、王国の南半分で取れた作物を輸出する際は、一度ユヴィナ港を経由してから海路でオルトラ港に運ばれる。オルトラはピタ山脈より北に位置したからだ。
しかしこの港にも問題点があった。それはダツによる被害だ。ダツは王国の東半分を生息地としている非常に凶暴な生き物で、年に数回はダツによる被害の報告が上る。大抵の被害は船の損壊に止まるが、稀に人命が危険にさらされるといった惨事が引き起こされることもある。また、舵がやられてしまった場合、その被害は甚大で、船が丸ごと行方不明になった例さえある。
普通に考えて、こんなに危険な海域を通ろうとする船など、物好きとしか言いようがない。しかし王国の西半分に至っては、沖に船を出すことさえ不可能であった。なぜならそこは大海蛇が出没する海域で、その被害の大きさはダツの比ではない。大海蛇に海上で出会ったら、まず命はないと噂されるほどだ。
だからトーマスは、どのような経路を取ろうと、必ず最後には王国の東へ向かうはずだ。王都は王国の中でも南西寄りに位置しているため、トーマスが取るべき選択肢は実質、ピタ山脈を越えてオルトラ港へ行くか、ユヴィナ港へ行くかの二択になる。
「あとは、小さな漁船で無理やり大陸に渡る方法もあるが……」
「いえ、その可能性は低いでしょう。物が物ですから、危険の高い漁船での航海はしないかと」
ダグラスの言葉に、王子は納得した様子で頷いた。
「そうだな。一応港には伝令を走らせて、荷物の検査をさせてはいるが、見つかるかどうか」
「やはり密航船での渡航が、一番可能性が高いのでは?」
とロビン。
「取り締まりはしていますが、税を逃れるために密航する船は後を絶ちません。金さえ積めば、突然現れた不審な男でも乗せてもらえるでしょう」
「だとすると、ユヴィナ港、オルトラ港の両方に可能性があるな」
あまり可能性が絞れなかったことに肩を落とす王子。
そこでダグラスが部下を呼ぶと、何事かを尋ねた。部下はそれに答えると、すぐに下がった。ダグラスが王子を振り返る。
「殿下、どうやらトーマスは北門からすでに出立したようです」
「おや、ではピタ山脈越えですか」
ロビンは心底嫌そうに「物好きな……」と小さくつぶやく。それもそのはず、ピタ山脈は標高が高く、その山頂は夏でも雪に閉ざされている。まして今は冬だ。ピタ山脈を越えて王国の北半分へ向かうのは、ひどく骨の折れる行為だった。登山に慣れた行商人でさえ、年間で数人はピタ山脈で遭難し、帰らぬ人となっている。
しかし山越えを覚悟して顔を青ざめさせているのはロビンだけで、王子とダグラスは何か考え込んだように虚空を見つめている。やがてダグラスが、視線を王子に移すと「トーマスは登山が趣味だとか、そういったことは聞いたことがありますか」と聞いた。
「いや、ない。その可能性はすでに考えて、トーマスと仲の良かった兵に確認させたことがあるが、答えは否だったよ」
「では、もう一度門番に確認させましょう」
「頼む」
不思議そうに王子とダグラスの会話を聞いているロビンに、王子が説明した。
ピタ山脈は決して簡単に越えられる山ではない。たとえ訓練を受けた者であっても、専用の装備なしに超えようとするのは命取りだ。
つまり、トーマスがピタ山脈を超えるには、確実に装備が必要となる。もちろん、近隣の村で買うこともできる。外にあらかじめ隠していたとも考えられる。しかし、トーマスが堂々と北門から出て行ったことも含めて考えると、これが罠である可能性が捨てきれなかった。
「なるほど。そこまでは思いつきませんでした」
自らを恥じるようにロビンはうつむく。握り締めた手が、羞恥に震えているのが見て取れる。若くして王子の側近に選ばれた才人であるロビンの、最も優れた点は、この現状に満足せぬ向上心だと王子は考えていた。
「殿下、裏が取れました」
王子がロビンに説明している間に、ダグラスは早くも調べをつけたらしい。ダグラスの部下が側に控えている。
「トーマスはほとんど身一つで北門を出たようです」
その言葉で、王子とダグラス、ロビンは顔を見合わせ頷いた。
王子はをベルを鳴らして小間使いを呼ぶ。
「すぐに北方の村に、しばらく山越えの道具は売るなと伝えろ」
小間使いは頭を下げ、静かに命令を伝えに走った。王子はそれを見届けると、ダグラスとロビンに再度目をやった。
「北、南、西については、他の兵に任せよう。東も、正規の方法での調査は兵に任せることにする。
僕たちは、東門からユヴィナ港へ直接向かい、密航船を虱潰しに探す」
王子の言葉にダグラスとロビンはかしずき、腰の剣を捧げた。声を揃えて誓いの言葉を詠唱する。
「我らが主人の思し召しのままに」
ここでいう「ダツ」は、現実に存在するダツとは別のものだと思ってください。
モデルがダツという魚なので、イメージしやすいかなと思ってそのままの名前にしてしまいました。




