魔女の遺産
暗闇の中、レオノーラが消えた方向を見つめているエラの髪がもぞもぞと動き、その細い肩に大きなねずみがちょこんと座った。エラはその頭を優しく撫でた。
「エラ」
「これで、良かったのよね……」
死んだ兵や老庭師には、悪いことをしたと思う。それでもエラは、レオノーラを助けたかった。そこに後悔なんてない。だがこれでエラも、レオノーラと同じく法に触れたことになる。罪状の重さは違えど、殺人も犯人の隠蔽も、等しく罪だ。エラのそんな後ろ暗い思いを察したように、リオルが頭をエラに押し付けた。自然と笑みがこぼれる。
「これから、どうしよっか」
ぽつりと、エラはつぶやく。いつまでも城に厄介になるわけにもいかないだろう。靴を失ったのならばなおさらだ。田舎に引っ越して、その地で薬剤師として暮らすのも悪くない。はじめはきっと大変だけれど、リオル達がいれば頑張れるだろう。けれど、その前に。
(もう一度だけ、王子様に会いたい)
そんなことを考えている自分がいた。それに気付いて、エラは少なからず驚いた。お世話になったからお礼を言いたいとか、迷惑をかけたから謝りたいとか、このとき感じたのは、そういった気持ちじゃない。
ただ、理由もなく、王子に会いたかった。柔らかな笑顔が見たかった。穏やかな声が聞きたかった。もう会えなくなるのだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。だから、つまり、もしかしてこれは……。
(私、まさか……)
そんなエラの思考を遮って、リオルがエラの顔を覗き込む。暗くて見えなかっただろうが、「ちょっといいかな」というリオルの言葉に、エラは顔を赤くして頷く。
「エラに、話さなきゃならないことがあるんだ」
「なに? どうしたの?」
急にかしこまったようなリオルの様子に、エラは素直に驚いた。リオルはいつも楽しげでふざけていて、エラにとっては手のかかる弟のような存在だった。ところが今の彼は、至極まともで大人びて見えたのだ。
「ガラスの靴について。僕が知ってることを教えるよ」
「! 何か知ってるの?」
今まで黙っていてごめんと言って、リオルは頷いた。
「だから、その代わりにエラも考えてくれないかな」
「何を?」
「この国から、逃げることを」
リオルはエラの肩から飛び降りると、器用にバランスをとって木刀の上に座り込んだ。エラとリオルの視線が同じ高さになる。リオルはエラの目を見て、話し始めた。
曰く、ガラスの靴は、魔女が作り出した道具であるという。
魔女が作り出した道具は実は世界中に点在し、そのほとんどが国家によって存在ごと隠蔽されていた。なぜなら魔女の道具はどれもこれも強力で、使いこなすことができれば、世界が揺らぐほどの能力を持つからだ。
エラの持つガラスの靴も、例外ではない。その能力を明かそうとするリオルの声を、緊張した面持ちで待つ。
「ガラスの靴には……水面を歩く能力がある」
「えっ。それだけ?」
エラは拍子抜けして、呆れたような声を出してしまった。だって、散々もったいつけて、世界が揺らぐとまで称して、水の上を歩けるだけだなんて。あまりにお粗末に思えたのだ。
そんなエラの様子に、リオルは深く嘆息する。
「エラ、水の上を歩けるっていうのは、エラが思っているよりもずっと、凄まじい能力なんだよ」
例えばこの国について考えてみてほしい。この国は海に囲まれているから、ガラスの靴の能力は、喉から手が出るほどほしいはずなのだ。例えば貿易は、今より容易に進むだろう。結果かかる賃金は減り、経済は潤う。しかし各国が重視するのは、おそらく軍事転用だろうとリオルは言う。
「今この国が戦争に巻き込まれていないのは、危険な海に囲まれた島国であり、実質隔離された空間だったからだ」
この国を攻めるのには、海を渡らなくてはならない。これは逆もまた同じだった。天然の要塞に邪魔されて、この国は強制的に、百年近い平和な時代を築き上げることになったのだ。しかし、もしガラスの靴を軍事転用できたなら。ガラスの靴と同じ技術を船舶に使用し、ノーリスクで素早く海を渡ることができるようになったとしたら、この前提は覆る。その技術を有した国に圧倒的に有利な条件で戦争は進むだろう。
それを思うと、この国も諸外国もガラスの靴の存在を軽視できない。万一他国の手に渡ったらと思うと、気が気ではないのだ。
「レオノーラの言ったことは正しいよ。エラはこの戦いから逃れられない。だけど……」
リオルはそこで言葉を切ると、少し言い淀んだ。
「エラに、戦争の道具になってほしくないんだ」
ここから逃げるという言葉に、エラの胸がちくりと痛んだ。しかしリオルは、心の底からエラの幸せを願ってこの結論を出したのだ。リオルの優しい想いを、無下にしたくはない。
しかしエラには、まだ解せぬことがあった。いったいどこに逃げれば、この戦いから逃れられると言うのだろう。リオルの物言いでは、逃げたところで追っ手がかかるのは目に見えている。エラの能力では、国の追っ手から逃げ続けることなどできやしない。そもそも前提からして、リオルの計画は成り立たないのだ。
「それなら心配いらないよ。彼女は実際、もう五十年近くも国家から逃げ続けているから」
「彼女?」
「魔女さ」
エラは言葉を失った。身体の底に染み付いた魔女への恐怖と、エラを助けてくれたおばあさんの優しい瞳が、交互に脳裏に浮かぶ。
「エラ、今まで疑問に思ったことはないかい? 舞踏会に行くとき、どうして魔女が君を助けてくれたのか。どうして君はねずみと会話することができるのか。普通じゃないことくらい、とっくに気付いていたんだろう?」
「それは……」
エラは息を飲んだ。リオルが何を言いたいのか、理解したのだ。
「その理由はね、エラのおばあさんが正真正銘、本物の魔女だからさ」
こんにちは。
こんなところまで読んでいただいて、本当にありがとうございます。
さて、今回の話で第1部が完結となります。
次回からは、王子視点の第2部が始まります。つきましては、1週間ほど更新をお休みしたいと思います。
1週間でなるべくたくさん書き溜めて、滞りない週二掲載を目指しますので、何卒よろしくお願いいたします。




