友達だから
祭りが終わってしまうと、すぐに王都は元の落ち着きを取り戻した。色とりどりのランタンは翌年までしばしの休息を挟み、露店のテントがたたまれたため、路地の広さは祭りの日の二倍ほどになった。
祭りの当日には、夜遅くになってもそこらじゅうから喧騒が聞こえてきた。しかし今、まだ日をまたがないこの時刻でも、人々は翌日に備え寝静まる。王城でもそれは同じことで、今はただ、夜の闇だけがあたりを支配していた。
そんな静寂を破ることなく、一つの影がすっと月光の下を横切った。滑るようになめらかなその動きは洗練されていて、素人のそれではありえなかった。影は迷うことなく、まっすぐに何処かへ向かっているようだ。
影は城の勝手をよく知っているようで、普通はまず通らない、兵士の訓練場となっている中庭を横切った。月光に照らされるが、薄雲がかかっているせいで、顔は見えない。中庭を渡りきって回廊に飛び込むと、再び影は闇に溶け込んだ。
影は中庭の端、訓練用の武器庫の前にたどり着くと、するりと中に滑り込んだ。そこで初めて立ち止まる。あたりをきょろきょろと見回して、ある一点で目を留めた。そこは木刀が山のように突き刺さった樽だ。ごそごそと木刀を漁り、目当てのものを発見すると、静かにそれを取り出した。
その瞬間、影はぎゅっと目をつむった。
暗闇に慣れきった目に、唐突に光が差し込んだのだ。影は逃げるように、樽の後ろに隠れた。
「こんな時間にこんなところで、一体何をしているの?」
夜の静寂を初めて破ったのは、まばゆい光を発する松明を掲げたエラだった。そこで一度言葉を切り、声を震わせて、その名を呼ぶ。
「ねえ、答えてよ。
……レオノーラ」
光源のすぐそばにいるエラの姿は、周囲からくっきりと浮かび上がって見えた。逆にエラ本人からは、周囲の詳細はひどく見えにくいはずだ。
影はゆっくりと松明の光の届く範囲内に歩み出た。その姿は、いつもとは違う黒く動きやすそうな服に身を包み、長い髪は揺れ動かないように小さくまとめて、大部分を服の中にしまってあった。その表情は穏やかで、むしろ少し微笑んでいるように見える。いつもと異なる雰囲気ではあったが、彼女は紛れもなく、レオノーラその人だった。
「エラ、いい夜ね」
レオノーラは当然のようにエラに挨拶をした。
「そう、ここにいる理由だったかしら。
実はね、ガラスの靴を狙っているといった情報があったのよ。だから心配になっちゃって」
「それでレオノーラがたった一人で確認しに来たっていうの? 昼のうちに場所を移せばいいだけの話なのに?
だいいち、靴を隠したのは昨晩なのよ。そんな情報をいつの間に、いったいどこで手に入れたっていうの?」
レオノーラはエラの反論に、それはそうかと肩をすくめる。そしてすぐに他の答えを用意したが、これは本人が否定した。
「じゃあ、眠れないから月を見に来た、とかどうかしら。……ああ、だめね。それじゃあ、こんな格好をしている理由の説明がつかないわ」
自らの格好を見下ろすレオノーラ。こんなことなら、普段の格好で来ればよかったと苦笑いで言う。
「ふざけないでよ、レオノーラ」
「ふざけてるのはエラの方でしょ。
わかってるんでしょ? 私がどうしてここにいるか。それともここまで来ても、まだ信じられない?」
「それは……」
「それなら、はっきり言ってあげるわ。私は、ガラスの靴を盗みに来たのよ」
不思議と衝撃は受けなかった。むしろ「ああやっぱり」とどこか達観したような自分がそこにいることに、エラは少し驚いた。
エラのその表情を見て、レオノーラは興味深そうにエラを観察した。
「……ちょっとショックだわ」
「え?」
「私ね、うまくやってるつもりだった。侍女仲間たちにだって、疑われたことはないわ。
だからあなたに見破られたことが、ちょっと衝撃的だったの。だって、言っては悪いけれど、あなたは優しいばかりで人を疑うことなど知らない馬鹿に見えたから。御し易いと踏んでいたのよ」
それなのに、よりにもよってその馬鹿に見破られた。密偵としての能力には自信があったのに、その思いさえ揺らぎそうだと言う。
「いつから疑っていたの?」
「……城で起こった騒動の原因が、アカヒメノだと気付いたときよ」
レオノーラは首をかしげた。アカヒメノと自分がどうつながるのかわからないといった様子だ。レオノーラの視線がエラに先を言えと促す。エラは素直に従った。
「私は探偵じゃないし、兵士でもない。推理にも荒事にも慣れてなんかいない。
それでもすぐにアカヒメノが原因だと気づけたのは、城内でアカヒメノを見た覚えがあったから」
それを聞いて、レオノーラはようやく合点がいったように目を丸くした。
「エラが城に来て数日くらいのとき……! あのときにもう、気付いていたのね」
「もちろん、初めからこんなふうに疑ってたわけじゃないわ。でも、おかしいなとは思ってた」
あれはエラがリオルに会いたくて、誰もいない家に帰った日だ。エラは家に帰る前に、侍女の控室にいたレオノーラに会った。そのときレオノーラは、小さくて赤い、可愛らしい花束を抱えていた。
エラはすぐにそれがアカヒメノだと気付いた。アカヒメノは知名度の低い花で、その危険性から観賞用には向かない。とはいえ、適切に管理してさえすれば安全であることも事実で、一部の金持ちからは好まれているとも聞く。
あのときエラは、リオルたちに会いたい一心で、それ以外のことに心を砕く余裕はなかった。だからエラ自身すっかり忘れていたのだが、例の事件があって思い出したのだ。
アカヒメノは流通が少ない。つまり手に入れるのには相応の苦労が伴う。エラには、アカヒメノの花束を抱えたレオノーラの笑みが、純粋なものにはとても思えなくなった。
「でも……それだけじゃないわよね」
エラの靴が盗まれたとき、つまり、兵士が二人殺されたとき、レオノーラもその場にいたはずなのだ。そして兵士のうちの一人を、レオノーラが殺めた。
「どうしてそう思うの?」
「あの人たちを、叫び声さえあげさせずに殺すのは、とても難しいから」
エラの見た限り、犯人の男は剣しか持っていなかった。離れた場所にいる二人の兵を、一人で同時に斬り殺すのは無理だ。かといって一人ずつ殺したのでは、確実に人を呼ばれてしまう。なにより、兵士の剣は鞘の中に収まったままだった。刀を抜くこともできぬ早業で殺されたのなら、犯人は二人いないとおかしい。
もしかしたら他にも協力者がいるかもしれないが、レオノーラの先ほどの身のこなしは、暗殺の訓練を受けているのではないかと思わせるものだった。
レオノーラは、絞り出すようなエラの言葉を否定しなかった。
「それで、どうするの? 私を捕まえてみる? それとも私が殺した兵士の仇でもとる?」
レオノーラは袋にしまったガラスの靴を再度取り出して、エラに見せびらかすようにゆらゆらと振った。
「私が犯人一派だと気付いたにしては、まぬけね。これを別の場所に隠し直すとか、持ち出す前に止めるとか、方法はいくらでもあったでしょうに」
「それでよければ、あげるわ」
「……なんですって?」
「あげるって言ったの。
国一番の飴細工職人の、渾身の一作よ。見た目こそ本物のガラスみたいだけれど、飴だもの。ダメになってしまう前に食べて欲しいわ」
レオノーラは今度こそ驚愕の表情を浮かべた。ガラスの靴をまじまじと見つめ、ほんの少し、靴の端を舐めた。
「……そう、まんまと一杯喰わされたってわけ」
靴が本当に飴細工であることを知り、レオノーラの顔が怒りで赤らむ。きっと、レオノーラはエラの行動を監視していたに違いない。もしエラがガラス細工で偽物を用意していたならば、レオノーラは罠にはかからなかったのだろう。
エラはレオノーラの怒りをなだめるように、穏やかに声をかけた。
「ねえ、レオノーラ。もうやめない?」
「なんですって……?」
「いったいどうして、こんなことするの? もうやめましょうよ。殺したりとか、盗んだりとか……。この靴に、そこまでの価値が本当にあるの?」
エラの心からの申し出に、しかしレオノーラは鼻で笑った。
「やめる? 無理よ、そんなの。
まったく、どうしてエラが靴の持ち主に選ばれたのか、理解に苦しむわ。あの靴にどれほどの価値があるかも知らないで」
レオノーラは嘲るように続けた。
「あの靴は、魔女の遺産よ。その使い手に選ばれたあなたは、この戦いから逃れることは決してできない。あの靴がある限り、私たちはあれを諦められない」
「つ、使い手? 私はもらっただけよ。使い方なんて……」
「どうしてあなたなのか、理由は知らないわ。知りたいとも思わない。大事なのは、エラがあの靴を履けるってことだけ。
知ってる? 王子がエラを探したときにね、国中の娘がガラスの靴を履いたのよ。でも、ぴったり合ったのはエラだけだった。他の人が履こうとすると、まるで靴が縮んだみたいに拒否するの。ただの靴に、そんなこと有り得る? 有り得ないわよ。普通じゃない」
それでもまだ、あれが価値のない、ただの靴だと言い張るのかと問われ、エラは何も言い返せなかった。
「さて、おしゃべりはおしまい。
エラに見つかった以上、もうここにはいられないわ。無理矢理にでも、そこをどいてもらうわよ」
レオノーラが背中から一本の短剣を取り出して、顔の前で構えた。エラは反射的にぎくりと身を震わせるが、すぐに冷静さを取り戻した。
「邪魔なんてしないわ。逃げてほしいと、心から思ってるもの」
予想外のエラの返答に、レオノーラは構えを解かぬままに眉をひそめた。むしろ警戒の色を強くして「どういうこと?」と小さく問う。
「友達の無事を祈って、何が悪いの」
拍子抜けしたように、レオノーラの肩が落ちる。それでも警戒心を緩めないのは、彼女がプロである証拠なのだろう。
「エラ……。あなた本気? 私は、あなたの敵なのよ」
「本気よ。
罪を償ってほしいとは思うけれど、それ以上に……生きていてほしい」
ここにいたら、レオノーラはきっと処刑されてしまうから。そう言うと、エラは松明の明かりを消した。レオノーラが逃げやすいように道を開ける。レオノーラがエラの意図を理解して、息を飲むのが伝わってきた。
明るい光に慣れた目は、突然の暗闇にその機能を著しく低下させた。エラの瞳には、今何も映っていない。
当然のように、エラより先にレオノーラの目が回復したようだ。レオノーラが動く気配がした。
ふわっと風が揺れ動く。エラの髪がなびいた。誰かがエラの前を通り過ぎていくのを感じた。
見えないのはわかっていても、目がそれを追いかける。影はあっという間に月明かりの下に出た。そのころになって、ようやくエラの瞳にも影が視認できるようになった。
影は月明かりの下で一度止まった。エラは影と見つめ合う。やがて影はエラと反対の方に向けて、まっすぐに消えていく。それからエラは長いこと、影が消えていった方を向いて立ち尽くしていた。




