第8話 ダルクの訪問
次から2章です。
クロード王子の執務室でヘマをした日の夜。
イルーシャは初日の研修を終えて自室のベッドに寝転がりながら本を読んでいた。
本といっても自分のお気に入りのものではなく、今朝に女官長からもらった王宮規範書だ。
『誤って粗相をしてしまったとき』のタイトルが書かれた欄を熟読する彼女は、ページの端まで目を通すとまた大きなため息をついた。
(もし今日のことで解雇されたら……)
自分でもどうしてこんな時に限って失敗してしまったんだろうと思う。
(次に殿下とお会いする機会があったら改めて謝ろう)
そう決心したそのとき、コンコンと軽くドアをノックする音が聞こえた。
「だれ?」
返事は無かった。
疲れていたイルーシャはベッドに寝転がったまましばらく待ったが、もう一度ドアがノックされたのを機に重い腰を上げる。
「どちらさま?」
ゆっくりドアを開ける。すると突然、背の高い男が部屋に入って来て、イルーシャはびっくりして尻もちをついてしまった。
「こんばんは」
「うわっ、あの、ダルクさん!?」
半ば強引に部屋に押し入ってきた男は今朝王宮を案内してくれたダルクだった。彼は外に誰もいないことを確かめると、そっとドアを閉めて申し訳なさそうに会釈してみせた。
「突然押し掛けてすまない。ちょっと用事があって」
「用事ですか?」
なにかしら、と首をかしげるイルーシャにダルクは手を差し伸べる。
「クロード王子殿下からお届け物。はいどうぞ」
そう言って立ち上がった彼女に手渡してきたのは長方形の箱で、受け取った時になんとなく甘い香りがした。
中身は食べものらしい。
「王子殿下が?」
「そう。少なくとも解雇通知じゃないから安心してよ」
それを聞いてイルーシャの片眉がピクリと反応する。
「どういう意味ですか?」
「あ、いや、別に何でも無いんだ。それより王子殿下が『落ち込まないでそれを食べて元気を出せ』って」
ダルクに促されるがままに箱を開けてみると、中にいくつかのケーキが入っているのが見えた。
そう言えば殿下と好きな食べ物の話をしてたっけ……。
今朝たしかにイチゴとチョコは大好きと言ったが、覚えていてくれたのかイチゴとチョコのケーキが入っている。
でもなんだろう、この妙な違和感は。
「あの、今殿下はどちらに?」
「殿下?えっと、今は多分お部屋で休憩されていると思うよ。それがどうしたんだい?」
「いえ、せめてお詫びとお礼を言おうと」
「殿下になら僕が代わりに言っておくから大丈夫だ」
安心してくれと言われてイルーシャは引き下がったが、どうも彼は何かを隠しているような気がして不自然な感じが拭えない。
ダルクは訝しげな顔をする彼女から離れ、壁に手をついてニヤけた顔をする。
「そういや今日、王子殿下の前で粗相をしたんだって?」
イルーシャは今朝のヘマをした情景を思いだしてドキッとした。あわてて否定しようとも考えたが、あの表情はどうも事を知っている顔だ。
「ちょ、ちょっとお茶をこぼしただけです」
「随分と派手にやったのに?」
「どうしてあなたがそんなことまで知っているのですか!」
「僕は王子殿下お付きの近衛兵だよ?」
知らないわけないじゃないか、と彼は勝ち誇ったような笑みを向ける。変なところで負けず嫌いなイルーシャは劣勢に立たされた気がしてさらに何か言いそうになったが、これ以上自分の失態について言っても仕方ないと思い、ここはぐっとこらえて沈黙した。
「まあ僕も入った時はヘマばっかりして怒られたよ。慣れるまでの辛抱さ」
ダルクはそう言い残すと、じゃあね、とドアノブをひねって部屋を出て行こうとする。
そして半身が外に出かかったそのとき、
「待って」
自分でも無意識のうちにイルーシャは彼を呼び止めていた。別に何か言い残したことがあるとかそんなのじゃない。
女の勘というか、虫の知らせのようなものが彼女の心をざわつかせる。
「あなたは何者ですか?」
心の中にあった疑念を思い切ってぶつけてみる。
するとダルクは半身のまま少しおどけたように鼻を鳴らした。
「僕は王子殿下お付きのただの近衛兵。なんなら殿下に直接聞いてみなよ」
返事はそれだけで、間もなくイルーシャの部屋のドアは閉じられた。