第7話 ナジルという男
ナジルが執務室をあとにすると、室内は静寂に包まれた。
クロードがせめて目を合せるような仕草をしてくれれば会釈の一つでもして出ていけるものを、彼はひたすら執務机に向かって何かを書き続けている。
(これは出ていっていいのよね?)
一応は王子付きの女官。ナジルには付いて来いと言われたが王子から出ていっていいという許可はいただいていない。
するといつまでも部屋を出ていこうとしないイルーシャに彼から声がかかる。
「何をしている?」
「その……退出してもよろしいのかと思って……」
「あとのことはさっきの男に一任してある。彼から詳しい業務の内容をきくといい」
「は、はい」
「――なんなら俺が直々に“指導”してやろうか?」
ガタッと王子が椅子から立つ音がして、イルーシャはほぼ反射的に入口の方に駆けだした。
口づけされて言い寄られた後で、“指導”だなんてロクでも無いことに決まっている。
「し、失礼します!」
イルーシャは執務机の彼に向かって深々と一礼すると、そそくさと逃げるように部屋を飛び出した。
――☆――☆――☆――
(あれはどういうおつもりだったのかしら)
イルーシャは廊下を歩きながら、先ほどクロードから受けたキスの意味をじっくり考えていた。
彼は確かに“仲良くなりたい”と言っていた。けれど、冗談にしては度が過ぎる。
単にからかって遊んでいるのだろうか。それとも本気で――
(あれ、そういえばナジルさんは?)
ナジルを探して辺りをキョロキョロしていると、奥の階段を下って行く彼の後ろ姿が見えた。
意地の悪いことに彼は後から出てきたイルーシャを待ってはくれず、「付いて来い」と言った割に逃げるような足取りで下の階に向かっている。
(ちょっとは気を遣ってくれてもいいのに!)
なんて思いつつ、イルーシャは後ろ姿を見失わないよう必死で追いかけた。
外宮に向かう通路でイルーシャが追いつくと、ナジルは横目でチラッと斜め後ろを見てきた。
でも歩調を合わせてくれるような優しさはない。
「あの、」
何も会話が無いのは耐えられなくて、せめて自己紹介だけでもしようとイルーシャの方から声をかける。
少しくらいは気を向けてくれるかと期待したが、彼はうんともすんとも反応せず、前を向いたまま静かに歩き続けるだけ。
(もともと寡黙な人なのかな……)
無愛想な人ね、と内心で思っていると、ようやく彼の口が開いた。
「娘、わたしの後ろに付いて歩くのはやめておけ」
「え?」
突然のことに戸惑いを隠せずにいると、ギロッと鋭い眼光が背後のイルーシャに向けられた。
その目つきがあまりに怖かったので思わずビクッと身を震え上がらせる。
「わたしの背後につくな。並んで歩け」
「は、はい!」
低くて重い声。一体彼の後ろに付いて歩くことの何がいけなかったというのだろうか。
「す、すみません」
「わたしは軍人上がりの者だから誰かに背後を取られるのは好かんのだ」
ナジルは前を向いて歩を進めながら言う。
「軍人さんだったんですか?」
「数年前までは」
「えっと……、海軍ですか、それとも陸軍?」
「陸軍」
あっさりとした受け応え。いつもこんな感じなのだろうか。
「あの、失礼をしてすみませんでした。……目上の人の横に立つのはちょっと気後れしたんです」
「他の者にはそれでいい。ただわたしの場合は戦場での経験から背後を取られるのが大のニガテでな」
「戦場ではダメなんですか?」
「戦場では敵に背後を取られることは死を意味する。まあ王子付きの女官はあの執務室が戦場のようなものだが」
「?」
首をかしげるイルーシャをよそにナジルは大股で廊下を突き進んでいく。
お前の新たな寝室に案内する、というので黙ってついて行くと、王宮とは少し離れたところにある別館の2階にあがってようやく彼の足がとまった。
「ここが今日からお前の部屋になる」
案内された部屋は思ったより広々としていて、南向きの窓からは綺麗な庭園とその奥に海がみえた。
換気をするためか窓は開いていて、爽やかな海風に吹かれて水色のカーテンがゆらゆらと揺れている。ロックフォード家に仕えていた頃と比べると段違いの好条件だ。
しかもベッドや照明、収納棚といった家具類も完備されており、日当たり、景色も考慮すると一介の女官が住むには少し大袈裟にさえ思える。
「あの、私こんないいお部屋に住んでいいんですか?」
「王子付きの女官はこんなものだ。わたしは今から仕事の引き継ぎに行ってくるから、それまで部屋を片付けておきなさい」
ああ、それと、と部屋を出て行こうとしたナジルが踵を返す。
「一つ忠告しておくが、夜はカギを閉めて誰も部屋に入れないように」
「変な人でも出るんですか?」
「……王子殿下がでる」
「は?」
ポカンと口をあけるイルーシャ。
王子殿下がでるとはどういう……。まさか歴代の王子の中で悲劇の死を遂げた霊が――
勝手に想像を膨らませる彼女の前で、ナジルは言いにくそうに頭をポリポリと掻く。
「ヒントをやろう。これまで王子殿下を寝室に入れた女官はことごとく懐胎して里に帰っている」
「それヒントじゃないです……」
通りで鍵が頑丈に作られているわけだ。
そう言われると確かに手が早そうな人だったし。身分に関係なく“そういう行為”も平気でするような人なのかな……。
執務室でキスされたことを思いだしていると、ほぼ無表情だったナジルが去り際に笑んだ。
「冗談だ」
慣れないからなのか、それとも第一印象が怖すぎたためなのか、イルーシャにとってその笑顔は気味悪く映った。