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第6話 口づけ



こぼれた茶の大体を拭き終えると、クロードはまたふうと大きく息を吐いて立ち上がった。

きっと自分では想像できないくらい怒りも心頭に違いない。


「申し訳ございません……」


イルーシャは一発や二発叩かれることも覚悟で彼の前に頭を下げる。

でも意外なことに平手は飛んでこなかった。代わりに来たのは、ぽんと犬の頭を撫でるような優しい手の平の感触だった。


「ケガは?」

「はえ?」

「ケガはしてないかと聞いている」


意外なことにクロードは怒ったような表情ではなかった。とはいえさすがに笑顔だったわけではないけれど。


「あ、ありません」


ガチガチのままかしこまって返すと、彼はほっとした様子で軽く彼女の髪を撫でた。

そして涙ぐむイルーシャをそっと両腕で抱きしめる。


「泣かなくていいよ。失敗なんか誰にだってあるもんだ」


その温かい声を聞くことができて、イルーシャはようやく落ち着きを取り戻し始めた。

いい歳して泣きべそをかくなんて情けないと分かっている。それでも彼は完全に涙が引けるまで優しく髪を撫で続けてくれた。


「次からは気を付けてくれよ」

「はい……」

「――で、さっそくなんだが」


腕中からイルーシャを解放し、クロードは何かを言いたげに唇を歪ませる。


「?」


片付けのことだろうか、それとも粗相のことか。

罪滅ぼしではないけれども、もう言われることは何でもするつもりのイルーシャは熱心に彼の言葉に耳を傾ける。


「非常に言いにくいんだけども、エレナが茶をぶっかけた書類の中に軍事に関する機密文書があってさ」

「そ、そんな……」

「いや、別に俺は元通りに修復しろとか責任を取れともいわん。むしろこんなに散らかしてこうなったのは俺の責任でもあるし」

「仰ってください!お詫びなら何でもします!」


本当に?とクロードは小さな声で問い返す。

こうなってしまった以上、イルーシャにとっても全くお咎めなしとされるのは逆に気持ちが悪い。

迷うことなく首肯して見せると、今度は妙に彼の表情が明るくなった気がした。


「じゃあ君の10秒を俺にくれ」

「え?」


一瞬、彼女は言われた言葉の意味が理解できずに目をパチクリさせた。

10秒くれって……一体どういうこと?


「今から10秒間、君は何をされても抵抗しない。できるか?」

「な、何をなさるのですか!?」

「それはお楽しみ」


せめてそれは教えてもらわないと――

そう言おうとしたときだった。


急にクロードの顔が近づいてきたかと思うと、彼の唇がイルーシャの唇と重なった。


最初はあまりに突然のことで一体なにが起きたのか理解できなかった。


でも“その瞬間”というのはあまりに甘美で、まるで自分と彼以外のすべての時間が止まってしまったかのように長く感じられた。


ぎゅっと体を抱き締められ、彼の大きい胸が当たる。彼の体温、早く脈打つ心音、荒い息、すべてが唇を通じて伝わってくる。

もう何秒経っただろうか。

それすら分からなくなる。

強く抱きしめられると何故か自分も彼の唇が欲しくなる感じがして、イルーシャはわけがわからくなってしまった。


「あ…、あの……」


まるで酒に深く酔った時のように、まともな言葉が出てこない。

彼は魅惑的なその舌先で自身の唇に残る熱をかすめ取ると、また優しく笑んだ。


「これで“おあいこ”だな」

「殿下……」

「あと、誰かといるときは俺のことは敬称でいいが、二人きりの時はもっとラフな感じでいいよ」


クロードはイルーシャの腰にまわしていた手を離し、顔が見えるように一歩遠ざかる。


「あの…どうして……そのようなことをおっしゃるのですか?」

「それはもちろん、これから一緒に働く君と仲良くなりたいから」


だから、とクロード。


「二人きりの時は『エリー』と呼んでいいか?」


頬にそっと手を添えられ、笑顔を向けられたイルーシャに選択肢など残っているはずがなかった。

何でもする、といった手前で拒否することなんてできるわけがない。


でもよく考えればそれは決して承諾してはならないことでもあった。

たとえ二人きりであっても、エレナに扮しているイルーシャは一介の女官にすぎない。王子との“それ”は決して許されないのだ。


「答えは?」


彼はそう問うと、再びイルーシャの華奢な身体を抱き締めてそっと唇を近づけてくる。

――と、ちょうどそのときだった。


コンコンと執務室のドアがノックされた。


『失礼します』


低い声と共にドアが勢いよく開いたかと思うと、黒装束の男が入って来るのが見えた。


「朝からさっそく新人いびりですか、殿下」


男はこちらを見るや否や、呆れたように言う。

その見目は30代後半くらいで、男は口の無精ひげが特徴的な凛々しい顔立ちをしていた。しかも腰の辺りにサーベルが一本ある。軍人だろうか。


「邪魔をしに来たのか、ナジル」

「いいえ。議会から報告に参っただけです」


怪訝な顔をする王子にナジルと呼ばれた男は低い声を返す。


「ならちょうどいい。後でこの子に王室関係の公務を教えてやってくれ。新しい寝室も忘れずにな」


すると執務机の方に戻ろうとするクロードに、ナジルという男は眉をしかめてみせる。


「――ということは、まさかこの娘が例の?」

「そうだよ」

「…………。」


ナジルは棒立ちするイルーシャに冷たい一瞥を投げかけたかと思うと、どういうわけかガッカリしたようなため息をつく。

一体なにを期待していたんだろう、このオッサンは。


「ところで殿下、議会の方から第2号法案に関する書類の催促がきておりますが」

「ああ、今すぐやるよ。やればいいんだろ」


クロードは見るからに嫌そうな顔をして執務机のペンに手を伸ばす。

それ以降、あんなに悪戯だった彼が見違えるように大人しくなったのを見て拍子抜けしていると、入り口に立つナジルという男と目が合った。


「そこの娘、付いて来なさい」


彼は低い声でそう告げると、クロードに一礼することもなくパタンとドアを閉めてしまった。



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