第13話 ハプニング
ちょっと長めです。R15表現あり。
王子付きの女官というのは思ったよりヒマな職業でもあった。
教習官役のナジルから指導を受けている時間は覚えることが多すぎて嫌になったが、いざ研修を終えてクロードの執務室で仕事をするようになると、イルーシャはヒマすぎて逆に退屈になった。
というのも王子の専属ゆえ、王子が特に用を命じなければただ後ろで黙って立っているだけなのだ。
前の職場みたいに時間があれば他の持ち場の手伝いに行かされることもないし、人目を忍んで女子と井戸端会議することもできない。
クロードの真後ろに立って決裁書類、あるいは判子を手渡すだけの作業。
(ダルクは今頃どこにいるのかな……)
彼も王子付きの近衛兵だからすぐ近くにいるはずなんだけど。
窓の外に見える白い雲を目で追いかけていると、書類と睨めっこを続けていたクロードの方からガサゴソと音がした。
ふと視線を彼の背中に向けると、その前で何やら紙飛行機のようなものが折られているのに気づいた。――というか材料はぞんざいに扱ってはならないはずの書類じゃ……
(王子も忙しそうに見えてヒマなのね)
子供っぽいところもあると思ってクスッと笑うイルーシャに、彼の視線が向く。
「何か言いたそうな顔をしているね」
にこやかな表情をするクロードの手元には左右非対称の紙飛行機があった。「飛ばすから取ってこい、俺の飼い犬」とでも言う気なのかな。
「なぜ紙飛行機を作っていらっしゃるのかな、と思って」
「ああ、これか?」
どうせ大した理由じゃないだろうと高をくくるイルーシャ。でも返ってきた答えは意外にまともで、
「近いうちに孤児院に視察に行くことになって、せめて手土産でもと思ってはいるんだが」
と、語尾に含みを持たせる。
聞けば彼なりに努力して何かをプレゼントしたいらしく、子供らが喜ぶものを作ろうとするのだけど上手くいかないと。
てっきりヒマだから作っているのだと侮っていた彼女は自分自身に恥ずかしさを感じると同時に、クロードに対してポジティブな感情を抱いた。
「殿下、要らぬお世話かもしれませんが、私なら他にもいくつか折れます」
差し出がましいと思われただろうか。
でもそんなイルーシャの密かな心配は彼の明るい笑顔が完全に打ち消してくれた。
「本当に?たとえば?」
「そうですね、ツルとかウサギなら」
「へえ、じゃあ試しにツルから折ってみてくれ」
クロードはさっそく正方形の紙を一枚手渡すと、興味津々といった様子で作業を覗き込んできた。
小さいころによく近所のおばさんから折り紙を教えてもらっていたので、イルーシャは懐かしい子供のころの記憶をたどりながらあっという間に一羽の折鶴を完成させる。
その寸分の狂いもない折り目に気後れしたのか、クロードは自分が折ったヘタクソな紙飛行機を恥ずかしそうに机の下に隠した。
「凄いじゃないかエレナ。横に座って俺にも教えてくれよ」
クロードは自分が座っていた椅子の半分を空け、彼女が腰掛けるためのスペースを作る。
本当は昨日みたいにまた胸を触って来るんじゃないかと警戒していたけれど、座れと言われて座らないわけにもいかない。
「失礼します」
一礼して遠慮がちに椅子に腰かけると、さっそく彼の視線がイルーシャに手元に落ちてきた。
「もう一度同じものを作ってくれ」
「ではまずこの紙をここで折って綺麗な三角形を作ってください」
「こうか?」
「そうです、それをそのまま真ん中から――」
一つ一つ丁寧に手順を教えていく。彼も不器用なりに綺麗に折ろうとしているようで、次第に彼女は警戒を緩めて体重のほとんどを椅子に預けるようになっていた。
そしてあと一歩で完成、というところでハプニングが起こった。
「最後にその真ん中の折り目を横にしてください」
「こ、こうなのか?」
「いえ、そこじゃなくて!」
パッと反射的にイルーシャの手がクロードの手を押さえる。
イルーシャは折り目を間違える彼を制止しようとしたのだが、気付くと二人の手は重なり合っていた。
これにはクロードの方が豆鉄砲をくらったような顔をする。
「エレナ?」
「あ、あの、すみません!」
あわてて手を引っ込めようとしたがわずかに遅かった。
「エレナの手って、よく見るとすごく小さくて可愛いな」
「殿下……」
クロードは彼女の手をぎゅっと強く握り、離すまいと自分の方に近づける。そしてまじまじと手の甲をみたあと、そこに静かに口づけを落とした。
完全に捕まえた、といわんばかりの目だ。
「そうやって恥ずかしい時は顔を下に向ける仕草も俺の好みだ」
「なん、何のことでしょう」
「分かっているくせに」
急にクロードの目がイルーシャの目を捉えたかと思うと、彼はさっきとは比べものにならないくらいの力で抱き寄せてきた。
それがあまりに突然のことだったのでバランスを崩した彼女は、思わずクロードの硬い胸に手をつく。
「殿下!折り紙の方は――」
「そんなの後でいい」
なんとか気を逸らそうとするイルーシャをクロードは一蹴する。
「それより、こないだの答えを聞かせてよ」
「こ、こないだ?」
「二人きりのときは君のことを“エリー”と呼んでいいか、っていうやつ」
思い出した。そういえばそんなことを聞かれたんだっけ。でもあの時は確か王子の方が呼ばれて答えは保留したんじゃ――
「それは……殿下の御意志に委ねられるところが大きいかと」
素直にどうぞと言えたら楽なのに、どうしても言えずに言葉を濁す。でもクロードは彼女の口から直接許しをもらいたいようで、
「わかった。じゃあ3つの選択肢から君の呼び名を一つ選んでくれ」
「は?」
「飼い猫、飼い犬、エリー、この3つだとどれがいい?」
「エリーの方がいいです」
少なくとも“飼い”が付いて呼ばれたんじゃ恥ずかしくて仕方ない。それに、腕をつかまれた状態で拒否なんてできるわけがないのに。
なんて意地悪な人。
「愛してるよエリー」
「え?」
温かい吐息が耳朶に触れる。
その名で呼ばれるのは少し嫌な感じがするのに、呼んでもらえることに安心する自分がいる。どうしてだろう。
「二人きりの時は俺のこともローと呼んでくれていい」
ローというとクロード王子の幼いころからの呼び名だ。ナジルが昨日教えてくれた。
「承服しかねます」
「どうして?」
「そんな失礼極まりない事、たとえ御命令されても……」
そもそもその名は現在の王妃、つまりはクロードの母親だけが使う愛称。その名で呼んでいることを外部に知られれば最悪の場合、不敬罪になる。
「じゃあどうやったら君は俺だけを好きになってくれる?」
「殿下だけを?」
「俺に内緒でダルクと昨日会っただろう?」
イルーシャはその名を言われてギクリとした。どうしてクロードはそんなことを知っているの……
もっとよく考える時間があればなんとでも誤魔化せたものを、彼は言い訳をする時間すら与えてくれない。
「まさか知っていないとでも?」
「いえ、あの人とは本当に何も無いんです」
「どうしてそう言い切れる」
「どうしてって……何もしていないからとしか」
「本当は“こんなこと”をしていたんじゃないか?」
クロードは身を縮ませるイルーシャの腰に手を回し、強引に引っ張って無理やり口づけようとしてくる。
「おやめください殿下!」
まるで獣のような目をするクロードに恐ろしくなって、イルーシャは必死に身をよじる。それでも彼の腕の力は弱まらない。
「可愛いよエリー。昨夜あいつと一緒にいたなんて妬いてしまいそうだ」
「あの人とは本当になにも無いんです!」
「まだ信じられないな」
「あっ、殿下――っ」
頬に柔らかいキスをされたあと、首元からうなじにかけて熱を帯びた吐息がかかる。
その間、イルーシャを固定する彼の腕は抵抗を試みる彼女の腕を痛いくらいに押さえつけ、あまりの力強さに怖くなって涙する。
「お願いします殿下!!土下座でもなんでもしますから許してください!」
「許さないと言ったら?」
「殿下のことを嫌いになります!」
それは考えて出た言葉ではなかった。
咄嗟についたウソというのも語弊がある。あえて言うなら本心から出た自然な言葉。
するとクロードは一瞬びっくりしたように目を見開いて、信じられないくらいあっさりと解放してくれた。
「それはいけないな。エリーに嫌われたら困る」
何事も無かったように笑みで繕うけれど、いま確かに彼は動揺した。その証拠にいつもより笑顔が固い。
やんわりとした微笑は影を潜め、代わりに頬を少し引きつらせた苦笑に近い表情がイルーシャの瞳に映る。
「確かに冗談が過ぎたよ。すまない」
「いえ、別に……」
「ごめんな」
クロードは少し寂しそうな声で謝る。じゃれついた仔犬がご主人様にひどく怒られて落ち込むような。
それを見ているとだんだん被害に遭ったはずのイルーシャの方が悪い気がしてきて、ちょっと複雑な気分にさせられた。
「あの」
落ち込まないでくださいね、というとまた彼が腕をつかんでくる気がして、どうしてもそこから先は言えなかった。
クロードの方も言いかけた言葉に反応する素振りは無く、それ以降、彼は平静を取り戻して黙々と仕事をし続けた。