第11話 不意に
あっという間にデザートを完食すると、膝から降りようとするイルーシャをクロードが引き留めた。
「エレナ、こっち向いてよ」
何だろう、と思って満足げな表情を後ろにやったときだった。突然、唇が彼の唇と重なった。
優しげな微笑を浮かべたまま目を閉じるクロードは、熱のこもった舌先を彼女の唇に伝わせていく。
「――っ!?」
なにが起こったのか分からないまま呆然とするイルーシャに、彼はまた不敵な笑みを送る。
「口の周りにクリームがついてたから」
そんなのウソに決まってる。
口調からなんとなくそんな気がしたけれど、イルーシャは何かを言い返す気にはなれず、そのまま視線を床に落とす。
(どうしてこの人はこんなに――)
すると今度はクロードの手が彼女の服の中に入って来て、腰のあたりから胸にかけて指先で弄ろうとしてきた。
これにはさすがのイルーシャもびっくりして、半ば転げ落ちるようにして彼の膝から飛び降りる。
「で、殿下、なぜこのようなことを……」
「なぜだって?」
眉をしかめるクロード。
次の瞬間、急に彼が椅子から立ち上がったかと思うと、イルーシャの方に大きく踏み込んできた。
「ちょっ――殿下!?」
間合いを詰められ、王子がこちらに一歩踏み出してくるたびに彼女の足も一歩下がる。でもすぐに暖炉脇の壁に追い詰められてしまった。
「君は何か勘違いしているんじゃないか?」
クロードは彼女の顔のすぐ横に手をついて微笑する。
「あ、あのっ――も、もし私が失礼なことをしてしまったのなら……申し訳ありません」
「そうじゃない。エレナ、君の自分自身の身分を思い出してごらん」
「え?」
自分自身の身分というと、今は王子付きの女官になる。正式な名称は王家専属女官で、その名の通り王家に仕える従者。なので正直に「殿下の女官です」と小さな声で言うと、彼はとても満足げに笑んだ。
「俺の女官なら、俺の言う事は何でも聞かなければいけないんじゃないのか?」
「そんな……」
何でも、のあたりを意味深に強調してクロードはイルーシャの唇に近づいてくる。
身をよじって逃げようとしても、彼が顔の真横に手をついているせいで逃げられない。
「それに昨日、『なんでもします』って言ってくれたよな?」
「でもそれは――」
「エレナは俺に嘘をついたのか?」
「ちっ、違います!」
王子に嘘をつくだなんてできるはずがない。――といいつつ、エレナに扮している時点で嘘をついているけど。
あわてて全力で否定するが、肯定しようと否定しようとイルーシャは悪い方向に追い込まれていく。
「じゃあなんでもできるんだよな?」
「は、はいうぅ……」
「それなら俺にキスしてよ」
そっと彼の方から唇が差し出される。
(こんなこと……)
心臓がドキドキする。
本来はこんな要望を承諾してはいけないというのに……。
目を閉じて再び唇を重ねようとする彼の美顔を見て、イルーシャはぎゅっと強く目をつむる――
――そのとき、クロードの動きが止まるのと、入り口から「ゴホン」というわざとらしい咳払いが聞こえてくるのは同時だった。
「お楽しみ中に失礼します」
ドア前に立つ声の主は昨日と同じ黒装束のナジルだった。仕事関係のものなのか、手元にはいくつかの紙が見える。
彼は中の様子があまり見えないよう、素早くドアを閉めると気をつけの姿勢のまま軽く頭を下げた。
「お楽しみ中だとわかったなら何故ノックの一つもしなかったんだ」
邪魔をされたクロードはどこか不機嫌そうに言う。
「わたしはちゃんと戸を鳴らしましたが。殿下がお気づきにならなかったのでしょう」
さも「そちらに過失がある」と言わんばかりの言い草だ。
一国の王子に向かって言うには随分と厚かましい口調に感じられたので、イルーシャはクロードの機嫌がさらに悪くなるのではないかと懸念した。しかしナジルの悪態は昔かららしく、王子の方も取り立てて気にする様子は無い。
「で、何の用だ」
「用があるのはその娘の方です。女官の新人研修を行おうとしたら宿舎にいなかったので探しておりました」
ナジルは女官長にイルーシャの居場所を聞いて来たのだという。
(そういえば今日は朝から新人研修の予定が入っていたわね)
入りたての女官は初日に職場の挨拶めぐりを終えた後、翌日から王城勤務で必要となる知識や作法の特訓を受けると決まっている。
それに研修の期間は大体一週間くらいで、詰込み型の教育と聞く。まあ詰め込みというくらいだから覚えることも山ほどあるのだろう……
なんて思いながら苦い顔をしていると、クロードが小さな声で「研修なんてあるのか?」と訊いて来た。
イルーシャがコクリと頷くと、彼は手中から彼女を解放して重い息をついた。
「先約が入っていたならそう言ってくれればよかったのに」
王子はどこか名残惜しそうに唇を歪める。でもすぐに彼女の腰に手を回してきて、
「終わったら早く帰ってこいよ」
と耳元で優しく囁くのである。
その様子を正面のナジルが“妙な目”で見てきて、イルーシャは急に恥ずかしくなって視線を床に落とした。
「殿下、要らぬお世話とは分かっておりますが、くれぐれも“過ち”の無いように」
ナジルはそれだけを言い残すと、彼女に一瞥を投げかけてからさっさと部屋を出ていってしまった。