第9話 王子殿下の要望
女官の朝は早い。
王族らがまだ寝ているような早朝から動きはじめ、その日の行事がスムーズに進行するよう準備をしなければならない。
彼女らにはそれぞれの持ち場というものがあって、王宮の清掃や茶会の用意と忙しく、イルーシャもまた例外ではない。
「女官研修がある」と言われ、朝の早くに叩き起こされた彼女は目をこすりながら宿舎の食堂に向かう。
あるとき、イルーシャが食堂で朝食のパンとスープを頬張っていると、横の席にきた一人の女官が話しかけてきた。
「ねえ、あなたがエレナさん?」
「そうですけど」
イルーシャは眠たそうな声を返す。
すると彼女より歳が3つほど上と見える茶髪のポニーテールの女官は、ほっとしたような顔をした。
「よかった、やっと見つけたわ」
「私に何か用ですか?」
スプーンを持ったまま問い返すと、女官は出口の方を指差して言う。
「女官長が『すぐに王宮殿に来い』って言ってたわよ」
「王宮殿?」
なぜそんなところに、と聞き返そうとしたところで、頭の中にニヤつくクロードの顔が浮かんだ。
まさか昨日のヘマを女官長と一緒に謝らせようというのかしら。でもそれなら昨日のうちに……。
早めに食事を終えてすぐさま宮殿の方に向かうと、渡り廊下の真ん中で女官長の姿を捉えた。
「お、おはようございます」
自信なさ気に弱々しく挨拶すると、彼女はイルーシャを見て軽いため息をついた。
来いと言ってもなかなか来なかったことに呆れたのだろうか。
「あの、お呼びでしたか?」
「……いいからついてきなさい」
女官長はイルーシャの質問には答えず、すぐに踵を返して宮殿の方に向かって歩き出した。
もしかして怒っているのかしら。
後ろに付くイルーシャは終始不機嫌そうな理由を考え続けたが、出る答えはやはり自分の粗相の件だった。
一体何を言われるのだろうかとビクビクしながら連れてこられたのは、昨日イルーシャが紅茶をこぼした、ある意味で思い出のある執務室。
女官長は「殿下がお呼びです」とだけ告げると、イルーシャの期待とは裏腹にさっさと帰って行ってしまった。
一緒に謝ってくれるわけではないらしい。
ぽつんと一人取り残された彼女はしばらくその場でじっとしていたが、このまま部屋をノックしないわけにもいかず、覚悟を決めてようやく拳をドアにあてる。
「どうぞ」
まるでイルーシャを待っていたかのように、ノックしてから数秒後にはクロードの声が外まで届いてきた。
「失礼します」
ゆっくりとドアを開けて一歩、また一歩とおそるおそる入室する。
昨日の件で怒られるんじゃないかという不安と、王族に会うという緊張で彼女の心臓はいつもより早く脈打っていた。
「おはよう、エレナ」
奥の窓の方から聞き覚えのある声がした。
ふと視線をあげると、執務机の前に座るクロードの笑顔が見えた。機嫌も良さそうで、どうやらお叱りをするつもりはないとみえる。
「おはようございます殿下。昨日は大変ご迷惑をおかけして……」
「別にいいよ。それよりそんなところに立ってないでこっちに来てくれ」
ちょいちょい、と手招きされ、肩をすぼめるイルーシャはまたおそるおそる彼の方に向かって歩を進める。
すると部屋の真ん中に来たくらいで香ばしいパンの匂いがしてきて、執務机に目をやると豪華な食事が並んでいるのに気づいた。
彼は仕事場で朝食を摂るようだ。
「お食事中とは知らず失礼しました」
「気にしないでくれ。あえて食事中に君を呼んだのは俺の方だから」
あえて食事中に呼んだとはどういうことだろう。
よく見るとクロードは手元の食事にほとんど手を付けていないように見える。疑問に思っていると、急に彼の方が机上のフォークとスプーンを差し出してきた。
「俺に朝食を食べさせてくれ」
「は?」
別に聞こえなかったわけではないけれど、信じられない言葉が聞こえた気がしてイルーシャは思わず聞き返す。
「あの、どういう意味かわからないです……」
「簡単な話だ。この食器を使って俺に朝食を食べさせてくれと言っているんだ」
ほら、とクロードは綺麗なままの食器をイルーシャの前に置く。
冗談で言っているのかと思っていたが、表情を見る限りどうも本気らしい。
「そんな、私のような下賤な者が殿下にお食事を“食べさせる”だなんて畏れ多いことです」
まさか幼児じゃあるまいし――とは口が裂けても言えず。
すると椅子に腰かけるクロードは少し笑んだかと思うと、白々しく、
「昨日ここで紅茶を盛大にぶちまけたのはどこの誰だろうね。ん?」
「そ、それは……」
うつむくイルーシャ。
彼女が何も言い返せないことを知ってのことだ。
(王子殿下も優しそうに見えてちょっと意地悪なのね)
唇を真一文字に噛みしめていると、微笑を浮かべるクロードと視線が合ってドキッとした。
「申し訳なく思ってる?」
「それはもう!自分でも大変なことをしてしまったと」
「じゃあお詫びに朝食を食べさせてよ。君の手で」
この時点ですでに彼女の敗北は明らかだった。
それに、昨日の自分が「何でもします」と言ったことを思いだし、イルーシャはようやく白旗をあげた。