001:ダイビング・ダイナミック・エントリーアース
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ずいぶん長く旅をしたかと思えば、時計を見ると5分も経っていなかった。
思い出すのは、遊び道具のように用意された特別な能力と、今いるこことは違う別の世界。
そこにいたのは、作り物ではない本物の命と、無数の意志。
それらが複雑に入り乱れた、この世界となんら変わらない、面倒極まりない世界の姿を思い出す。
うんざりするほどに長く、右往左往し迷いながらも歩みを止める事が出来ない、とても遠い旅路だった。
この世界では見られない景色を幾つも目にし、そして恐らく二度と見る事はないだろうと思う。
あの世界の夜はこの世界と比べ物にならないほど闇が濃く、その中には悪意や敵意、嘘や欺瞞、邪悪や醜悪さといった魔物が棲んでいた。
その魔物とは、闇を見た者が自分の中に勝手に作り出したモノだったのか、あるいは人ならざる者が作り出したモノだったのか。
今となっても、結局そこのところは分からない。
もっともそれは、一緒に旅したあの少年には、どちらでも良い話だったらしい。
相手が何モノだろうが、どんな事情や背景を持とうが、それが障害物であればとにかく殴り倒すのみであった。
普段は利口な子犬のように物静かでありながら、ある時は大嵐のような暴力で何もかもを根こそぎ吹き飛ばす。
そんな彼と、自分と同じプレイヤーや、その世界で出会った仲間たち。
一緒に乗り越えた、あの長い冒険を思い出す。
この記録はゲームではない。
曰く、
『ゲームみたいでゲームじゃない世界を殴って進むRPG』
VRMMORPG『ワールドリベレイター/オンラインユニオン』における最も基本的な戦闘職の『戦士』、レベル10。
これが、姫城小春の現状でのステータスだ。
最初に選択する基本的な職種のひとつで、膂力や体力といったステータスも前衛向けとなっている。
そして戦闘熟練度の向上、つまり『レベル』アップする事により、更に専門的な戦闘職へと派生できる。
小春は他のクラスに手を出していないので、戦士職で修得出来る技能しか持ち合わせていない。
よって、走力や速力のパラメータにプラス補正を加えてくれそうな技能は無かった。
それどころか重装備が祟って、速力にマイナス補正がかかっているという。
「フッ! クッ……ハァッ! ハァッ!!」
かと言って足を止めるワケにもいかず、明るい髪色のロングヘアを振り乱し、美貌の女戦士は森の中を走る。
その取り囲むようにして女戦士を追う影が十数体分、木々の間に迫って来るのが見えた。
うち一体が戦士の前に回り込み、石で出来た頭ほどの大きさがある鈍器を振り上げる。
「ッ……ソードチャージ!!」
女性は声による入力と、生体パルスインターフェイスとの同時入力で、戦士系の技能を放った。
ソードチャージ、熟練度5。
近距離射程、物理攻撃力×1.1倍、確率で軽量の標的にノックバック判定あり。
「ゴブーッ!?」
長剣の刃を立て体ごとブチ当たると、進路上に立ち塞がっていた小柄な影を突き飛ばす。
強力な打撃を喰らった方は、地面を転がりながら悲鳴を上げていた。
一撃で倒すまでの威力はなかったが、足を止めてトドメを刺しているような余裕は無い。そんな事をしている間に囲まれて終わりだ。
「ヒィ……! やだ……ヤダッ!! ミコ! カナちゃん!? どこッ!? ソロなんて……無理だよぉ!!」
追い付かれたら、死、あるのみ。
背後から追いかけて来る集団に、どんな惨い目に遭わされる事か。
想像すると喉が干上がり、既に限界まで負荷のかかる心臓は、潰れそうなほどに爆動する。
「ぅ……あ! ッぁあ!? とッ! ぅづあああああああ!!?」
だが、ここまで死に物狂いで走って来た女戦士にも、遂に限界が。
横たわる倒木を飛び越えた次の瞬間、水が溜まってぬかるんでいた地面に足を取られ、思いっきり倒れ込んでしまった。
顔面から突っ込み、魅力的な容貌が泥に塗れる。
慌てて立ち上がる女戦士だが、その瞬間手の中に在るべき重さが無いのに気が付いてしまった。
「けッ――――――」(剣は!?)
そこそこ良い値段がした鋼の長剣は、倒れた拍子に手からすっぽ抜けたらしい。
僅かな間、呆然とする女戦士だったが、すぐに我に帰る。
武器が無くてはもう戦えない。逃げるしかない。
でも、遅かった。
「シャー!!」
「ゴアッ! グアッ!!」
元々、この森を住処にしているモンスターと追い駆けっこをするという事自体が無謀だったのだ。
僅かな足止めで追い付かれ、あっという間に囲まれてしまう鈍足の女戦士。
暗緑色の皮膚を持ち、人間を縦に潰したような怪物は、石斧や木の槍といった原始的な武器を振り上げ、獲物を威嚇していた。
美貌の女戦士を囲むのは、邪精霊種の下級モンスターとされる『ゴブリン』だ。
ゲーム中にて最もザコとされるプレイヤーの敵で、戦士職レベル10の小春なら苦も無く倒せる相手だった。
ただしそれは相手が2~3体で、命の危険が無いゲームの中ならばの話。
20体以上はいる、ゴブリンの集団。
しかも、今は武器も無い。
パーティーの仲間とも逸れてしまった。
「う、ウソ……? これで――――――――」
お終いなのか。
なんて、まるで現実感が無かった。
ゲームのプレイ中ではよくある事だ。
体力値が底をつき、回復アイテムも無く、次の攻撃を避けられないという状況。
所謂、『詰んだ』というヤツだ。
もうあと何秒もしないうちに、最後の一撃を喰らい、自分はゲームオーバーとなるだろう。
しかし、ここはゲームではなく、現実だった。
コンテニュー無し。リスポーンの有無は不明。
ダメージエフェクトや体力値減少などでは済まされない。
凶器による殴打がなされれば、皮膚が裂け、肉が潰れ、骨が砕かれ血が流れる。
ゲームオーバーなどではない、凄惨で酸鼻な『死』。
それをまるで想像出来ず、美しい戦士は自分の頭へ振り下ろされる武骨な鈍器を、呆けた顔で見上げるしかなく、
ドガゴンッ――――――――――!!! と。
「ギャプッ!!?」
「ふぬぉッ!!?」
頭が叩き割られるかという直前、目の前に居たゴブリンが、斜め上から猛スピードで落下して来た何かに押し潰されていた。
「…………はぇ?」
女戦士の見ている先で、なにやら物凄い勢いで転がって行く元ゴブリンだった物体と、もうひとつの何か。
泥を巻き上げ、藪を蹴散らし、他のゴブリンもボーリングのピンのように薙ぎ倒した謎の物体は、人間程の太さがある木に激突した末に、その木をへし折って静止した。
「ギッ…………?」
「な…………何ごと!?」
襲っていた方も襲われていた方も、思わず倒れた木の方を凝視してしまう。
打って変わって静まり返る現場。
やがて、モゾモゾと動き出す地面に落ちた黒い物体。
「ッ痛ぇえ…………マジか……。普通なら死んでるぞコンチクショー…………」
まさか、と戦士職の女が目を見張る。
黒い塊だと思ったそれは、黒い衣を纏ったひとりの青年だった。
それも、鋭い目付きと声が無ければ、女性と言っても通じるような結構な美丈夫。
赤混じりの黒い髪を長過ぎない程度にしている、そこそこ背の高い細身の体型。
惜しむらくは後5年、いや3年早ければ良かったのに、と女戦士は残念に思うものである。
そんな事を言っている場合ではないのだが。
「…………何これ? どういう状況??」
立ち上がった黒い衣――――――黒い胴着と袴の青年は、土やら小枝を払い除けながら周囲を見回す。
そこでようやく緑のモンスターやら女戦士やらに気が付くと、精悍な顔を呆気に取られたモノに変えた。
思ったよりずっと子供っぽい表情に目を奪われていた小春だったが、我に返るや大声を上げる。
「危ない逃げ――――――――!!」
「グッゲー!!」
しかし、僅かに遅くゴブリンが気を取り直す方が早かった。
潰れた人間に似た緑の怪物は凶器を振り上げ、未だ何が起こったのかを把握していない袴姿の青年に飛びかかり、
「っとお!?」
軽く躱わされた挙句、横っ面に凄まじい打撃を喰らい、大きく弾き飛ばされていた。
「何なのさ、いきなり!? 」
「…………な…………え?」
拳を固め、怪訝な顔をして文句を叫ぶ青年に、目を丸くする女戦士。
殴り飛ばされたゴブリンは、宙を舞って森の奥へと消えていた。
正直、女戦士には何が起こったのか良く見えなかったのだが。
「ガー!!」
「ギガガガガガ!!」
「お? おお!? ま、待て待て待て待て待て待てちょっとおい!!?」
どうやったか知らないが、攻撃された、と判断したゴブリンの群れは、一層激しく叫びながら黒い袴の青年に襲いかかった。
ボロボロの赤サビと化した剣を振り下ろす、モンスターの一体。
うろたえ、慌てふためく青年だが、その一方で動きに淀みは無く。
身体を逸らすだけで攻撃を避けると、剣を持つゴブリンの腕を取る。
すると、途端にゴブリンの上体がつんのめった様に泳ぎ、
「ほッ」
と青年が掛け声を発すると、剣を持った手首を支点にしてゴブリンが宙返りし、そのまま背中から地面に叩きつけられた。
次に向かって来た手斧持ちのゴブリンは、凶器を振り下ろす軌道を簡単に受け流されて、首を手で刈られて後頭部から地面に落とされる。
また別のゴブリンは、突っ込んで来た所で足を踏まれ、顔面から地面に倒れ込むと、思いっきり後頭部を踏みつけられていた。
「ふんッ!!」
尚も向かって来るモンスターへ、カウンターで前蹴りを叩き込む。
後ろ回し蹴りでまた一体を宙に舞わせ、掌底で打ち下ろし、背後のゴブリンへ肘を落とす。
それらがほぼ一瞬で、いつ動いたかも分からない。
後には、薙ぎ倒され、地面に倒れて呻き声を上げる、醜い怪物が残された。
「いやホントなんなのよこれは!? ジイちゃん……どこ行った? ここどこよ? 何があったの?」
クエスチョンマークで頭をいっぱいにしながらも、緩く握った拳を腰の前へ下ろした構えを解かない袴の青年。
女戦士が素人目に見ても、その青年は明らかに只者ではないのが分かった。
「スゴ…………? え? グラップラー…………??」
プレイヤーがゲームとして得るスキルとは違う、不遇職のモンク系とも何かが違う。
一連の動きの全てが流れるように移り変わる、美しいプレイヤーズスキル。
そして、武人の胴着と袴を違和感なく着こなし、細身でありながらどっしりと構えて見せる、未だにパニックな美丈夫。
少年、村瀬悠午と姫城小春の出会いと旅路は、このように始まった。