口内炎エレジー
口内炎。
それは種々の原因によって口腔粘膜に損傷を来し、総じて物理、化学的刺激に反応して鋭い痛みを発する。
細菌やウィルスの感染によっても生じ、放射線治療や抗がん剤治療などの副作用で現れることもある。それぞれの病態や症状は大きく異なる場合が多く、一般的な口内炎――粘膜上皮が丸く欠損し、大きさはせいぜい数ミリのくせに激しい痛みを感じさせるあいつは医学用語でアフタ性口内炎 Aphthous ulcer と表記する。
今、私の下唇には一つの口内炎がある。
二日前に突然発生したのだ。
原因で思い当たる節はいくつかある。食事中に噛んだような気もするし、そういえば飲み会が続いて生活習慣も乱れていた。けして身体にいいとは言えない居酒屋メニューばかり食べていたし、栄養バランスも崩れているだろう。
つまるところ原因療法(ウィルスに対する抗ウィルス約投与など)が可能なものではないため、痛みを取る対症療法を行いながら自身の治癒力を高める努力でもするしかない。
歯医者に行って薬をもらってもいいのだが、多くの場合は塗り薬を出されるだけでそこそこ高額な初診料を払うだけになる。むし歯でも見つかったら通わねばならないし、我が国の医療費をわずかでも削減するために協力を惜しまないのが私のスタンスだ。
断じて歯医者が怖いわけじゃない。
だいいち口内炎で死ぬということもあるまい。
調べてみれば口内炎が全身疾患の症状の一つである場合もあるとのことだが、ネットで仕入れた不確かな情報で無駄に騒ぎ立てるようなことはしない。
自己診察の結果、私の左下唇の粘膜――赤唇移行部から粘膜側に五ミリほどの位置に現れた口内炎は、周囲粘膜との境界が明瞭で硬結を伴わず、長径四ミリ、短径三ミリの孤立性のアフタであり、種々の全身疾患を疑うような病変ではない。希に口内炎の様に見えて初期の口腔粘膜悪性新生物――癌である場合も確かに存在するが、私のこれは違う。
免疫抑制という恐ろしい副作用があるステロイド軟こうに頼らずとも、放っておいても大抵は三日から一週間ほどで痛みは消え、二週間も経つ頃には健常粘膜が回復する。
口内炎なんて年に一回くらいは誰でもできる。
気にすることはない。
ちょっと食事をしたり話をしたりするときに痛いだけじゃないか。日本男児たるものたかが数ミリの病変ができたぐらいでオタオタしたりグチグチと嘆いたりしないものだ。
それに、口内炎ができたことで悪いことばかり起きる訳じゃない。
例えば今日、職場のマドンナとこんな会話をした。
「おはようございまーす。てか會田さん、なんか今日喋り方変じゃないですか?」
口内炎が鋭利な犬歯に触れないよう、妙な形に口をすぼませて挨拶をしたのが面白かったのだろう。ライトブラウンの瞳――が珍しく私の顔に固定された。
「いや、ちょっと口内炎ができちゃってね」
二言三言話すだけで激痛が走る。思わず顔を歪め、ひいっ、と妙な音を立てて吸気してしまう。意味がないどころか乾いたそれを舐めてまた痛くなると分かっているのに、口内炎ができるとなぜかやってしまうのだ。
腕に傷ができたとしよう。
痛いとわかっていてわざわざ触る阿呆はいない。
しかしなぜだろうか。
口内炎は触ると痛い。同じ大きさ深さの皮膚にできた傷とは比べ物にならないほどだと私は思う。それなのに、舌先は誘われるようにそこへ行ってしまう。
痛いと分かっているのに不思議なものだ。
そう言って顔をしかめてみせると、マドンナはコロコロと可愛らしい子犬のように笑った。そして、
「じゃあ、會田さんのお茶、温めに作りますね」
と言って立ち上がったのだ。入社以来彼女が私に笑顔を向けたことなどないと言うのに。
ほどなくして運ばれてきたお茶は本当にほどよい温度に調整されており、「なんか、會田さんていっつも怖そうにしているけど、かわいいとこあるんですね」と言って肘で突いてくるというオマケまで付いてきた。彼女の香水の香りと女の色香をいつもより近くに感じ、年甲斐もなく胸が高鳴った。
男女の会話というものは共通の話題がないと盛り上がらないという。
口内炎はたしかに痛い。
これがあるせいで食欲を満たす時間がただの苦痛にしか感じないし、夜中に痛みで目覚めてしまおうものならもう眠れない。
だが、こんな小さな、些細なとしか言えない病変のおかげでマドンナと会話ができた。
もしかしたら突然鳴らされたインターホンに応じてみると、マドンナが戸口に立っていて、「會田さん、お食事ちゃんとできてますかぁ?」なんて……あるわけないか。
稚拙な妄想に蓋をして、私は家路を急ぐ。
二日前から家内は口内炎で苦しむ私の姿を見ている。
きっと今夜は口当たりの優しい料理が食卓に並ぶことだろう。
そう、私にはマドンナの淹れてくれたお茶よりも暖かい家庭がある。
あっという間に家の玄関前までたどり着いた。
食欲をそそるいい香りがあたりに漂っている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お父さん! お帰り!」
声だけは明るく迎えてくれたが、妻と五歳になる息子は姿を見せない。嘆息して靴をスリッパに履き替え廊下を進むと、キッチンの方から楽しげな二人の会話が聞こえてくる。
「そうそう、じゃあ、火を止めて――」
「よく混ぜんるんだね!?」
「そう。飛び散らないようにゆっくりとね?」
玄関ドアを開ける前からわかっていた。
我が家は毎週木曜日の夕食はそれと決まっている。最近は料理に興味を持ち始めた息子と妻の合作を披露してくることも多い。
家族のだんらんを何より重んじるというのは、私が唯一父親面をして定めた家訓だ。
しかし、今夜ばかりは回れ右してコンビニにでも行きたい。
毎週木曜日はカレーだ。
今夜は息子の甘口を分けてもらおう。