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雨中胸大

 秘密とはおもしろい物だ。密封びんに入れてしっかり蓋をしてもその香りはすぐにあたりに広がってしまうのに、ポットに入れてお湯を注いでも、ときにはカップに入れてクッキーの準備をしても誰からも気づかれない。

 ぼくは今、岡島さんに恋をしている。そんな気持ちを隠す気持ちなんて全くないのに、誰もそのことには気づかないようだ。ぼくが岡島さんに勉強を教えるのを嫌がっているなんて思っているらしい。

「なんか、いいように使われてない? 変わりに言ってあげようか」なんて金子さんに優しく話しかけられた時、ぼくはどんな顔をすればいいのか全くわからなかった。学生の男女が二人で居る理由、ぼくの知らない何かがあるのだろうか?

 一方、岡島さんが中学2年生の時にはそれなりの体験を済ませたことや、高校入ってからすでに3人の男と別れた、なんて話は岡島さんの口から出たわけではないだろうにクラスのほとんどが知っていた。少し前のぼくもそういう噂でしか岡島さんを知らなかった。茶色に染めた髪を鏡を見ながら、

その頭より軽い女が手入れしている姿をなんとなく覚えているくらいなものだ。

 「なんか数学とか得意そうだよね。この前のやつ教えてよ」

夏服にも慣れた頃、岡島さんは突然ぼくに話しかけてきた。

 教師に注意されてふてくされる顔しか印象に残っていなかったので、こんな笑顔の岡島さんを見るのははじめてだった。だから、そう。恋に落ちたんだと思う。ベクトルから始めて岡島さんは理解できるのだろうか、なんていう不安を持ったことは覚えているけれど、岡島さんの歯並びとどちらが先に気になったかもう覚えていない。

 驚いたことに岡島さんは、見た目より頭の悪い人間ではなかった。ぼくは自分がそんなにうまく説明できているとは思えなかったけれど、岡島さんは「へーわかりやすい」と感心してくれた。もちろん、その顔が見たくて見たくてとにかくいろいろと説明した。

 あるとき糸井くんが「お前、宿題とかやらされてかわいそうだな」と不思議なことを言った。ぼくはなんて答えたらよいのかわからなくて困っていたけれど、「ほら、最近、岡島が絡んでくるだろ」と心配そうな口ぶりだったので、なんとなくどう答えるかわかり始めた。「そんなことないよ。岡島

さんってそんなに頭悪くないから、ちゃんと自分でできてるよ」ぼくは、岡島さんの理解力を糸井くんにも自慢したかったけれど、簡単に否定するのが精一杯だった。糸井くんは「ああ、ならいいよ」と一気に関心を無くした。 休み時間や放課後、岡島さんに勉強を教えるぼくの姿はよく知られてい

るらしく、糸井くんとしたようなやりとりを他の人ともすることになった。金子さんもその一人だ。ぼくは、こういう注目が嫌なわけではないし、正直噂が出てまわりが固まってくれたらなあ、なんて思ったりもしたけれど、岡島さんともう少しだけ親密になりたいと思ったから、教室なんて日常から

わずかでも離れた場所に行きたいとも思った。岡島さんには今、彼氏がいない、だからと言ってデートに誘う勇気はぼくにはない。だから勉強という名目は変えずに、場所だけを変えるというのが妥当なところなんじゃないだろうか。

 そこでぼくは岡島さんを駅裏の図書館に誘うことにした。図書室があるのに学校外に誘うなんて不自然だって? そんなことはない。駅裏の図書館は最近椅子と机の入れ替えがあったばかりで、図書室よりも勉強がしやすい。ぼくが岡島さんを誘うのになんの下心もないのだ。

 「なんか。行列って面倒。あんなに並べる必要あるのかな?」

いつものように教えていると、岡島さんはぼくにチャンスをくれた。

 「そうだね。まあ、オレも意味は分からないけど、面倒なだけで計算は簡単じゃない? 点数取りやすそうだよ。そうだ、駅裏の図書館行かない? あそこ、最近きれいになって勉強しやすそうだ」

少し早口に言いたいことをすべて言い切ってしまった。ああ、理由は岡島さんから聞かれた後に答えたほうが自然だったかもしれない。二人っきりになりたいってのがバレたかな。岡島さんはぼくと違って交際経験が豊富だから、こういうのすぐバレちゃうんだろうな。でも、そうだったらはっきり

言ってしまった方がよかったかもしれない。ぼくは、動機を隠しながら相手を騙したいわけではないけれど、なんだかそれはそれでかっこ悪い気がする。岡島さんのリードを待ってるみたいだよね、それって。

 「いいよ。今日暇だし」

焦らされたりするかも、なんて不安感は全くの無駄で、岡島さんはあっさりと応えた。赤みがかった茶色い瞳がぼくを映して輝いた。この瞳だから安っぽいこの茶髪も似合うのだろう。そうだ、ぼくは

この瞳が好きなのかもしれないな。デートに誘ってから、相手のどこが好きなのか気がついた。

 放課後になって岡島さんと図書館へ向かう。そういえば、歩きながら何を話すのかを考えていなった。10分ほどの時間をどう埋めればいいのだろう。クラスのみんなは、ぼくのことをつまらない人間だと思ってるだろうけど、岡島さんだけにはそう思われたくはないな。

 仕方ないので、途中コンビニに寄ることにした。「喉、乾いてない?」なんて気遣いの言葉をかけながら、岡島さんの気をそらそうだなんて偽善的だな。でも、こういう偽善の積み重ねが、女の子と付き合うってことなんだ、とクラスの人の話を聞いていて思う。ぼくは、パックのカフェオレを手に取る。岡島さんがもっと悩んでくれるたら、女の買い物も待てちゃう寛容な男をアピールできたけど「そういえば、これ飲んだことないんだよね」とケースの中からオレンジ果汁の炭酸飲料を手にとった。

 コンビニから出て学校からほどよく離れると、岡島さんがいきなりいたずらっぽい顔をして「タバコ吸ってもいい?」と聞いてきた。真面目なぼくを試しているのかな? ぼくは、人の目があるからいやだったけれど、話で埋められない分、タバコでも吸っててもらったほうがいいかなと思って了承

した。何人目の彼氏からタバコの味を教わったんだろう? さっきまでもう少し近づいて歩きたいと思った、この距離でもタバコの苦味を感じる。もし、岡島さんに口付けしたらあの苦味がぼくの口の中にも広がっていつまでも残り続けるのかな。もちろんぼくはキスなんてはじめてのことだから、そ

れこそいつまでたっても残るのかもしれない。オレンジやレモンの味なんてしなくてもいいけど、タバコはちょっと嫌だ。くだらない妄想でなんだか口の中が苦くなった。甘い甘いカフェオレを飲んでもコーヒーの苦味だけが強調された気がする。岡島さんが一口、二口飲んで蓋を閉めてしまったオレ

ンジの炭酸飲料が飲みたくなった。

 図書館に付いた。カフェオレのパックを入り口のごみ箱に捨てた。空が暗かった。天気予報はなんて言ってただろう。

 「なんだか雨ふりそうだね。オレ傘持ってきてないや」

ぼくはようやくごく自然に、最も無難とされる話題である天気から会話のリードを試みることができた。

 「アタシは濡れても平気かな」

ぼくのリードはすぐに崩れた。岡島さんは何が平気なんだろう? もう夏だし風邪なんてひかないということだろうか。岡島さんの髪は肩より短いからすぐに乾くということかな。雨に濡れる岡島さんを想像する……よくわからなくなってきた。どう応えたらいいんだろう。天気の話が無難だなんて嘘だったんだ。ぼくはあれこれ抱えて混乱しながら今から勉強を教えなければならないのだ。

 勉強はあっという間に終わった。いつものように岡島さんが「わかりやすい」と褒めてくれた。ぼくはいつもより上手く教えられなかった気がする。

 勉強を教えるという約束の下で一緒に過ごしている以上、岡島さんの理解は別れを意味している。会話がうまくできれば引き止められるんだろうけれど、ぼくにはそんな技術がない。なんとか未練を顔に表さずに図書館を出ようとすると、もう雨が降り出していた。雨宿りという理由でもう少しだけ岡島さんと一緒にいられないだろうか? いいアイディアが生まれた頃には、岡島さんはもう歩き出していた。雨が上がりそうな見込みもないし、ぼくは呼び戻すこともできない。

 「思ったより雨強いね」

少しでも岡島さんのことを気づかえるぼくでいたかった。

 「気持ちいいくらいだよ」

岡島さんは笑っている。本当に心地よいのかもしれない。雨粒が大きくてブラウスがぐっしょり濡れてしまっている。制服のブラウスってずいぶんとゆとりのあるデザインなんだな。今、岡島さんの体に貼りついたところを見て気がついた。岡島さんの腰は驚くほどに細い。ぼくは炭酸飲料のボトルの

くびれに指を回して持つのが癖だけれど、やっぱり岡島さんの腰も掴んでみたくなった。目線を上げると肩もやわらかな線を描いて貼りついている。そしてその下もすっかりと体の線を描いているのだ--そういえば、ぼくはこの前、太陽観察用のグラスを買ったけれど、天気のせいでなんの役にも立

ちやしなかった。あんなに無駄なものが、いま必要に思える。化繊が入った青白いブラウスが岡島さんの体をなぞっている……これが金環というものなんだろう。直視なんてできやしない。

 「急いだらあんまり濡れないよ」

タバコを吸ってる割には白い歯が口からのぞく。

 岡島さんは濡れても平気らしかった。結局なにが平気なのか、ぼくはよく理解できなかったけれど、目の当たりにした天体ショウから受けた印象は何か答えを出してくれたのだと思う。

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