他人の子を妊娠した妻が、その子の父親と私の目の前でイチャついている
元妻と結婚していた頃、俺たちには何年経っても子どもができなかった。
ところが、俺がさっきまで座っていた椅子に一度腰を下ろしただけの女が、なぜか妊娠した。
冗談みたいな話だ。だが三年前、俺は本当にそれが原因で最初の結婚を失い、気づけば別の女と結婚し、その腹の子の父親になっていた。
再婚して三年目。成長していく奏太を見るたび、胸の奥に引っかかるものが少しずつ大きくなっていた。眉も鼻筋も、笑ったときにわずかに上がる口元も、俺とはほとんど似ていない。
あの日の朝、俺は奏太を保育園へ送り届けたあと、忘れ物を取りにいったん家へ戻った。リビングの手前まで来たところで、中から莉奈の声が聞こえてきた。
「美奈って、ほんとすごいよね。あのとき、よくお腹の子を直人の子だなんて言えたよ。悠真の子をちゃんと育ててもらえて、奏太にはお金持ちのお父さんまでできたんだから」
少し間が空いた。
美奈が小さく笑う。
「むしろ感謝してほしいくらい。私は直人に、タダで父親になれる経験までさせてあげたんだから。それに、悠真先輩が幸せなら、私は何だってできるよ」
1
廊下に立ったまま、車のキーを握る手に力が入った。
三年前の記憶が、一気によみがえった。
当時、俺は沙耶と大喧嘩をし、一人でバーへ酒を飲みに行った。そこで声をかけてきたのが美奈だった。
グラスを手に軽く話しかけてきた彼女は、なぜか突然、俺が立ったばかりの椅子に腰を下ろした。
かなり酔っていた俺は、妙な女だと思ってその場を離れた。それだけの出来事だったはずなのに、一か月後、美奈は病院の妊娠証明書を持って俺の前に現れた。
「この子、直人の子だよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
俺は彼女の手にすら触れていない。
だが、美奈はすぐに数枚の写真を取り出した。泥酔した俺が誰かに支えられてホテルへ入る写真。そして、同じホテルの同じ部屋に美奈がいたことを示す写真だった。
その夜の後半について、俺にはほとんど記憶がなかった。
どうしてホテルに入ったのかさえ説明できなかった。
写真を見た沙耶は、一度だけ聞いた。
「本当に、何もなかったって言い切れる?」
答えられなかった。
もともと俺たちの間には、長年子どもができないことで溝ができていた。その状態でこんな写真まで出てきたのだ。
沙耶は離婚を望み、どれだけ説明しても気持ちは変わらなかった。
最後は協議離婚になった。
ところが、美奈の妊娠を知った両親の反応はまったく違った。これまで子どもができなかった原因を、二人とも一方的に沙耶のせいだと思い込んでいたからだ。
特に父は、高瀬家が経営する会社とその跡継ぎを何より気にしていた。息子は俺一人。その父にとって、美奈のお腹にいる子は、生まれる前から「高瀬家の次の世代」になっていた。
両家から責任を取れと迫られ、俺は最終的に美奈と婚姻届を提出した。
数か月後、奏太が生まれた。
両親は大喜びだった。早々に教育資金を準備し、将来を見据えた贈与まで考え始めた。
俺も少しずつ、突然現れたこの子を自分の息子として受け入れていった。
ただ、一度だけ不安を完全に消したくて、郵送型のDNA親子鑑定を申し込んだことがある。
後日、美奈から渡された鑑定書には、はっきりと書かれていた。
父権肯定確率、99.99%以上。
それを見てから、俺は疑うことをやめた。
今日までは。
リビングのドアが開いた。
美奈と莉奈が出てきて、俺を見た瞬間、二人ともわずかに動きを止めた。
「直人? どうしたの?」
「会社に持っていく書類を忘れた。奏太を送ったついでに戻ってきただけ」
美奈はすぐにいつもの顔へ戻り、俺の腕に抱きついてきた。
「朝からお疲れさま」
以前なら、その仕草を可愛いと思った。
今は妙に気持ち悪かった。
二人が玄関で靴を履き始めたので、何気ないふりをして聞く。
「どこ行くんだ?」
「莉奈と買い物。あ、そうだ。カード、今月ちょっと厳しいかも」
数秒だけ美奈を見つめ、俺はスマホを取り出した。
十万円を送金する。
「これで足りる?」
「うん。ありがとう」
美奈は頬に軽くキスをすると、莉奈と腕を組んで出ていった。
玄関のドアが閉まっても、俺はしばらくその場から動けなかった。
今ここで問い詰めても意味はない。
知るなら、全部だ。
2
その夜になっても、美奈は帰ってこなかった。
保育園から戻った奏太はずっと機嫌が悪く、夕食になっても何度も母親を呼んだ。しばらくなだめていたが、ついにはスプーンを床へ投げつけた。
「ママがいい!」
「ママは今日は用事がある。先に食べよう」
床のスプーンを拾おうとした瞬間、奏太が子ども用の小さな椅子を持ち上げた。
そのまま俺に向かって投げてくる。
避けきれず、角が額をかすめた。
鋭い痛みが走り、血がにじんだ。
それでも奏太は怯えるどころか、こちらを睨みつけていた。
「直人なんかパパじゃない! 悠真おじちゃんのほうがパパだもん! 悠真おじちゃんは怒らないもん!」
悠真おじちゃん。
桐生悠真。
その名前が頭の奥に突き刺さった。
俺が黙っていると、奏太はわざとコップを倒し、その後も散々わがままを続けた。
美奈はいつも「まだ小さいんだから」と言っていた。両親も孫には甘く、少しくらいのことなら何でも許した。
だから俺は、奏太が自分になつかないのは仕事ばかりしていた俺の責任だと思ってきた。接待を減らし、できるだけ早く帰るようにもした。
それでも何も変わらなかった。
「直人なんか嫌い!」
最近では、平気で俺を名前で呼ぶ。
俺は声を低くした。
「こぼしたもの、片づけよう」
奏太は俺を無視して、ちょうど廊下へ出てきた父のところへ走っていった。
「おじいちゃん! 直人がいじめる!」
父は俺の額の傷を見ても、先に眉をひそめた。
「こんな小さい子相手に何をムキになってるんだ」
「椅子を投げられたんだ」
そこへ母もやってきて、奏太を抱き寄せた。
「まだ二歳なんだから、ゆっくり教えればいいでしょう。大人のほうが我慢しないと」
俺は二人を見ながら、妙に冷めた気持ちになっていた。
本当に自分の子なら、まだ我慢しようと思えたかもしれない。
だが今は、自分がこの三年間、いったい誰の子を育ててきたのかとしか思えなかった。
夜が更けてから寝室へ戻った。
額の傷がまだ痛んでいたので、ベッドに寄りかかりながらスマホを眺めていた。
しばらくすると、ドアがそっと開いた。
小さな足音が近づいてくる。
俺は目を閉じたまま動かなかった。
眠っていると思ったのか、奏太はベッドのそばに置いてあったクッションを持ち上げ、俺の顔に押しつけてきた。
「直人なんか、いなくなればいい」
すぐにクッションをつかんで起き上がった。
奏太は目を丸くする。
少し考えたあと、慌ててクッションをベッドの端に置いた。
「ぼく……まくら、持ってきただけ」
俺はドアを指した。
「もう寝なさい」
奏太は走って出ていった。
しばらくすると、案の定、廊下の向こうから父の不満そうな声が聞こえてきた。
相手をする気にもなれず、イヤホンをつけてスマホを開く。
ちょうどそのとき、Instagramに莉奈のストーリーズが上がった。
シャンパンを手にした莉奈が写っている。
そこには一言だけ添えられていた。
【悠真先輩、お誕生日おめでとう!】
だが俺が見ていたのは、莉奈ではなかった。
写真の奥。
ダンスフロアの端で、美奈が一人の男と唇を重ねていた。
横顔だけでもわかる。
悠真。
俺の大学時代の先輩。
そして今は、沙耶の夫だった。
3
美奈が帰宅したのは、午前一時近くだった。
ベッドが少し沈み、後ろから腰に腕が回ってくる。
「直人、明日の保育参観なんだけど、私が行くね」
「わかった」
俺は振り返らなかった。
翌朝、美奈はいつもより一時間近く早く起きた。
念入りに化粧をし、普段の保育園行事ではあまり着ないようなワンピースに着替えている。
キッチンでは、奏太が朝食を食べながら楽しそうに足を揺らしていた。
「ママ、今日、悠真おじちゃん来る?」
美奈はすぐに口元へ人差し指を立てた。
「奏太、もう少し小さい声でね」
奏太は口元を両手で押さえて笑う。
俺はキッチンの外から、その様子を黙って見ていた。
出かける直前、奏太のリュックを取ってやろうとすると、本人が慌てて奪い返そうとした。
その拍子に、小さなプレゼントの箱が床へ落ちた。
箱には、美奈の字でこう書かれたカードが貼ってある。
【悠真おじちゃんへ】
その横には、奏太がクレヨンで描いたらしい三人の人間が並んでいた。
奏太は俺に何かをくれたことなど一度もない。
去年の誕生日、美奈に言われて俺の似顔絵を描いたときも、途中で飽きて紙をゴミ箱に放り込んでいた。
美奈は素早く箱を拾い、リュックへ戻した。
「じゃあ行ってくるね。直人も会社あるでしょ?」
二人が家を出て少ししてから、俺も車のキーを取った。
自分の目で確かめたかった。
この三年間、俺の知らないところで何が起きていたのか。
美奈は保育園の少し手前に車を停めた。
悠真はすでに待っていた。
奏太は車から降りるなり、リュックを背負ったまま走っていく。
「悠真おじちゃん! これ、プレゼント!」
悠真はしゃがみ、奏太の頭を撫でた。
「ありがとう、奏太」
少し離れた場所から見ていて、初めてはっきり気づいた。
似ている。
二人は驚くほど似ていた。
特に笑ったときの眉や鼻筋、それに少し垂れ気味の目尻。
奏太の顔の中に、俺ではなく悠真がいる。
美奈は優しい表情で二人を見つめていた。
悠真がごく自然に美奈の腰へ手を回す。
三人はそのまま保育園へ入っていった。
俺は車の中から写真を撮り、そのあとを追った。
まだ保育参観は始まっておらず、園内には保護者と園児が行き交っていた。
奏太は悠真の手を握っている。
「今日、パパみたいにいてね。ママの隣にも座って」
「わかった。奏太の言うとおりにするよ」
悠真は笑って、奏太の頬を軽くつついた。
教室の外から、その姿を見ていた。
俺が来園者用の名札をつけていないことに気づいた保育士が近づいてきたとき、美奈が慌ててこちらへやってきた。
「直人、どうして来たの?」
「来たらまずいのか?」
美奈は一瞬だけ教室の中へ視線を送った。
「今日は私が行くって話だったでしょ。急に来られても困るよ」
「じゃあ、あいつは何の立場で来てる?」
美奈の顔がわずかにこわばった。
「ただの友達だよ。奏太がなついてるから一緒に来ただけ。ここ保育園なんだから、変なことしないで」
そう言い残し、美奈は教室へ戻った。
ガラス越しに見ると、奏太は悠真のそばで楽しそうに笑っている。
俺は中へ入らなかった。
駐車場へ戻り、そのまま会社の秘書へ電話した。
「午前の予定、後ろへずらしてくれるか。それと、男性不妊外来を予約してほしい」
4
数日後、俺は大学病院の泌尿器科にある男性不妊外来にいた。
医師が再検査の結果を机の上へ置く。
二度行った精液検査で、どちらも精子が確認されなかった。
診断結果は明確だった。
無精子症。
しばらく、その文字から目を離せなかった。
沙耶と結婚していた頃、俺たちには何年経っても子どもができなかった。それでも俺は、自分に原因がある可能性を真剣に考えたことがなかった。
両親が沙耶のせいだと言い、俺もそれを否定しなかった。
今になって思えば、あまりにも傲慢だった。
もし当時から俺がこの状態だったのなら、美奈のお腹の子が俺の子であるはずがない。
では、三年前の鑑定書は何だったのか。
診察室を出て廊下を歩いていると、書類が一枚ファイルから落ちた。
拾おうとしたところで、誰かの革靴が紙の端を踏む。
「直人?」
顔を上げた。
悠真だった。
視線が診断書へ落ちる。
「無精子症……?」
口元がゆっくりと緩んだ。
「なるほど。だから奏太、全然お前に似てないんだな」
「返せ」
悠真は診断書を拾ったものの、すぐには渡さなかった。
「知らないほうが幸せなこともあるよな。沙耶も元気だし、美奈も楽しそうだし。奏太だって、俺にはよくなついてる」
拳を握った。
次の瞬間には、悠真の頬を殴っていた。
悠真はよろめき、壁に肩をぶつけた。
周囲の人間が足を止める。
そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「直人!」
頬に衝撃が走った。
美奈が俺の前に立っていた。
「何してるの!」
すぐ悠真のほうへ向き直り、鼻血を見てティッシュを取り出す。
「ちょっと、血出てるじゃない。先に処置してもらおう」
悠真は俺を見ながら笑った。
「平気だよ。直人、最近仕事で疲れてるんじゃないか?」
そのとき、小児科側の廊下から奏太が走ってきた。
腕には軽い固定具が巻かれている。
保育園で転んで腕を痛め、美奈が同じ大学病院へ連れてきていたらしい。
そして、その付き添いに悠真まで来ていた。
「悠真おじちゃん!」
顔の血を見るなり、奏太は俺のところへ走ってきた。
「悪い人! 悠真おじちゃんいじめちゃダメ!」
小さな体で勢いよくぶつかられ、俺は思わず腰を曲げた。
悠真が奏太の手を取り、美奈がその横に並ぶ。
三人はそのまま廊下の向こうへ歩いていった。
その後ろ姿を見ているうちに、逆に頭が冷えていった。
そこまで家族らしく振る舞いたいなら。
好きにすればいい。
その日の夜、美奈が奏太を連れて帰ってきた。
両親は奏太の腕を見るなり心配そうに駆け寄った。
「どうしたんだ?」
奏太はすぐに俺を指さした。
「直人のせい!」
父の顔が曇る。
「また何をした」
いつものように弁明する気にはならなかった。
「父さん」
一度言葉を切った。
「もし奏太が、父さんの本当の孫じゃなかったら?」
リビングが静まり返った。
玄関に立つ美奈の顔から、血の気が引いた。
5
父と母はしばらく黙ったまま俺を見た。
やがて二人の視線が、美奈へ移る。
美奈は一瞬だけ動揺したが、すぐに目を潤ませた。
「直人、急に何を言ってるの? 奏太が直人の子じゃないなら、私、ここで死んだっていい!」
そう言って、本当に壁へ向かおうとした。
母が慌てて腕をつかむ。
「美奈!」
父の顔が険しくなった。
「もういい。直人、お前は何を考えてるんだ。家の中をめちゃくちゃにして」
母も美奈をソファへ座らせながら、俺を責めるように見た。
「何かあるなら落ち着いて話しなさい。仕事が大変だからって、家族に当たるのは違うでしょう」
美奈はうつむいた。
「私、最近の直人がわからない。ずっと、うまくいってると思ってたのに……」
その横で、奏太が小さな声で言う。
「悠真おじちゃんのほうが優しいもん」
「奏太、もうやめなさい」
美奈はすぐに奏太の口を押さえ、そのまま子ども部屋へ連れていった。
その夜、美奈は寝室へ入ってくると、背を向けている俺の腰に腕を回した。
「保育参観の日は、本当にたまたま悠真先輩と会っただけだよ。病院のことだって、直人がいきなり殴るから私も驚いただけ。言い方がきつかったなら謝るから、ずっと無視するのやめてよ」
俺は目を閉じたまま、何も答えなかった。
美奈はしばらく黙ったあと、額を俺の背中に押しつけた。
「私、直人のこと好きだよ」
数日前までなら、信じていたかもしれない。
だが今は、その声を聞いても、別の言葉しか思い浮かばなかった。
――悠真先輩が幸せなら、私は何だってできる。
6
翌日の午後、莉奈がまた家へ遊びに来た。
奏太が小さいため、リビングには以前から見守り用の室内カメラを設置してある。美奈もその存在は知っていたが、俺が録画を確認するとは思っていなかったらしい。
会社の執務室でイヤホンをつけ、映像を再生した。
画面の中では、美奈と莉奈がソファに座り、買ってきたスイーツとコーヒーを広げていた。
「美奈さ、最近ちょっと悠真先輩に会いすぎじゃない? 沙耶さん、奥さんなんだよ。何年待ったって、本当に代わりになれるわけじゃないでしょ」
「わかってるよ。でも、会いたいんだから仕方ないじゃん。一日でも一緒にいられれば、それでいいの」
莉奈が少し黙る。
「でも直人は? もし奏太が自分の子じゃないって知ったら? ホテルの写真だって、あれ本当は……」
「知られないよ」
美奈は軽く笑った。
莉奈はさらに声を落とした。
「DNA鑑定だってさ。本物の結果が届いたとき、よくあんな偽物の鑑定書に差し替えられたよね。今考えても怖いんだけど」
マウスに置いていた手が止まった。
ようやく全部つながった。
三年前、俺は両親に知られないよう、自分で郵送型のDNA親子鑑定を申し込んだ。
結果が届く頃、仕事で数日家を空けていた。
本当の鑑定結果を先に受け取った美奈は、それを隠した。
そして「父権肯定確率99.99%以上」と書かれた偽の鑑定書を俺に見せたのだ。
画面の中で、美奈は何でもないことのように肩をすくめた。
「もう三年も前の話だよ。私が奏太は直人の子だって言い続ければ、それでいいの。それに、あの人の両親なんて直人本人より私のこと信じてるし」
莉奈が笑った。
「それはそうかも。あ、そうだ。今日、悠真先輩空いてるよ。ホテルも取っといた」
美奈の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと? 最高!」
そこで映像を止めた。
数分後、美奈からLINEが届いた。
【今日、莉奈とご飯食べてくるね。夕飯はいらないよ】
しばらく画面を見つめてから、一言だけ返した。
【わかった】
仕事を終え、美奈の車を追った。
莉奈のところには行かなかった。
車が入ったのは、都内の高級ホテルの地下駐車場だった。
しばらくすると悠真が現れ、美奈は車から降りるなり彼の腕に手を回した。
二人は親しげに笑いながらホテルへ入っていく。
俺は客室フロアまで追いかけるようなことはしなかった。
少し前から相談していた藤原先生にも、証拠を取るために無理な行動はしないよう言われていた。
俺はホテルへ一緒に入る二人の姿だけを撮影し、その場を離れた。
数日前から、藤原先生に紹介された探偵事務所にも調査を依頼していた。
車へ戻ってしばらくすると、担当者から途中経過の資料が届いた。
美奈の生活費の大半は、俺名義の家族カードで支払われている。
カードの利用明細や宿泊履歴、車両の移動記録、それに探偵事務所の調査結果を合わせると、三年間で悠真とホテルやデートに使った記録は五百件近く。
総額は一千万円近かった。
数字を見つめたまま、しばらく何も考えられなかった。
美奈は結婚してから、ほとんど仕事をしていない。
両親は「高瀬家に跡取りを産んでくれた」と何かにつけて美奈を特別扱いし、俺も生活に不自由させたくないと思っていた。
服も旅行も外食も、ほとんど制限したことがない。
その金が、別の男とのホテル代やデート代に消えていた。
俺は顧問弁護士の藤原先生へ電話した。
「先生、離婚することにしました。それと、奏太との親子関係についても相談したいです」
少し間が空く。
「奏太君は今、何歳でしたか」
「二歳十か月です」
藤原先生の声がすぐ真剣になった。
「それなら、急いだほうがいいですね。DNA鑑定だけで戸籍上の父子関係が自動的に消えるわけではありません。生年月日と婚姻時期を確認して、嫡出否認の調停を含めて家庭裁判所への手続きを準備しましょう」
「お願いします」
「それから財産についてですが、美奈さんに不貞行為があったからといって、それだけで財産分与を一切受けられなくなるわけではありません。ただし、直人さんが結婚前から所有している株式、親御さんから贈与された財産、会社そのものの資産まで分与対象になるわけでもありません。そこはきちんと分けて整理します」
シートに背中を預けた。
「わかりました。美奈に権利があるものは、法律どおりで構いません」
一度息を吐く。
「でも、美奈のものじゃない財産まで渡すつもりはありません」
電話を切ったあと、久しぶりに胸が軽くなった。
あとは一つずつ、清算していくだけだ。
7
数日後、両親は地元の友人たちとの集まりに出るため、家を空けていた。
奏太が生まれてからというもの、家の中では何をしても奏太が最優先だった。
泣けば俺の接し方が悪い。
物を投げれば俺の愛情が足りない。
俺を名前で呼び捨てにしても、「父親との時間が少ないから」と言われた。
本当に自分の子なら、まだ反省しようと思ったかもしれない。
だがもう、この茶番につき合う気はなかった。
夜、仕事から戻ると、ダイニングは散らかっていた。
家事代行スタッフはちょうど休みで、美奈が用意していた夕食を奏太があちこちにこぼしている。
俺を見るなり、子ども用の椅子に座ったままテーブルを叩いた。
「ハンバーグ食べたい!」
「冷蔵庫にご飯あるよ」
「やだ! ハンバーグとエビフライと卵焼き!」
「今日はない」
奏太は皿を床へ押し落とした。
「悠真おじちゃんは何でも買ってくれるもん!」
割れた皿を見下ろした。
「じゃあ、ママが帰るまで待とう」
奏太がきょとんとした。
今までなら、どれだけ騒いでも最後には俺が折れていた。
だが今日は違う。
奏太はすぐに泣き始め、「おじいちゃんに言う」と繰り返した。
俺は怪我をしないよう割れた皿だけ片づけた。
「普通のご飯ならあるよ。食べないなら、ママが帰ってくるまで待とう」
夜遅くまでぐずっていたが、そのうち疲れたのか、自分で子ども部屋へ戻った。
俺も無理に食べさせたりはしなかった。
翌朝、美奈が帰ってきた。
奏太は前夜遅くまで泣いていたせいか、朝から熱を出している。
額に触れた美奈は、そのまま俺の部屋へ飛び込んできた。
「直人! 奏太、こんなに熱あるのにどうして放っておいたの?」
俺は出勤の準備をしていた。
「今気づいた。病院へ連れていったほうがいい」
「一緒に来ないの?」
「今日は会社がある」
美奈は少し言いづらそうに目をそらした。
「でも私、今月もうお金あんまりなくて……」
シャツの袖口を留める手を止めた。
「家族カードは止めたよ。医療費は一度払って、領収書を取っておいて」
美奈の顔色が変わる。
「なんで? 直人、最近ほんとにどうしたの?」
ジャケットを手に取った。
「家計を一度整理してるだけ。それと、これから奏太に欲しいものを何でも買い与えるのもやめる」
玄関へ向かいながら続けた。
「悠真がそこまで好きなら、必要なものは悠真にも相談したらいいんじゃないか」
美奈の表情が固まった。
「なんでまた悠真先輩が出てくるの?」
俺は答えず、そのまま家を出た。
8
それから数日後、美奈が書斎へ入ってきた。
「直人、悠真先輩の会社、東証グロースに上場したでしょ? 今度、上場記念のレセプションをやるんだって。直人も来ない?」
パソコンから目を上げなかった。
「行かない」
「なんで? 昔のことなんてもう何年も前だし、沙耶さんだって今は悠真先輩と結婚してるじゃん。会社同士、これから取引する可能性だってあるんだから、そんなに関係悪くしなくてもいいでしょ?」
ノートパソコンを閉じた。
「わかった。行く」
美奈は目を丸くした。
「ほんと?」
「ああ。ちょうど俺からも、渡したいものがある」
美奈は嬉しそうに笑い、俺の頬へキスをした。
「よかった。直人ならそう言ってくれると思ってた」
書斎を出たあと、美奈はベランダへ向かった。
わざわざ追いかけなくても、ガラス越しに弾んだ声が聞こえる。
「うん、来るって。悠真先輩も喜ぶと思う。大丈夫だよ、直人はあのサプライズのこと知らないから」
椅子に座ったまま、俺は小さく笑った。
どうやら向こうも、俺を笑いものにする何かを用意しているらしい。
なら、ちょうどいい。
翌日の夜、美奈と一緒に会場へ向かった。
上場記念レセプションには、取引先や投資家、金融機関の関係者、それに一部の経済メディアも招かれていた。
会場へ入った途端、美奈は人混みの中に悠真を探している。
俺が飲み物を取りに向かった先で、思わぬ人物と出会った。
沙耶だった。
落ち着いた色のドレスを着て、小さな女の子の手を握っている。
数年ぶりだったが、大きくは変わっていない。
「直人。久しぶり」
「久しぶり」
沙耶は俺を少し見たあと、淡く笑った。
「離婚したあとでわかったんだけど、子どもができなかった原因、私じゃなかったんだね。悠真と結婚してこの子が生まれてなかったら、今でも自分のせいだと思ってたかも」
昔なら、かなり傷ついたはずだ。
今は不思議と何も感じなかった。
「ごめん」
沙耶が目を瞬く。
「何が?」
「あの頃、沙耶だけに責任を背負わせてた。今さらだけど、謝っておきたかった」
「……急にどうしたの」
「それだけ。悠真とは、うまくいってる?」
沙耶は娘へ目を落とした。
「うん。私にもこの子にも、すごく優しいよ」
胸の奥に、ほんの少しだけ苦いものが残った。
「そっか。幸せなら、それでいい」
沙耶は少し黙ったあと、気まずそうに目をそらした。
「さっきの言い方、ちょっと嫌味だったね。ごめん」
「気にしてない」
俺はそれだけ言って、その場を離れた。
しばらくしてレセプションが始まった。
悠真は壇上に立ち、堂々とした様子で挨拶をしている。
高瀬の会社も取引先として招待されていたため、事前に祝辞映像の提供を依頼されていた。
そしてそのデータは、俺自身が会場側へ提出していた。
進行が後半に入り、司会者が祝賀映像の上映を告げる。
悠真は自分たちが用意した「昔の友人へのサプライズ」でも始まると思っていたのか、こちらへ意味ありげな視線を送ってきた。
スクリーンが明るくなる。
一枚目の写真が映った瞬間、悠真の笑顔が消えた。
美奈と二人でホテルへ入る姿だった。
日付も表示されている。
次は別のホテル。
その次は駐車場で抱き合う二人。
さらに、必要な部分だけを残したカード利用履歴が続いた。
ホテル。
レストラン。
旅行。
男も女も、毎回同じだった。
最後に表示されたのは、いくつかのLINEのメッセージだった。
【今日は直人、残業だから帰ってこないよ】
【奏太がまた、パパにいつ会えるのって聞いてた】
【直人の前では悠真おじちゃんって呼ばせたほうが安全だね】
会場が静まり返った。
直後、記者席から一斉にシャッター音が上がる。
悠真が勢いよくスクリーンを振り返った。
美奈は壇上近くで青ざめている。
もちろん、ベッド写真や裸の写真などは一切使っていない。
藤原先生からも、必要以上に私生活を公開したり、無関係な第三者の情報を出したりするのは避けるよう強く言われていた。
だから残したのは、二人の関係がわかる最低限の資料だけだった。
それでも十分だった。
会場にいる誰もが、何が起きていたのか理解していた。
後方にいた沙耶は、しばらくスクリーンを見つめたあと、娘の目を手で覆った。
悠真が壇上から降りてくる。
俺は待たずに出口へ向かった。
会場はすでに騒然としていた。
美奈も追いかけようとしたが、途中で記者に囲まれている。
出口の手前で、俺も記者に呼び止められた。
「高瀬さん、スクリーンに映っていた女性は奥様ですか? 今後はどうされるおつもりでしょうか?」
足を止めた。
「離婚します」
それだけは、はっきり答えた。
「それ以外のことは、弁護士を通して対応します」
外で待っていた社用車に乗り込む。
ドアが閉まると同時に、会場の騒音が遠ざかった。
9
美奈が家へ戻ったのは翌日だった。
リビングのテーブルには、藤原先生と相談してまとめた離婚条件の書類が置いてある。
両親にも、すべて話してあった。
部屋の空気は重かった。
奏太は美奈の後ろへ隠れ、普段の生意気な態度は消えている。
美奈は書類を見るなり、その場に膝をついた。
「直人、ごめんなさい。本当に反省してる。もう悠真先輩とは会わないから、やり直そう? 奏太だって、パパがいなくなったら困るよ」
父も母も、もう美奈をかばわなかった。
この数日で、藤原先生から調査資料やDNA鑑定について説明を受けている。
三年前に俺が見せられた郵送型DNA鑑定の結果は、美奈が用意した偽物だった。
新しく正式に行った検査では、俺と奏太の生物学上の父子関係は否定されている。
父は暗い顔でソファに座っていた。
「直人。もう、お前が決めろ」
俺はテーブルの書類を取った。
「離婚する。条件は書いてある」
美奈が膝をついたまま近づき、俺のズボンをつかんだ。
その手を静かに外す。
「奏太には父親がいる」
美奈の体が固まった。
「最初から、俺じゃなかっただけだ」
もう説得できないと悟ったのか、美奈は慌てて奏太を前へ押し出した。
「奏太、パパにごめんなさいして」
奏太の目から涙がこぼれる。
「パパ、ごめんなさい。もうお皿投げないし、怒らない。ここにいたい。おうち広いし、おいしいご飯もあるから……」
「奏太!」
美奈の表情が変わった。
驚いた奏太は、今度は母親を指さした。
「ママが悪いもん! ママ、いつも悠真おじちゃんのとこ行ってた! 悠真おじちゃん、ぼくのパパだって言ったもん!」
パシン、と乾いた音が響いた。
美奈が奏太の頬を叩いていた。
「やめなさい!」
奏太は頬を押さえて泣き出した。
「ほんとだもん!」
「もういい」
それ以上聞く気になれず、書類を持って書斎へ戻った。
法的な問題は、思っていたより複雑だった。
奏太は美奈との婚姻中に生まれている。
DNA鑑定で血のつながりが否定されたからといって、戸籍上の父子関係が勝手に消えるわけではない。
幸い、奏太はまだ二歳十か月だった。
藤原先生はすぐに必要な資料を集め、家庭裁判所へ嫡出否認の調停を申し立てる準備を進めてくれた。
離婚。
財産分与。
不貞行為に対する慰謝料。
そして親子関係。
それぞれを混同せず、順番に処理していくことになった。
美奈が不倫したからといって、それだけで財産分与を一切受けられなくなるわけではない。
しかし、だからといって高瀬家の財産すべてを半分にできるわけでもなかった。
俺が結婚前から保有していた会社の株式。
両親から贈与された財産。
そして同族会社そのものの資産。
それらは、当然のように美奈が分けてもらえるものではない。
婚姻中に二人の協力で形成したと判断される財産については、法律に沿って整理する。
一方、美奈が長期間にわたり不貞を続け、家族カードを使って悠真とのホテルや旅行に多額の金を使っていた問題については、別に精査することになった。
悠真のもとにも、藤原先生の名義で慰謝料請求に関する通知書が送られた。
美奈は最初、どうしても離婚条件を受け入れようとしなかった。
半月近く、毎日のように俺のところへ来た。
奏太を連れて高瀬の家の前で待っていたこともある。
それでも、俺は一度も考えを変えなかった。
やがて奏太は、俺に頼んでも無駄だとわかったのか、本当に悠真のところへ行った。
だがその頃、悠真自身もそれどころではなくなっていた。
上場記念レセプションでの騒動をきっかけに、会社には取締役会や主要株主から説明を求める声が上がった。
さらにその後の内部調査で、悠真が一部の私的な飲食や移動費を会社経費として処理していた問題まで明らかになった。
沙耶も娘を連れて家を出た。
奏太は悠真の家の前に立ち、ずっと優しかった「悠真おじちゃん」に自分を引き取ってもらおうとした。
「でも、悠真おじちゃん、ぼくのパパなんでしょ?」
悠真の表情が変わった。
「誰にそんな呼び方しろって言われたんだ。ママのところに帰れ」
結局、奏太は美奈のもとへ戻った。
半月後、美奈はようやく離婚に応じた。
離婚条件、財産分与、慰謝料については藤原先生を通して整理し、親子関係については引き続き家庭裁判所で手続きを進めた。
美奈が想像していたように、高瀬家の財産を持って出ることはできなかった。
もちろん、法律上美奈に認められる財産まで奪ったわけではない。
ただ、最初から美奈のものではない財産は、最後まで美奈のものにはならなかった。
離婚後、俺は再び仕事へ時間を使うようになった。
一方、悠真を取り巻く状況は悪化していった。
私生活の騒動そのものだけで会社が傾いたわけではない。
ただ、それをきっかけに経営体制や経費処理の問題が表面化し、もともと抱えていた業績不振まで一気に注目されることになった。
株価は下落し、会社の信用も傷ついた。
その後、一部事業は他社へ売却され、悠真は代表取締役を退いた。
沙耶からも正式に離婚を求められた。
それを知った美奈は、自分にもようやく順番が回ってきたと思ったらしい。
何度も悠真を訪ねた。
「沙耶さんと離婚するなら、今度こそ私たち一緒になれるよね?」
だが悠真は拒んだ。
最後まで取り戻したいと思っていたのは、沙耶だった。
美奈はただ、結婚生活の外にいた相手にすぎなかった。
その事実は、離婚そのものより美奈を傷つけたようだった。
高瀬の家を離れたあと、美奈はこれまでのように金の心配をせず暮らすことはできなくなった。
奏太と二人、家賃の安い古い木造アパートの1DKへ移った。
家事代行スタッフもいない。
何でも代わりにやってくれる人もいない。
美奈の精神状態は、少しずつ不安定になっていった。
奏太も初めて、これまで当たり前だった生活が当たり前ではなかったことを知った。
欲しいものを言えば誰かが買ってくれる生活。
祖父母が何でも許してくれる生活。
悠真が遊んでくれる時間。
全部なくなった。
しばらくして、奏太が病気になったと人づてに聞いた。
最初はインフルエンザのような症状だったらしい。
だが美奈自身も心身ともに不安定で、十分な対応ができなかった。
症状が悪化し、奏太は重い肺炎で入院した。
そして、そのまま助からなかった。
奏太を失ったあと、美奈は完全に心のバランスを崩した。
駅の近くで一人立っている姿を見たという人もいた。
古いコートを着たまま人混みの中で、悠真の名前を呼んだり、奏太を探すようにつぶやいたりしていたらしい。
その話を聞いても、俺はしばらく黙っていただけだった。
会いには行かなかった。
もう、俺の人生とは関係のないことだった。
両親も、奏太の件では大きなショックを受けた。
これまで「高瀬家の跡取り」にこだわり、奏太を必要以上に甘やかしていた自分たちがどれだけ愚かだったか、ようやく理解したようだった。
それからしばらく経った頃、誰も予想していなかったことが起きた。
母が妊娠したのだ。
両親は結婚が早かったため、世間が想像するほどの年齢ではなかった。それでも高齢妊娠にあたることには変わりなく、医師からは何度もリスクについて説明を受けた。
それでも二人は相談の末、子どもを産むことを決めた。
一年後。
俺には年の離れた弟ができた。
赤ん坊を抱く父は、二十歳くらい若返ったような顔で笑っていた。
その横で俺は思わず息を吐いた。
「もう俺に子どもを作れって言うなよ」
珍しく、父は言い返さなかった。
俺は腕の中の弟を見下ろした。
「まあいいか。こいつは半分、俺の息子みたいに育てるよ」
この数年間は、長くて馬鹿げた夢みたいだった。
沙耶には沙耶の人生がある。
美奈も悠真も、自分で選んだことの結果を受け取った。
奏太についても、俺は一度、本気で自分の子どもだと思って育てていた。
だからDNA鑑定の結果一枚で、それまでの感情まで完全に消えるわけではない。
ただ、最初から嘘の上に作られた関係だったことも事実だ。
真実を知ったあとまで、自分自身を騙し続ける必要はなかった。
それから会社の経営も安定し、海外案件で日本を離れることが増えた。
新しい仕事に向き合っているうちに、昔の出来事も少しずつ自分の生活から遠ざかっていった。
たまに当時のことを聞かれても、今では笑って流せる。
ようやくわかった。
嘘で作られた結婚生活を失ったからといって、俺の人生まで終わるわけじゃない。
むしろ――。
俺自身の人生は、あの日からようやく始まったのだ。




