1.悪役令嬢は『ざまあ』する!
アンジェリカは激怒した。必ず、かの厚顔無恥の女をこの場から排除しなければならぬと決めた。
考えるより先に、結論が出ていた。
立ち止まるという選択肢が、最初から存在しない。
アンジェリカはランカスター伯爵家の末娘である。
幼い頃から「姫」と呼ばれて育った、末っ子長女。
望めば与えられ、黙っていても道は開かれた。
望むものは、自分の名のもとに手に入れてきた。
わざわざ他人のものへ手を伸ばす必要など、これまで一度もなかった。
だから理解できない。
なぜ他人の婚約者へ、ああも平然と手を伸ばせるのか。
そんな恥知らずが、同じ場所に立っていること自体が許せない。
◇◇◇
晴れた初夏の日はいい。
暑さが居座るにはまだ早く、風は軽い。
クリームたっぷりのケーキの最初の一口を食べたときのような、多幸感のある季節だと、アンジェリカは思っている。
そんな気分のいい昼下がりの中庭の真ん中に、よりにもよって、あの女がいた。
ミシェル・プリンスタイン──王立学園の中庭で、今日も男たちに囲まれている。
彼女は、最近になって男爵家の養子になった娘で、学園の制服を着ていても、どこか浮いて見える。
ピンクブラウンの髪に、すぐに潤む空色の瞳。
低身長を利用した上目遣い。膨らませる頬。鼻にかかる声。
あれが、可愛い? あり得ない。そんな評価は、間違っている。
その女が、婚約者であるエリック・リツェンハイン伯爵令息の手に、ためらいもなく指を絡めていた姿が脳裏をよぎる。
それだけではない。さきほどの休み時間には、別の令息に同じようなことをしていた。
子爵以上の令息、それも嫡男にべたべたべたべた、と。忌々しい。
相手が他人の婚約者であれば、学園内の噂で終わった話かもしれない。
けれど、昨日の光景が頭から離れない以上、それでは済まなかった。
放課後の教室で、ミシェルがエリックの膝に対面で乗っていたのだ。
ショックが大きすぎて声をかけられなかったが、あの光景はひどいものだった。
今のアンジェリカには、ミシェルのすること成すこと、存在そのものが不快でならない。
アンジェリカは、つかつかと歩み寄った。
石畳に踵が鳴り、周囲の視線が自然と集まる。止めに入ろうとする者はいない。
その視線を浴びることに、アンジェリカは何の違和感も覚えない。
「異性に見境なく距離が近いことを、下品だとお思いにならない教育をお受けになったの?」
ミシェルはびくりと肩を跳ねさせた。
「わ、わたしは、ただお話を……皆と仲良くなりたくて……」
「お話、ねえ?」
アンジェリカは扇子をぱちんと閉じ、絹張りの扇子で、ミシェルの胸元を指す。
「では、質問を変えます。婚約者のいる男性に、身体に触れてまでお話する必要がありまして?」
周囲が、しんと静まり返る。
視線はミシェルに集中し、彼女の指先の震えまで見逃さない。
「婚約者のいる殿方へ、人前で何度も身体を寄せるなど、礼儀を知らないにも程がありますわ!」
言葉は、はっきりと刺さるように投げられた。
ミシェルの唇が小刻みに震える。
けれど、演技にしか見えない。
アンジェリカは扇子を閉じた。周囲の空気が張りつめても、考え直す気にはならない。
そのままミシェルへ詰め寄ったところで。
「やめろ、アンジェリカ!」
鋭い声とともに、手首を強く掴まれた。アンジェリカは思わず目を見開く。目の前に立っていたのは、エリックだった。
本来ならアンジェリカの隣に立つべき男が、節操のない女を背に庇っている。
掴まれた腕を振りほどき、アンジェリカは叫ぶ。
「エリック様、正気でいらっしゃるの!? ……っ、全部、この女のせいね!?」
扇子を握り直し、ミシェルへ突きつけた直後、エリックが一歩踏み込み、完全にミシェルを背に隠した。
その拍子に、避ける暇もなく、彼の肘が前に出る。
鈍い衝撃が、アンジェリカの顎を打ち抜く──クリーンヒット。
ぐ、と息が詰まり、視界が白く弾ける。
口の中に、鉄のような味が広がった。舌を噛んだのだ。
痛い。言葉にならないほど、痛い。
それなのに。
「ミシェル、大丈夫か? 怖かっただろう?」
心配する声は、アンジェリカには向かなかった。
衝撃で、思考が追いつかない。
視界の輪郭が、うまく結べない。
目が合ったミシェルの口角が、愉悦に上がっている。
「……っ」
──ふと、白い石畳の上に、あり得ない風景が重なった。
朝の薄暗い駅のホーム。人、人、人。
毎朝、身体を押し込むようにして乗った山手線。肩がぶつかり、鞄が押し合い、息苦しさまで覚える満員の車内。
遅延を知らせるアナウンスに、またか、と舌打ちをする感覚まで、鮮明だ。
狭い1Kのアパート。帰宅はいつも夜遅く、電気を点ける気力すら残っていない日もあった。
冷蔵庫の中身を確認する余裕もなく、コンビニの棚に並ぶおにぎりを眺めて、値引きシールの貼られた残り物に、無言で手を伸ばす。
仕事。仕事。仕事。終わらない業務。代わり映えのしない毎日。
疲れ切った身体を引きずって、ベッドに倒れ込み、眠る前に、スマートフォンを手に取る。
無料で読めるWEB小説は、最高の娯楽だった。
これを読むことで、少しだけ現実から逃げられた。
どの作品でも、悪役令嬢は、とても嫌な女だった。
でもいいの。どうせ、惨めに退場するための存在だもん。最後にはスカッとできるはず。
だからどんどんヘイト行動をしてもらわなきゃ。
通勤電車の中で。昼休みの片隅で。夜、灯りを落とした部屋で。何度も、何度も読んだ。
その物語の場面が、今、目の前の光景と重なっていく。
見たこともない景色、聞いたこともない言葉、知らないはずの記憶が、現実と見分けのつかない重さで押し寄せる。
頭の中へ流れ込んできた記憶は、断片だらけだった。
それでも、結論は一つのみ。
今、婚約者に庇われている女が『この世界のヒロイン』で、自分は二人の恋を盛り上げるために置かれた、『小物の悪役令嬢』なのだ。
そう、小物。よりによって、小物。
婚約破棄されて、『ざまあ』されるだけの小物!
この先の展開にも、覚えがあった。
アンジェリカは嫉妬に駆られ、ミシェルを暴漢に襲わせる計画を立てるも失敗し、最後は無様に退場する。
しかし、落ち込んでいる暇など一秒もない! 『ざまあ』なんてさせない!!
「──皆様、ご覧になりまして? 私、今、顔を打たれたうえに、挙句に浮気まで見せつけられましたの!」
中庭に響いたのは、アンジェリカの声だった。
人垣がどよめき、視線がエリックとミシェルへ一斉に集まる。
「ア、アンジェリカ、言葉を選べ」
「選んでおりますわよ」
扇子で、赤くなっている顎を隠しながら、アンジェリカは切り返す。
「婚約者に怪我を負わせ、その直後に気遣う相手は私ではなく彼女ですよね?」
「俺はミシェルを守ろうとしただけだ!」
「ええ、そうですわよねえ。今、はっきりおっしゃいましたわ。私ではなく、ミシェル嬢を守った、と。皆様の前で」
エリックの表情が固まる。
周囲のざわめきが、一段大きくなった。
「違うっ! そういう意味じゃない!」
「どんな意味でも同じですわ。婚約者ではない令嬢を優先したのだもの。大勢の前で、私を傷つけてまで……。ああ、痛いわ、腫れてしまったらどうしましょう? 私はもうショックで堪りません。涙まで出てきましたわ」
故意に殴られたわけではない。
だが、それと同等。
否、それ以上にひどいことをされたのだ。
この場ではそれ以上に重く響く言葉を選ぶ権利がある。
乾いた目尻を指で拭う仕草をしたのち、一歩踏み出す。
前世で再放送の昼ドラを見ておいてよかった、と心から思う。
ありがとう、気の強いお嫁さん、意地悪なお姑さん。
「ねえ、エリック様? 婚約とはごっこ遊びではありませんのよ。家と家の約束で、信用で、体面です。そこへきて、あなたは人前でその約束を踏みにじった。お・分・か・り?」
アンジェリカは、にっこり笑っているが、ぶち切れている。
なんせプライドは、世界最高峰のルーヴェン山より高いのだ。
安くて下品な女に靡いた男になぞ愛想が尽きた。
というか、もう嫌いである。
恋心は塵芥と化した。
「私を傷つけ、他の令嬢を優先した方など、こちらから願い下げですわ! 私はこの婚約を破棄いたします!」
おお……っ! と沸く声に背中を押され、続ける。
「後日、両家を通して正式な手続きで責任を問います。そのうえで、違約金、私個人への慰謝料、怪我の治療費。もちろん、ランカスター伯爵家への正式な謝罪もしてもらいます。各家への説明、書面の作成、証人確認、今後流れる噂への対処費用──」
「ま、待て! アンジェリカ!」
「怪我を負わせたうえに命令までなさるなんて、紳士にあるまじき行為ですわ」
「……少し当たったくらいで言いがかりはやめてくれ」
「肘を私の顎に入れたのはあなたです。そのうえ、あなたは私に謝るより先に、ミシェル嬢へ声をかけた。順序は最低ですよ」
「アンジェリカ!」
大きな声に眉を顰める。
「何ですの。反論なさるなら、私よりミシェル嬢を優先していないと、皆様の前で言い切ってごらんなさいな」
エリックは口を開くが、何も出てこない。
その沈黙こそが答えである。
「結構です。ねえ、皆様もお分かりになりました?」
令息たちが目を逸らし、令嬢たちは扇で口元を隠した。
笑いが漏れたのは、エリックが言い返せずに黙り込んだからだ。
流れは変わった。
エリックが優位に立てる空気では、もうない。
アンジェリカは、そこでミシェルへ顔を向ける。
「そして、そちらの泥棒猫さん」
「ひっ」
ミシェルは肩を跳ねさせた。
目を丸くしたまま、口だけがぱくぱく動いている。
「ご自分は関係ないとお思い?」
「わ、わたしは、そんなつもりじゃ……少しお話ししただけで……」
「その『少し』が、常識と違うのです。私以外からも注意されませんでしたか?」
「で、でも、わたし」
「お黙りになって」
アンジェリカは容赦なく畳みかける。
口を挟ませるもんか。一息で言ってやる。
「あなたのその軽薄な振る舞いで婚約関係に損害が出たのです。違約金、慰謝料、謝罪。『金額』でお話しいたしましょう? ああ、それと、お手紙はうち以外からも来るかと存じます」
ミシェルの顔がみるみる青くなる。
「責任は、きちんと取っていただきます」
アンジェリカはにっこり笑った。
「わたし……無理です……払えません」
アンジェリカは首を傾げた。
「ご自分の意思で、婚約者のいる、それも嫡男のご令息ばかりに近づいておいて、請求されたら『無理』? ずいぶん都合のよろしい理屈ですこと」
周囲から、今度ははっきりと笑いが起きる。ミシェルへの嘲笑だ。
エリックが歯を食いしばる。
ミシェルは半泣きで立ち尽くしている。
この場でアンジェリカを非難できる者は、誰一人いない。
アンジェリカは中庭を見渡し、はっきりと言い放った。
「本日ここにおられる皆様、どうぞ証人になってくださいまし。エリック・リツェンハイン様は婚約者たる私より他のご令嬢を優先し、私に怪我を負わせました。ミシェル・プリンスタイン様はその原因を作りました。この場で見聞きなさったことを、どうか証言としてお貸しくださいませ!」
気まずい思いがない令息たちは面白がり、そうでない者は俯いている。
アンジェリカがカーテシーをすると、令嬢たちの中から控えめな拍手が上がった。
先に手を打ったのは、日頃からミシェルへ良い感情を持っていなかった者たちだ。
ミシェルの行動は、すでに水がいっぱいに注がれたコップだったのだ。
アンジェリカが水を足さなくても、近いうちに溢れていたのだろう。
アンジェリカは、にこやかに顔を上げたのち、表情をガラリと変えて冷え切った目を二人に向けた。
「言い逃れは書面でどうぞ」




