第1話 沈黙の檻
大阪の夜は、いつも騒がしい。
ネオンが脈打つように明滅し、車のクラクションが鉄の味を舌に残す。
俺、響零にとっては、それだけでも地獄だ。
音が、ただの音じゃない。
電車のブレーキ音は赤い棘の群れとなって視界を刺す。
誰かの笑い声は、青い波のように広がって肺を締め付ける。
人混みの足音は、無数の黒い針が皮膚を這う感覚。
俺の五感は、勝手に混じり合って、脳を焼き続ける。
共感覚。
医者はそう診断した。
「珍しいけど、病気じゃない。慣れなさい」
慣れる?
笑わせるな。
毎日、毎日、感覚の洪水に溺れながら生きてるんだぞ。
今夜も、俺はいつもの路地裏にいた。
家族の借金取りが、今日こそ「最後の期限」だと言って迫ってきた。
母さんは泣きながら謝り、父さんは黙って酒を煽るだけ。
俺にできることは、何もなかった。
「零……お前、闘技場に行けって言われてんだけど」
借金取りの男が、スマホの画面を見せてきた。
闇の地下闘技場「ネオン・コロシアム」。
そこで勝ち続ければ、借金帳消し。
負ければ……まあ、死ぬか、臓器売られるかのどっちかだ。
「冗談だろ。俺みたいな奴が」
「冗談じゃねえよ。お前の共感覚、使えるらしいぜ。
組織のスカウトが『面白い』って言ってた」
使える?
俺のこの呪いが?
笑いが込み上げた。
でも、笑うと喉が鉄の味で詰まる。
結局、俺は連れていかれた。
地下へ続く階段は、湿気と血の匂いが混じった重い空気。
階段を降りるたび、遠くから響く歓声が、俺の頭の中で金色の津波のように広がる。
コロシアムは、想像以上に狂っていた。
円形のリングは鉄格子で囲まれ、周囲をネオンが取り囲む。
観客席は影に沈み、顔の見えない人間たちが酒と興奮を撒き散らす。
リングの中央に立つと、照明が俺を焼くように照らす。
「次戦、雑魚枠! 響零、対戦相手は……『鉄拳のジャック』!」
アナウンスが響いた瞬間、観客の歓声が爆発した。
その音が、俺の視界を真紅の炎で埋め尽くす。
「う……あ……」
膝が震えた。
足音、心臓の鼓動、歓声、全部が混じって、頭蓋骨の中で暴れ回る。
赤い棘が、青い波が、金色の津波が、俺を内側から引き裂く。
対戦相手のジャックは、2メートル近い巨漢。
筋肉が鎧のように盛り上がり、拳には古傷が無数に刻まれている。
「ガキ……お前みたいなひ弱そうなのが、よくここに来たもんだ」
ジャックが笑う。
その笑い声が、俺の舌に腐った鉄の味を広げる。
ゴングが鳴った。
ジャックが突進してくる。
足音が、地面を叩くたび、黒い棘の軌跡が視界を走る。
「死ね!」
巨拳が振り下ろされる。
俺は、反射的に体を捻った。
なぜか、軌道が「見えた」。
赤い棘が、拳の先端から伸びて、俺の顔を掠める位置を示していた。
避けた。
観客がどよめく。
「なんだあれ……避けたぞ?」
ジャックが苛立つ。
連続でパンチを繰り出す。
そのたび、拳の風切り音が青い波となって俺を襲う。
でも、波の形が、攻撃の次の軌道を教えてくれる。
俺は、ただ避け続けた。
感覚の洪水は、まだ俺を殺そうとしている。
でも、その洪水の中に、わずかな「形」が見え始めた。
音が、色になる。
色が、形になる。
形が、軌道になる。
「くそっ……何だてめえ!」
ジャックが吼える。
その吼え声が、真紅の稲妻のように炸裂した。
俺の視界が、一瞬、真っ赤に染まる。
そして――
俺は、初めて「反撃」した。
ジャックの拳が空を切った瞬間、俺は彼の胸に掌を押しつけた。
触れた瞬間、相手の心臓の鼓動が、俺の手に伝わる。
ドクン、ドクン。
そのリズムが、黒い棘の連鎖となって視界に広がる。
俺は、無意識に力を込めた。
「――!?」
ジャックが、突然膝をついた。
顔を歪め、吐き気を堪えるように口を押さえる。
「う……ぐ……何だ、この……鉄の味……!?」
俺の攻撃音が、相手に「味」として伝わったらしい。
錆びた血の味。
腐った鉄の味。
ジャックがよろめく。
俺は、まだ何が起きたのかわからなかった。
ただ、感覚の洪水が、初めて「俺の味方」になった気がした。
観客が沸く。
「なんだあれ!? 触っただけでジャックが!?」
「雑魚じゃねえ……!」
リングの照明が、俺をより強く照らす。
借金取りの男が、観客席から笑っていた。
「ほらな。使えるだろ? お前の共感覚」
俺は、リングの中央で息を荒げた。
頭の中は、まだ赤と青と金の嵐。
でも、その嵐の中に、わずかな「静けさ」が生まれた。
サイレント。
そして、エコー。
この感覚が、俺を変えるのかもしれない。
――でも、まだ始まったばかりだ。
ゴングが、再び鳴る。
次戦は、もうすぐ。
(第1話 終わり)




