愚かですね、殿下。公爵令嬢を処刑し、平民を妃に据えたところで
愚かですね、殿下。公爵令嬢を処刑し、平民を妃に据えたところで
───王妃が死んだ。
その知らせは、瞬く間に王国中を駆け回った。
ルーシー・モリエ。王国史上初めての平民出身の王妃であり、特に市井では『女傑』や『平民の星』などとも呼ばれ親しまれていた人物。
そんな王妃が死んだともなれば、当然多くの民は動揺する。
死因は何か、どうして王妃は死んだのかと民達が口々に怪しむ中で、けれどたった一人。
ローレン・フォルジュ公爵だけは、その真実を知っていた。
無理もないことだったのである。
元々王妃はいつ死んでもおかしくなかった。身体中がボロボロで、むしろ今まで生きていたのが不思議なくらいだったのだ。
手段を選ばず王妃になって、当時は王太子であった国王を籠絡するため、若い頃には麻薬にだって手を出した。
だからきっと、王妃はなるべくして死んだのだ。
衰弱しきった末の最期だったという。
▪︎
どこでどんな風に終わってしまったのかは分からない。けれど、確かに死んでしまったことだけは覚えていた。
本来であればそれで終わる筈だった人生。そこに予期せぬセカンドステージが現れたのだから、世界というものは実に不思議なものである。
16年ほど生きたところで死んだはずが、気が付けば赤ん坊になって、美人だけれど少し派手なお姉さんにあやされていた。
その人が母親で、自分が「ルーシー」という名前の子供だということに気付くのは早かった。母はよくルーシーを抱きながら色んなことを話してくれたので、ルーシーだって言葉を覚えるのは早かったのだ。
母は美しい人だったけれど、同時に少し、報われない人でもあった。
こんな下町で娼婦をしているとは思えないほど純粋で優しくて、世間知らずなところはあるけれど必死に『お母さん』をしようとしてくれているのが分かるほどの善人。
だからこそ、掃き溜めのような町では暮らし難かったのだろうと思う。
男に騙され捨てられて、借金まで背負わされたから逃げられなくなった。娼婦として暮らすしかなくなって、けれどそんな男の子供を育てることを選んだのだ。生まれた赤ちゃんに名前をつけて、愛して、苦労をしながら育ててくれた。
稼ぐ手段が限られていて、子供を木箱に入れながらそのすぐ傍で身体を売っていたことは褒められたことでは無かったかもしれないが、それ以外に生きていく術も赤ん坊を育てていく方法も無かったのだ。誰がそんな母を責められようか。
ルーシーを木箱に入れる時。母の緑の瞳からは、いつだってほろほろと涙がこぼれていた。「ごめんね、ルーシー」と抱きしめて、「ママがこんなだから」と本当に申し訳なさそうだった。
文字さえ読めなくて、お金の勘定が精一杯。だからこそ、必死にお金を集めて、ルーシーを学校に入れようとしてくれたのだ。
「ママに似ちゃだめよ。ルーシーなら何にだってなれるから。賢い子だもの。たくさん勉強して、立派な大人になるの」
それが母の口癖だった。ルーシーはそんな母に抱きしめられるたび、どうしようもなく胸が苦しくなった。
ルーシーのために、どれだけ母が無理をしているのかを知っていた。日々の生活費でさえ大変なのに、いつかルーシーが必要とするかもしれない学費のために内職にまで手を出して、暇を見つけてはレースを編んだりもしていたのだ。
ルーシーには前世の記憶がある。だからルーシーが率先して家事を行ったり、内職を手伝ったりしたら、母は困ったように微笑んで「ごめんね」とルーシーの頭を撫でてくれた。
どうしてママが謝らなくてはならないのだろう、と思った。悪いのはママを騙して捨てた男だ。悪いのは、そんな母に頼らなければ、足を引っ張らなければ生きていけないルーシーだ。
ルーシーは母のことが大好きだった。近所の子に「ショーフの娘!」と髪を引っ張られてからかわれても、母を恥ずかしいだなんて思ったことはない。
立派な大人になんてなれなくても良かったけど、母にもっと良い暮らしをさせられるようになりたかったから、必死になって勉強をした。
歯を食いしばり、母を道具と見る大人に頭を下げてこの国の文字を学んだ。母が用意してくれた、客からなんとか譲り受けたのだという古い本を擦り切れるほど読んだ。あまりはっきりとしない前世の記憶を必死に呼び起こして書き起こして、机に齧り付くようにして勉強した。
誰もルーシーが成功するなんて思わなかった。
所詮は娼婦の娘。どうせ失敗すると見て、大人達は笑いながら煙草を吸っていた。ルーシーに文字を教えてくれた男は、「学校に入れなかったら母親みたいになれ」と条件を付けて、ルーシーがそれに頷けば馬鹿にしたように大笑いをした。
母だけが、ルーシーのことを信じてくれていた。
自分の名前も書けない母。ルーシーがはじめて覚えた字で母の名前を書いてみせると、すごいすごいと喜んでくれた。「うちの子って天才!」と、殴られて腫れた頬で、手を叩いて褒めてくれて。
ルーシーが誰から、どうやって文字を学んだのかは気が付かなかったけれど、ルーシーはそれに救われたのだ。
そして、16歳になった時。
ルーシーは成し遂げたのだ。能力さえあれば身分を問わないとされる国立学園に、奨学生としての入学を果たした。ここさえ卒業すれば役人になれる。
ルーシーの合格を知った下町の男達は顎が外れるほど驚いたけれど、元々結んでいた約束のこともある。ルーシーの入学を邪魔することはなかった。
悪党にもそれなりの義理というものはあるらしいのだ。プライドと言っても良いかもしれない。人身売買を手掛ける悪党達には、おかしな話だけれど。
▪︎
王立学園は、次世代の人材を育成することを目標として設立された全寮制の学校組織である。
基本的に貴族家の令息令嬢はこの王立学園に入学するし、その他にも入学試験で優秀と認められた平民もまた一定数生徒として迎え入れられていた。
とはいえ、身分制度が存在する国に作られた学園だ。同じ王立学園に通う生徒でも、貴族と平民では制服も違えば学舎も違う。
学ぶ内容ももちろん違う。貴族が外交や人を使うことを学ぶ反対に、平民の学生はむしろ使われることを学ぶ。将来貴族達の手足のように働く役人となるために、役所仕事に必要な知識や立ち振る舞いを叩き込まれるのだ。
ルーシーが前世で見かけたような学園ファンタジーものでは、よく学園内では貴族平民みな平等、なんて理念が掲げられていたが、実際に身分社会に生まれてみればつくづくわかる。
そんなものは理想論だし、上手くいくはずもない。ルーシーは当然平民としてクラスに入り、貴族達とは関わることのない学園生活を送っていた。
同じクラスの生徒には、「本当に少しもお近付きになれないなんて!」と嘆いていた子もいたけれど、ルーシーはむしろ安心したのだ。
特権階級のお貴族様と、なんの後ろ盾もない平民が関わって碌なことになるはずもない。
このまま何事もなく学園生活を送り、何事もないまま卒業して、早く役人になろう。
貴族達に社畜よろしく使われることになるかもしれないが、今の生活よりはずっとマシなはずだ。給料を貰えたらママと一緒にあんな町引っ越して、平和に暮らしたいと思っていた。
思っていたのだ。本当に。
状況が変わってしまったのは、ルーシーが学園に入って暫くが経った頃だった。
入り組んだところにあるからか、人が滅多に寄り付かない小さな裏庭で、ルーシーはいつも通りに本を読んでいた。
王立学園が誇る巨大な図書館にはとにかくたくさんの本があるが、図書館にも関わらず、少々学生が多すぎるせいで騒がしいのが難点だった。
落ち着いて本を読める場所を探してたどり着いた裏庭が、ルーシーのいつもの場所だったのだ。
そんなルーシーのいつもの場所に、その時、けれど予期せぬ来客が訪れたのである。
「っ……!!」
草陰が揺れて、飛び込んできた一人の少女。鮮やかな金の髪を持つ、貴族学級の制服を着た女の子。
先客であるルーシーが居ると気付くと、びくりと怯えたように肩を揺らした。ルーシーはそれに、最初は、そうだ。面倒なことになったと思ったのだったか。
貴族というものは何よりも体裁を優先する。泣いているところを、それも平民に見られるなんて恥だろう。どうやって口止めをはかられるかもわからない。
だからルーシーはいかにも気付いていないように、それとも敵意がないことを示すようにニコリと笑って、持っていた本を閉じたのだ。
「お邪魔をしてしまったようで」と席を立とうとして、けれど。
「っ待って……!」
パシリ、と手を掴まれた。冷たい井戸水での洗濯も知らないような、荒れた跡一つもない白い指先。二つの手のひらがルーシーの片手を掴んで、引き留めて。ルーシーは貴族の不興を買うわけにはいかないからと、仕方なく振り向いた。
振り向いて、後悔した。
「───………」
ほろほろと涙を流す女の子の目が、緑色だったのだ。
瞬間、脳裏に過ったのは母の姿。「ごめんね」と泣いて、いつもルーシーに謝っていた優しい母。別に重ねたわけではない。
でもルーシーにとって、母は本当の意味で特別だった。ほんの少し思い出しただけ。そのきっかけになっただけ。それだけで、ルーシーが足を止めてしまう理由には十分だったのだ。
「待って、お願い、い、いわないで。わたし……!」
こんな噂が立ってしまったら、お父様に叱られてしまう、と。
ほろほろと泣く少女に、ルーシーは結局、いともたやすく負けてしまった。適当に誤魔化して去るつもりだったのに、気が付けば手を伸ばして彼女の涙を拭っていたのである。
「……言わないわ。誰にも。絶対」
鮮やかな金の髪。白い肌の震える手。涙に濡れた緑の瞳が落ち着くまで、それからルーシーは、ずっと彼女のそばに居続けた。
まさか彼女が、あの世に悪辣と知られる公爵令嬢。
オフィーリア・フォルジュであるとは、この時のルーシーは思いもしなかったのである。
▪︎
ルーシーとオフィーリアは、それから時々あの小さな裏庭で会うようになった。
特に約束はしていなかったけれど、ルーシーはほとんど毎日あの場所で本を読んでいる。だからそこへオフィーリアが来てさえくれれば、自然と会うことになったのである。
オフィーリアは純粋な少女だった。
世間には悪女だなんだと言われているけれど、ルーシーから見た彼女はむしろただ綺麗なだけの、普通の女の子に見えたのだ。ルーシーの側にくっついて、よく一緒に本を読んだ。幼い頃から高等教育を受けてきたオフィーリアは、ルーシーが知らないことをいくらでも知っていた。
ルーシーも奨学生となれるくらいには優秀とされていたけれど、それはあくまで平民の中での話である。幼少期からきちんと教育を受けた貴族達と比べれば、ルーシーの持つ知識なんて、ほんの子供のようなものだろう。
けれどオフィーリアはそんなルーシーに威張ることなく、馬鹿にすることもなく、ただ純粋にルーシーに色んなことを教えてくれた。
「ありがとう」とルーシーがほんの少し笑うだけで、心底嬉しそうにはにかむのが可愛かった。
華奢な背中に、緩やかに波打つあざやかな金の髪。オフィーリアは、まるで花のような乙女だった。
貴族と平民が表立って仲良くしたって良いことはない。貴族であるオフィーリアにとって、ルーシーは汚点にしかならない。ルーシーの出自を思えば尚更だ。
母を恥ずかしいとは思わないし、元々特に隠すつもりも無かった。けれど現実として、この国は最下層の人間に対して冷たい場所だった。
こんな状況に、少しも思うところが無かったと言えば嘘になる。
けれど最初にルーシーが「人目があるところでは話さないようにしよう」と提案した時、オフィーリアは目に涙を浮かべて、「どうしてそんなことを言うの!」と言ってくれたから、かえってどうでも良くなったのだ。
完璧な淑女として知られるオフィーリアは、だけどルーシーの前では本当に泣き虫な子だった。
甘えたがりで、ほんのちょっと我儘で、ルーシーが作ったぱさぱさのサンドイッチを喜んで食べるような可愛い女の子。
オフィーリアが傷付かないためなら、オフィーリアの傷にならないためなら、オフィーリアを守るためならルーシーはなんだって出来る気がしていた。
平民差別のひどかったあの学園。平民同士でさえ、将来の椅子を争って蹴落としあうようなあの場所で、オフィーリアと過ごすあの小さな裏庭は、ルーシーにとっての世界に等しかった。
愛していたのだ。
だからルーシーは、王太子が嫌いだった。
王太子、ヴィトー・マクシアン。
オフィーリアの婚約者であり、救いようのないクズ。学園という一種の隔離空間に居るのをいいことに、貴族学級で次々と若い令嬢に手を出している根っからの女好きである。
噂の範疇を出ないけれど、平民まで抱いたという話もある。
あの日、ルーシーとオフィーリアが出会った日。オフィーリアが泣いていた理由でもあった。
だからルーシーは王太子が嫌いだった。オフィーリアがフォルジュ家の娘であるという理由だけで、彼女を蔑ろにして傷付ける男のことが嫌いだった。憎んでさえいた。
オフィーリアが「もう気にしてもないわ」なんて笑っても、ルーシーの心はちっとも晴れなかったのだ。
「ふふ。ルーシーって相変わらず心配性ね。本当に平気なのよ、もう殿下のことは何とも思っていないの」
「でも、あの男がオフィーリアを傷付けてきたことは変わらないじゃない。いつもいつも貴女のことを侮辱して、嘲って、いつだって私はらわたが煮えくり返る思いだわ」
ルーシーがぎゅっと眉間を顰めれば、オフィーリアはくすくすと肩を揺らしてルーシーの手を握った。
肩に寄りかかられると、ふわりと花の匂いがする。オフィーリアはいつだって花の香りを纏った少女だった。
「殿下が私をどう思っていようが、嫌われても、憎まれていたってどうでも良いの。この世でいちばん綺麗なものがそばにあるのだもの。これ以上、私が望むことなんてひとつもないのよ」
そばに居て、とオフィーリアは微笑んだ。
そばに居るわ、とルーシーは繋いだ手をぎゅっと握った。
幸せだった。どこまでも。
学園に入って、二度目の長期休暇の時。オフィーリアが処刑されたと知るまでは。
ルーシーと母の暮らす下町の家に、男がやってきたのだ。雨の日だった。傘をさしていて、オフィーリアと同じ金の髪。ルーシーの家の前に立っていた。
嫌な予感がした。ルーシーは彼が誰かを直感的に理解していたのだ。
だって男の顔はオフィーリアと似ていた。だってオフィーリアから聞いていた。あの子には兄が居ると知っていた。
「ルーシー・モリエ嬢だね」
オフィーリアとは違う、褪せた青の瞳だった。
ほんの一瞬見開かれた青色がルーシーを捉えて、そうしてルーシーの名前を言い当てたのだ。
「僕はローレン・フォルジュ。オフィーリアの兄だ。妹の遺言に従って、君に会いにきた」
ルーシーは貧しいから、傘なんて持っていなかった。そんなルーシーの頭上に自身が持っていた傘をさしながら、ローレンは何かをルーシーに差し出した。
遺言。その言葉に呆然としながら差し出されたものを受け取れば、ころんと小さな白いかけらがルーシーの手のひらの上に転がった。
「これにどんな意味があったのかは分からないけれど、妹は、君に小指をと言い遺してね。随分と久々にお兄様と呼ばれたよ。それほど必死だったんだろう」
柔らかな声は、けれど全く飲み込めなかった。だって、小指と言った。だって、それは。ルーシーが何気なく話した前世の話からきていて。ルーシーとオフィーリアはいつだって、何か約束事をするときには小指を絡めていて。
白い肌。長い指。傷一つとしてない、綺麗なオフィーリアの指先は、宝物のようで。
ルーシーは、柔らかな光が差し込むあの小さな裏庭で、そんなオフィーリアと約束を交わす瞬間が大好きだった。
こんなに、小さくなってしまった。
「───妹が死んだ原因は王太子だ」
「……………え?」
「何があったのかは分からない。けれどオフィーリアは、王太子に剣を向けたとして拘束、処刑されてしまった。色々な政治的思惑があって公にはされていないし、処刑自体もひっそりとしたものだった。暫くは病死として片付けられるだろう」
「けれど、真実は変わらない」とローレンは言った。オフィーリアによく似た微笑みで、ルーシーに傘を差し出したせいで、雨に濡れた髪を頬に貼り付けて。
「君は、簡単には納得してくれなさそうだったから」
「──………」
「諦めた方が身のためだ。相手は王太子。平民、それもこんな町に暮らしている娘が太刀打ち出来る相手じゃない。オフィーリアのことは、夢でも見たと思って忘れなさい」
持っていた傘をルーシーに渡して、ローレンはそのまま去って行った。
ルーシーはそれから暫く、母が帰ってくるまでの間ずっとその場に立ち尽くしていた。そのときルーシーの頭の中を埋め尽くしていたのは、彼の「忘れろ」という言葉では無い。
オフィーリアの仇があの王太子であるという、真実だけだったのだ。
▪︎
新学期が始まって、ルーシーは再び学園に戻ってきた。
あい変わらず寮で暮らして、図書館に行っては目ぼしい本を借りる日々である。あの小さな裏庭の、たった一つしかないベンチに腰を下ろして、穏やかな日の光をあかりにして文字を追いかける静かな時間。
いつも通りの日常だった。ルーティンは何も変わらない。
ただ、オフィーリアがいないだけ。
それだけのことなのに、ふとした時、胸を掻きむしりたくなるような恋しさに襲われた。甘えん坊で泣き虫で、ほんの少しわがままだったルーシーのオフィーリア。鮮やかな金の髪。いつか一緒に暮らそうと約束した。
元々ルーシーは母を連れて、どこか田舎に引っ越して暮らそうと思っていた。オフィーリアはそれを知ると、ルーシーの手を取って「私も一緒にいきたい」と言った。夢物語だと分かっていた。オフィーリアは公爵令嬢。きっと身分が許さない。けれど夢を見たのだ。
オフィーリアを縛る身分のしがらみなんて無くなってしまえばいい。無事に卒業出来たなら、ルーシーは都市の役人ではなく、地方への勤務を望むつもりだった。
オフィーリアはその為に、自分の代わりを王太子にあてがうつもりだとも話していた。幸福に微笑んで、「次のお休みには、私を貴女の家に連れて行って。ルーシーのお母様にご挨拶したいの」と。オフィーリアはルーシーの母が娼婦だと知っても何も変わらなかった。ただルーシーの隣に居られるのなら、それ以外のことは些事なのだとさえ言ってくれた。
ルーシーのこともオフィーリアのことも、誰も知らない田舎に行くのだ。
大変なことはたくさんあるかもしれない。慣れない暮らしをするわけだし、させてしまうわけだから、きっといっぱい喧嘩もするだろう。それでも、オフィーリアさえ居るのなら、どんな場所でも楽園のようだろうと思っていた。
オフィーリアだって、そう言ってくれた。たのしみと笑って、額を合わせて、吐息の温度が分かるほどに近い距離。くすくすと笑い合ったことがしあわせだった。
それが最期になるなんて、思わなかったのだ。
「………ぁ、」
もうずっと先に進まない本のページ。ぽたぽたと涙が落ちて、そこでようやく、ルーシーは自分が泣いていることに気が付いた。慌てて涙を拭う。何だか不思議だった。まるでオフィーリアの泣き虫が移ってしまったみたいだと思った。
泣き虫だったオフィーリア。たった小指の先ひとつしかくれなかった。薄情なオフィーリア。全部くれると言ったくせに。墓を掘り起こしてやろうかとすら思った。ルーシーはあの子の心臓が食べたかった。
いつか一緒に、同じ土に溶けてなくなるはずだったのに。
「───っ誰!」
その時。ザザ!と草の動く音がして、ルーシーは咄嗟の様子でそう叫んだ。本を抱きしめながら立ち上がり、キッと吊り上げた目で草藪を睨み付ける。
暫くの沈黙。再びザッと草木が動いて、そこから現れた人間の姿に、ルーシーは思わず言葉を失った。
「……すまない。覗くつもりは無かった」
「───………、」
は、と。声にならなかった声が、喉を掠れたのがわかった。その瞬間、ルーシーの臓腑を襲ったものは何だったのだろう。
憎悪であり悲嘆。怒りでもあり、きっと絶望でもあった。ほんの一瞬で色んな感情がルーシーのはらわたを、まるで混ぜるようにぐるぐると回った。
草木の陰から現れた相手。王太子、ヴィトー・マクシアン。
オフィーリアの婚約者であった男。何度だってオフィーリアは、こんな男のために泣いた。銀の髪、紫の目を持つ悪魔。
オフィーリアを殺した仇。
「う、ええ……っ」
そう認識した瞬間。気が付けば、ルーシーは持っていた本を取り落として、えずくように口元を押さえながら崩れ落ちていた。
気持ち悪い、気持ちが悪くて仕方が無かった!
腹の奥がぐるぐると、汚いものでいっぱいになる。どうしてこの男がこの場所にいるの。どうしてここに居るのがオフィーリアではないの。何故この男が、のうのうと生きてこの場所に足を踏み入れたのか。
オフィーリアは死んだのに、ここは、だって、オフィーリアの場所なのに!!
「っ、ルーシー嬢!」
歪む視界。その端に見えたのは、やけに焦った様子でルーシーに手を伸ばす王太子の顔。
随分と長い間、まともに寝食を行っていなかったからだろう。今にも吐いて崩れそうなルーシーにその時出来たのは、精々伸ばされる王太子の手を拒絶し振り払うことだけだった。
本当は今にも殴りかかって、その憎らしい顔をめちゃくちゃにしてやりたかった。なのに爪を立てるつもりで伸ばした手は擦りすらしなくて、それどころか王太子に掴まれて支えられてしまう始末。
「すまない、驚かせた」としおらしく謝られて、突き飛ばそうにも、暴れようにも、ルーシーの弱った身体ではそんなことすら碌に出来ない。えずくのに忙しくて、離れようとするのに精一杯で。
悔しくて悔しくてたまらなかった。
こんなに大事なのに、大好きなのに、愛してるのに、オフィーリアの仇が目の前にいるのに。何もできないことが嫌で、あの子に申し訳なくて、憎くて憎くて、悲しみではなく憎悪と悔しさで涙が滲んだ。
そして王太子はまるでそんなルーシーを心配するように、殆ど中身のない胃液を吐き続けるルーシーの隣に、まるで寄り添うようにそばに居続けたのである。
▪︎
平民が使う寮棟は、基本的に二人部屋になっている。
それはルーシーの使っている部屋も例外ではなくて、ルーシーにはクリスティという名前のルームメイトがいた。
「……平民が王族を殺したら、大変なことよね」
夜も更ける時間だった。ルーシーはベッドに寝転がりながら、ぽつりと呟くようにして、クリスティにそう聞いた。
クリスティはすると机に向き合ったまま、「まぁ、そりゃ身分の差が大き過ぎるしねぇ」と軽い調子で答える。
「何?とうとうやっちゃった?理由は知らないけど、あんた王太子のこと大嫌いだったもんね。死体があるなら、埋めに行くくらいなら手伝うけど」
「死体はないわ。残念なことに、相手はまだ健在だもの」
「そう?それはお気の毒。でも命拾いもしたじゃない。あんたが早まってたら、故郷のお母さんだってタダじゃすまないわよ」
「……そうね」
「思いとどまれて良かったわね」
けらけらとクリスティに笑われて、ルーシーは小さく「……そうかもね」と呟いた。
正確には思いとどまったのではなく、力及ばず成し遂げられなかったと言った方が正しい。けれど結果として言えば、そのおかげでルーシーは早まらずに済んだとも言えるのだ。
ルーシーの命一つをかけるだけで、王太子に一矢を報いることができるのであれば、ルーシーには躊躇う理由なんてない。けれどそうではないのだ。
平民が王族を害そうとすれば、本人どころかその家族までもが咎を負う。ルーシーがそのことを思い出したのは、一度倒れて再び意識を取り戻した後だった。
あの後ルーシーは結局気絶したのだ。そして目覚めた後の、冷静になった思考で青褪めた。
王太子のことは大嫌いだ。憎くて憎くて仕方がない。けれど憎悪に飲み込まれて、我を忘れるべきではなかった。あの時ルーシーがあれほど弱っていなければ、王太子への害意が少しでも露見していたら危なかった。
家に置いてきた母の顔を思い出して、ルーシーはまた、ただでさえ青かった顔を土色に変えたのである。
医務室の先生は、そんなルーシーに「よほど体調が悪かったのね」と同情したように話した。そして誇らしげに、「王太子殿下の御慈悲に感謝するのよ」とも。
王族が平民の胃液で服を汚しながら、直々に医務室まで運ぶなんて前代未聞だ。それもルーシーの顔を自分のジャケットで隠し、出来るだけ人の少ない道を来て、ルーシーが噂の的になるのを防いでくれたのだと。
本当に王太子殿下は高潔で、ご立派な方だわと。
ふざけるなと思った。
本当はそのまま叫び出してしまいたかったけれど、随分と久しぶりに長い間を眠ったからだろう。ルーシーの頭の中に戻ってきた僅かの冷静な思考がそれをとどめた。ただ悔しくて悲しくてたまらなくて、ベッドの上でまた泣いた。
ルームメイトであるクリスティは、部屋に戻ってきたルーシーの、そんなただならぬ様子にも気付いていた様子だった。
けれどクリスティは無粋なことは言わないし聞かない。優しいから、ルーシーが話しかけるまで気付かないふりをして、いつも通りに勉強を続けてくれていたのだ。
「ま、仕方がないわよ。あたし達平民だし、身分の前ではあたし達なんて蟻よ蟻。嫌な世の中だけど、そういう国だもん、ここ」
「……うん」
「やだ……。本当に落ち込んでる……。珍しいわね、ルーシーがそんなになるなんて。そんなに新学期が憂鬱?」
「……」
「………嫌がらせくらいなら、方法がないわけでもないのよ?一応」
「……え?」
クリスティの言葉に、思わずルーシーはがばりとベッドに手をついてルームメイトの方を向く。
視線の先のクリスティは「まぁあんまり現実的ではないけど」と苦笑して、考えるように「んー……」と顎のところにペンを置く。
「うちの平民学級ことノーマルクラスでもね、王太子に弄ばれたって子は何人かいるのよ。それも長期休暇が始まる少し前から特に増えてね」
「知ってるわ。噂になっていたもの」
「んね。まぁあたし達平民って、貴族のお嬢様とは違って弄んで捨てても、特に問題になることはないじゃない?それもあってのことだとは思うんだけど……。流石にそれだけ数をこなせば、いくら平民の女って言ったって、根性ある子は出てくるのよ」
「根性?」
「そう。別れる時、平民なのに王太子の顔を引っ叩いて暴言吐ける根性」
チェシャ猫のような顔。にま、とクリスティは笑って、唖然とするルーシーに「面白いでしょ」言った。
「でももっと面白いのはね、あの王太子にも、一応男としてのポリシーがあるみたいだってこと。付き合っている時は王太子と平民ではなくて、あくまで男と女。だから男女関係、痴情のもつれ。そういう時に働かれた無礼や付けられた傷は、身分をたてにして責めたりはしないみたいなの」
「それって……」
「つまり、上手くやればとことんやれるってこと。我儘言って困らせて、当たり散らして怪我させたり?それに恋人関係にさえなれたら、死体にするまでは出来なくても、距離がグッと近くなるんだもん。その分そそのかして悪いことさせて、痛い目みせることも出来るかも」
「───………」
「ね。夢があるでしょ?」
クスクスとくすぐるようにルームメイトは笑って、椅子から立ち上がり、ルーシーの髪をひとふさ優しく掴んだ。そして、ふ、と柔らかな微笑み。
「ルーシーならいけるわよ、美人だし。あと王太子が相手にしてきた平民の子って、どれもこんな感じの、栗色の髪をしてたって話だもの」
「クリスティ……。なんでそんなこと知ってるの?」
「あたしって友達多いの。もちろん一番はあんただけどね」
ちゅ、と軽い調子でルーシーのこめかみにキスが落とされる。
すると赤い色。クリスティの口紅の色がルーシーの肌にうっすらと残る。満足げなクリスティの瞳。
「手伝うわ、ルーシー。それであんたが泣かずに済むんなら、あたしは何だってしてあげる」
だってあたし達ルームメイトだもの、とクリスティはふわりと微笑んだ。
▪︎
憎しみに突き動かされているというよりは、いてもたってもいられなかったという方が正しいのかもしれない。
何もしないままでいるとふとした時に涙が落ちて、気が狂いそうになった。
結局のところルーシーは、気を逸らす為の何かに打ち込みたかっただけなのだろう。
ルーシーは王太子の恋人になった。
元々女好きと知られている相手だ。あの時の無礼をお詫びするという口実もあれば、近付くのは容易かった。クリスティが言っていた、栗色の毛が好きだという情報も正解だったのだろう。
ルーシーが近付けば近付いただけ、王太子もまたルーシーの側に来た。そうしてまるで、本当に恋にでも落ちているみたいにルーシーに心を許したのだ。
王太子は、実に理想的な恋人だった。
いつだってルーシーのことを優先して、特別扱いして、何に関してもルーシーが望んだ通りにしてくれた。
愛の言葉を出し惜しんだりはしないし、ルーシーが身分の差のために不安にならないように、自分を後ろめたく思わないようにとても気遣ってくれているのも分かる仕草。
紫の瞳は軽薄なようでいて、けれどいつもゾッとするほど冷たい色を纏っていた。それなのに、ふとした時、ルーシーを見つけるとそれが甘やかに変わるのだ。
いつだって壊れ物に触れるような手付きでルーシーに触れて、ルーシーがくすくすと王太子の銀の髪に触れると、それだけで恋を知ったばかりの少年のように頬を赤くして幸福そうに微笑んだ。
大切にされていた。なるほど、道理でこの男の恋人になりたいと願う乙女が尽きないわけだと納得するほどに。
大切にされていた。その指先に触れられるたび、どうしてその優しさをほんの一欠片でも、オフィーリアに向けてくれなかったのかと叫びたくなるほどに。
王太子はきっと、これまでの恋人達にも同じように接してきたのだろう。同じように大事にして、愛して、それをオフィーリアに見せつけたのだ。
オフィーリアは何度だって傷付いた。何度だって泣いただろう。あの日、ルーシーとオフィーリアのはじまりの日。あの小さな二人の裏庭に、泣きながら飛び込んできたのと同じように。
大嫌いな男。この世で最も悍ましい、男という生き物。
ルーシーは、だからこそただの少女のように微笑んで、王太子の手を引いたのだ。
高貴な王子様に野原に寝転ぶことを教えてあげて、服を着たまま湖にだって飛び込んだ。
本来であれば王子として、それとも学園の生徒会長としての責務をこなさなければならない時間。ルーシーは彼の手を引いて学園を抜け出し、濡れた王太子の銀髪を耳にかけて、冷たくなった唇にキスをした。
次の婚約者候補と引き合わされる予定の日もそうだった。
どこにも行かないでと引き留めて、寂しいのと涙を浮かべて、そのまま扉も分厚いカーテンも閉め切って堕落というものを教えてあげた。
これにはクリスティが用意してくれた多くのものが、とても役に立ったのだ。
ルーシーのルームメイトであるクリスティ。
彼女はルーシーのような娼婦の娘ではなかったが、同じような親のもとに生まれた子ではあった。
クリスティの母親は少し治安の悪い酒場を経営していて、そこにはいろんな『悪いもの』が集まってくる。
ルーシーは、そんなクリスティからたくさんの物を受け取った。
そのうちの一つが麻薬である。
高貴な王子様は、煙草のような高い嗜好品は手にしても、粗悪な薬なんて使ったことがなかったのだ。
ベッドの上。ルーシーの胸の上でそれを吸わせてあげれば、王太子はあっという間にそれに夢中になって、駄目になった。
悪いことは楽しいことだ。知らないことは素敵なことだ。
一つ一つを教え込んで、褒めて、刷り込んで。そうすると、あの男は少しずつどうしようもなくなって行ったのである。
自らの責任を果たすことなく、快楽と堕落に溺れる王子様。
城から訪れた使者に会うことなく町に抜け出し、ルーシーの為の宝石を買って、そのままの足で露店に売られている串焼きを頬張った。
ルーシーは王太子の口についたスパイスを見つけるたび、「仕方のない子」と彼を甘やかして人差し指でそれを拭い、キスをして褒めてあげたのだ。
暗い路地裏にひっそりと佇む宿に引き込んで、銀の髪を掴み、紫の色の目を舐めたこともある。
ルーシーは王太子と会う時、必ず彼に贈られた耳飾りを付けていた。王太子はそれを見つけるだけで「私はしあわせな人間だ」と噛み締めるように、幸福に目を細めたのだ。
王太子は最早、ルーシーの奴隷と言って等しかった。
けれど、学園や社交界で王太子の資質を疑う声が大きくなり始めた頃である。
ルーシーの元を、ある男が訪ねてきたのだ。
忘れもしない。あの日ルーシーの家を訪ねたあの男。ルーシーオフィーリアの死を告げた、オフィーリアの兄。ローレン・フォルジュ。
ルーシーは自らの身を守るために、学園では決して表立って王太子に近付かなかった。
王太子が寄越した高価な贈り物だって、生徒や学校関係者の目がある中では一度だって身に着けていない。だから王太子には秘密の恋人が居ると噂になっても、ルーシーの名前が出てくることは一度として無かった。
だというのに、ローレンはルーシーに辿り着いたのである。
王太子が堕落した理由がルーシーにあると確信を持って、ルーシーの元を訪ねたのだ。
▪
「こんなことはもうやめなさい」とローレンは言った。
ルーシーはそれにただ「どうして?」と尋ねた。
「オフィーリアが望まない。自分の為に君がそんなことをするなんて、あの子は決して望まないはずだ」
「知っています。オフィーリアは柔らかなひとでした。私が王太子から何を奪って、何を明け渡したかをしれば、きっとオフィーリアは泣いてしまうでしょう」
「分かっているのなら何故!」
ローレンがテーブルを叩いた。ガシャン!と食器の揺れる音。雨の音が窓を叩く。
「……だって、オフィーリアはもう居ないじゃない」
泣きそうな顔だった。ルーシーは微笑んで、「オフィーリアはもう居ない」と繰り返す。
ローレンは思わず息を呑んだ。ルーシーのそれは一国の王太子を堕落させた女だとは思えないほど、置いてけぼりにされたひとりぼっちの子供みたいな、ただただ寂しそうな表情だったのだ。
「オフィーリアは死んだんです。今更私が何をしたって、喜ばないし怒らないし、泣いてもくれない。分かってる。だから私は何も、オフィーリアの為にこんなことをしているわけじゃない」
「ルーシー嬢、」
「ただ私が許せなかっただけ。憎まないと生きていけなかっただけ。分かってる、分かってるのよ、そんなこと。でも、だけど他にどうしたら良いか分からなかった!!」
ほんのひと時を共に過ごしただけだった。春の妖精のようであった少女。ひと度あの裏庭を出れば、いつだって完璧な淑女として振る舞った。
あの悪名高いフォルジュの娘であるからと、表情が少しも崩れないから得体が知れないと、どうせ裏では悪辣なことをしているのだろうと囁かれていた。美しいのに、あの王太子殿下が背を向けて女遊びをするくらいだ。さぞかし酷い性格をしているのだろうと面白半分に噂をされて。
誰もオフィーリアのことなんて見ていなかった。
見ていたのは、オフィーリアの家門とその悪名だけ。オフィーリアが、愛されない王太子の婚約者であったということだけ。
それだけでオフィーリアは悪女と言われた。誰も何も知らないくせに。誰も何も知らなかったくせに。オフィーリアがどれだけ繊細で泣き虫で甘えたがりで、努力をしてきたのかも知らないくせに。
オフィーリアの表情が崩れなかったのは、必死に堪えていたからだ。
泣き虫で弱虫なあの子が公爵令嬢として、王太子の婚約者として振る舞うための、精一杯の虚勢だった。それを悪辣と笑う人間達の、なんと悍ましいことだろう!!
馬鹿馬鹿しいと思うだろう。ほんの数ヶ月を一緒に過ごしただけの同性の少女に、ここまで心を奪われた。だけどそれでも、愛してしまったのだから仕方がなかった。
オフィーリアはルーシーの全部だった。奪われたら、生きてさえいけない。オフィーリアのことを考えている時だけルーシーは息が出来た。
王太子の側にいるときだってそうだった。あの男を憎んで恨んでいる感情の隣には、いつだってオフィーリアの思い出があった。
だからルーシーは、のめり込むように王太子への復讐に力を入れて行ったのだ。
オフィーリアの為なんかじゃない。
ただそうしないと、ルーシーが生きていけなかっただけ。
「やっと見つけたと思ったの。本来私達はこうあるべくして生まれてきたって思うほど、側にいるのが当然で幸せだった。なのに、ほんの少し離れた間にオフィーリアは死んだ!たったひとつの小指の骨を遺して!」
「ルーシー嬢、」
「どうすれば良かったの……?今もまだ恋しいの。今だって一番大事なの。あの男の銀の頭を抱きしめる度、どうしようもなくオフィーリアのあの柔らかな髪が恋しくなる。っあの時、あの時殺されてあげれば良かった!そうしたら少なくとも、私達はきっと、離れ離れになることはなかったのに……!!」
オフィーリアを一人にすることも無かったのに、と。
ルーシーは泣いた。いつだったか、オフィーリアと出会って間もない頃、ルーシーに向けられたあの淡い微笑み。オフィーリアに、「貴女の心臓を食べて、私だけのものにしてしまいたい」と告げられたことを思い出したのだ。
あの時のオフィーリアは、冗談のようでいて、けれど本気でもあった。
あの時ルーシーが、もしも「いいよ」と言ったのなら、オフィーリアはきっとその通りにしただろう。
そうしてあげれば良かった。そう思って仕方がなかった。子供みたいにうわあんと泣いて、顔を覆って泣き崩れる。
こんなに思い切り泣くのは久々だと思った。ローレンが目の前に居るからかもしれない。
オフィーリアにどこか似た面差し。オフィーリアと同じ鮮やかな金の髪。眼差しの色は違うけれど、ローレンの持っている多くのものはオフィーリアに似ていたから、感情の蓋が上手くできなくなったのだろう。
ローレンは、何を思ったのだろうか。席を立って、椅子に座るルーシーの隣に膝をつき、泣いて崩れるルーシーの背中をさすった。
自分の妹に「あの時殺されてあげれば良かった」なんて尋常ではないことを言うルーシーに、けれどずっと、泣き止むまでルーシーの隣に居続けたのだ。
「すまない。……すまない、ルーシー嬢。僕はきっと、君の、君達の触れてはいけないところに土足で足を踏み入れた」
そう話すローレンは、言葉の話し方までオフィーリアを思わせるもので、ルーシーの涙はますます溢れて止まらなかったのである。
▪
ローレン・フォルジュにとって、オフィーリアは実に哀れな少女であった。
妹であることは間違いない。けれどローレンは幼い頃から、オフィーリアに同情と憐憫、そして何よりも後ろめたさの罪悪感を抱えていた。
フォルジュ公爵家の第一子として生まれたローレンは、幼少期から父にも母にも随分と大切に育てられたと理解している。
けれどローレンが5歳の時家にやってきた赤ん坊は、母に憎まれ父には無関心を貫かれて、使用人達にさえ蔑ろにされていたのだ。
オフィーリアは、母が産んだ子では無かった。
父が外で作ってきた、調達してきたと言ってもいい女の子だったのだ。
母はローレンを産んだ時、まだほんの十代だった。その無理が祟ったのか、ローレンを産んで以降子供を作れなくなってしまっていたのだ。
けれど父は新しい子供を求めていた。それも女の子を。王家に嫁がせて、ゆくゆくは王妃に据えられるフォルジュの娘を。
だから父は外で作ることにした。表向きには母の子であるとして扱ったけれど、実際には足の付かないような身寄りのない貧しい女や娼婦を何人か囲って抱いて、一番父に似た特徴を持って生まれた子供を一人屋敷に連れ帰ったのだ。
それがオフィーリアだった。
オフィーリアは何も知らなかった。ローレンの母を同じように母と慕い、公爵である父を尊敬して育った。
どれだけ母に疎まれようとも、どれだけ父に無関心を貫かれても、健気なまでに両親を信じていた。
オフィーリアは、半分しか血の繋がっていないローレンのことだって「お兄様」と呼んでくれたのだ。
そして全部を知っていたローレンはその度に、どうしようもない罪悪感に苦しめられた。ローレンのせいで母は次の子を望めなくなり、その為に父は外で娘を作った。
全部自分のせいだと思ったのだ。
だからローレンはオフィーリアに優しかった。けれど純粋に妹だからと愛するには、ローレンの抱える罪悪感があまりにも大きくて、ローレンだって本心からオフィーリアを愛してあげられていたとはきっと言えない。
大切にしたけれど、優しくしたけれど、守ったけれど。それはやはり、後ろめたさと同情によるものだったのだと思う。
オフィーリアは可哀想な子だった。
だからそんなオフィーリアに特別な友達が出来たと知った時には、ローレンはとても、とても安心したのだ。
ルーシー・モリエという少女。
平民ではあるけれど、オフィーリアをオフィーリアとして大切にしてくれたのだという。『完璧な淑女』でもなく、『フォルジュの娘』でもなく、『王太子の婚約者』でもない。
肩書きではないそのままのオフィーリアを知って、愛して、受け入れて、何よりも大事だと約束してくれたというのだ。
それを聞いた時、ローレンは本当に、本当に嬉しかった。
オフィーリアの屈託のない笑顔なんて何年ぶりに見ただろう。「聞いて、お兄様」と話すオフィーリアは、年相応の少女に見えた。
「いつか兄様にも紹介するわ。あのね、ルーシーはね……」
そう言ってはにかんだオフィーリア。幸福に満ちた瞳を見て、ローレンだってどれ程喜んだだろう。
けれど妹は死んでしまった。それから間も無くして、オフィーリアは死んでしまったのだ。牢の中で毒を煽り、王家が用意した見届け人と、ローレンにだけ見守られてこの世を去った。
鉄格子越し。微笑んだ瞳を覚えている。
鋭利な刃物というよりは、錆びた何かで無理やり捩じ切ったような小指。
白いハンカチにつつまれた、腐りかけの肉を纏った小さな骨。ローレンに託して、「おねがい、お兄様」と頼まれたのが、最期の会話だった。
▪︎
王太子には『秘密の恋人』が居る。
社交界でそんな噂話が流れ始めたのは、オフィーリアの死から暫くが経った頃のことだった。
王太子が少しずつ、責務を投げ出すようになっていたのだ。
話によれば新しい恋人が出来たらしい。婚約者が死んで、これ幸いと女遊びに精を出し始めたのだろう。聞けば王太子ともあろうものが、下町の賭場にまで出入りしているという噂もある。貴族達は呆れ、中には王太子の資質を議論する者も出ていた頃。
けれどローレンはそんな中で、酷く嫌な予感に駆られていたのである。
脳裏に過ったのは、あの日、オフィーリアの小指を受け取った少女の姿。動揺に揺れるハシバミ色の瞳。
どうやらその『恋人』が平民らしいという話を聞けば、嫌な予感は尚更に膨らんだ。
これはきっと彼女の、彼女なりの復讐なのだろうと思った。後悔した。ローレンはあの時、決してオフィーリアが死んだ理由をルーシーに告げるべきでは無かったのだ。
確証は無かった。
けれど確信はあったのである。
だってオフィーリアとルーシーの間には、確かにそれほどまでの、危ういほどの精神の繋がりが見えて仕方がなかったから。
だからローレンは学園を訪れた。
貴族が平民の、特に優秀な成績を残した生徒を呼び出して、後見の提案をすることはそう珍しいことではない。だから表向きにはそういう用向きでルーシー・モリエを呼び出して、話を切り出したのだ。
王太子の『恋人』は君かと尋ねた。
ルーシーは驚いて、けれどローレンが確信を持っていることに気付いたのか、否定はしなかった。
「こんなことはやめろ」とローレンは言った。
ローレンにはその責任があると信じていたからである。
全てはローレンがあの時、判断を誤ったからこそ起こってしまったことだったから。
何よりも、こんなことは彼女自身のためにならない。オフィーリアだって、誰よりも信じて愛した友人がこんなことをするなんて望まないだろうと思ったのだ。
けれどルーシーはそれを飲み込まなかった。
胸を掻きむしるようにして泣いて、オフィーリアを呼んでいた。「他にどうしたら良いのか分からなかった!」と叫んで泣いたのだ。
そうしなければ生きてさえいられなかったのだと。あの時オフィーリアに殺されてあげれば良かったと。
引き攣るような叫びだった。
また間違えたのだと思った。ローレンはきっと、オフィーリアとルーシーの踏み入ってはならない場所に土足で入り込んだのだろう。
涙に暮れるルーシーのそばに居続けた。
この時ばかりは身分も財産も何の役にも立たず、ローレンに出来ることはそれだけだったのだ。だからローレンはルーシーの背中をさすり続け、それとも水に濡らしたハンカチを差し出した。
結局ローレンはあの日、ルーシーを止めることが出来なかったのである。
ただ、その代わりとでもいうのだろうか。それから時々、ローレンはルーシーと会うようになった。触れただけで壊れてしまいそうなほど危うい少女。生前の妹を一心に愛したただ一人のひと。
放っておけなかったのだ。
ローレンの髪を見る度オフィーリアを思い出して、泣きそうな顔をする彼女を、ローレンはどうしても放っておけなかった。
「オフィーリアは私の全てだった」とルーシーは言った。
いつも何かに駆り立てられるように不安そうに生きていたルーシーは、けれどオフィーリアのことを話す時には、とても穏やかな愛に満ちた瞳を見せた。
そんなルーシーを見て、ローレンはふと、人間が生涯で与えられる愛の大きさは元から決まっているのではないかと思ったことがある。
オフィーリアは父からも母からも、そして婚約者からも愛されなかった。父が築き上げてきたフォルジュという家門。その悪評によって、いつだってオフィーリアは孤独だった。
けれど、オフィーリアはルーシーと出会ったのだ。
オフィーリアは他の誰にも愛されなかった代わり、オフィーリアが人生で向けられるべき愛のすべてを向けてくれる一人に出会ったのではないか。
ローレンはルーシーと会う度、彼女が語るオフィーリアのことを聞く度にそう思えて仕方がなかった。
そしてその度に、こうも思うのだ。
オフィーリアはきっと幸せだっただろうと。
これほどまでに深く強く愛してくれる誰かが居るということは、ローレンには想像もつかないほどに、幸福なことなのではないかと。
▪︎
ルーシーのそれからは、穏やかな日々が続いていくばかりであった。
いや。穏やかというよりも、凪いだ日々という方が正しいかもしれない。すっかり堕落してしまった王太子を宥めて、あいしてあげるだけの日々。
王太子の堕落は進み、このまま行けばきっと遠くない未来、この男は完全に駄目になってしまうだろう。
そうなったら、とうとうルーシーの復讐も最後だ。
最後の最後。ルーシーが離れてさえいけば、きっと王太子は一気に崩れてしまうだろう。今更あの男が薬を手放せるとも思えない。今は殆ど、ルーシーが宥めてやることで人としての形を保っているようなものである。
楽しみだった。いと尊き王太子殿下が、醜聞と共に転落する。
オフィーリアを殺しておきながら、素晴らしい方だと評されていた男。身分なんてくだらないものに守られていた評判を削ぎ落とすほど、惨めな終わりを迎えるのだ。
あの男には実に相応しい最期である。その瞬間を、ルーシーは本当に心待ちにしていた。
でも、怖くもあった。
それを成し遂げてしまった時、ルーシーは一体どうなってしまうのだろうか。考えても分からなかった。オフィーリアを失った悲しみも喪失感も、たかだかあんな男一人を滅ぼしたくらいでは無くならない。
本当はオフィーリアの墓でも掘り返して、一緒に埋まってしまおうかとも思ったけれど、その度に母のことがあったから踏み止まったのだ。あれだけ苦労して育ててくれた母を置いてはいけない。だってルーシーはまだ、母に何も返せていない。
生きていかなければならないだろう。
どうにかして次のよるべを、王太子への復讐に代わるよるべを見つけなければ、と。
ルーシーは、確かにそんな風に思っていたのだ。
王太子が、ルーシーにとある懺悔をこぼしてしまう時までは。
夜明け前のことだった。王太子はルーシーの胸に寝転びながら、虚ろな瞳で「私は醜悪な人間だ」と話しはじめた。
薬に魘された王太子が、そういう後ろ向きなことを言うのは珍しいことではない。だからルーシーは最初、全く気にしないまま、慣れた様子で「そんなことはないわ」と王太子の銀の頭を柔らかく撫でた。
「貴方はとっても素晴らしいひとよ。私を愛して、守ってくれる。私のいとしいひとだもの」
「ちがう、違うんだルーシー……。私は君の思うような人間ではない。君が思うよりもずっと醜悪で、どうしようもない男なんだ」
「分からないわ、ヴィトー。どうしてそう思うの?他でもない貴方が」
人差し指の背で王太子の頬をなぞりながら、ルーシーは柔らかく微笑んだ。ぐずる子供を宥める母親のように、優しい言葉で。柔らかなキスを添えて。
すると王太子は、ひどく追い詰められた瞳でルーシーを見上げたのだ。まるで神以外に縋るものを無くした貧しい信徒のように、ルーシーに縋って手を伸ばして。
「私が、殺したんだ。オフィーリアを、婚約者だったあの少女を……」
そう、言葉をこぼしたのである。
「オフィーリアは病死などではなかった。罪人として殺されたんだ。毒を飲んで死んで、亡骸も、公爵家の墓地には納められやしなかった」
「………は?」
「棺さえ用意されなかったんだ。ただ掘られただけの穴に適当に投げ込まれて、打ち捨てられて。私のせいだ……、私の、」
震える言葉。ルーシーを強く抱きしめながら、王太子は「許してくれ」とルーシーに縋った。
その時の衝撃を、怒りを、ルーシーはきっと一生忘れない。
▪︎
あの後ルーシーは王太子の部屋を抜け出して、そのままの足でローレンの元へと向かった。
ローレンは現在公爵家の屋敷ではなく、小さな別邸で暮らしている。何の事情のためにそうしたのかは分からないけれど、つまりそのお陰でルーシーはいつでもローレンの元へと赴けたというわけだった。
「どういうこと……!?オフィーリアが、オフィーリアはちゃんと、公爵家の墓地に埋葬されたのでは無かったの!?」
夜更け。いきなりのルーシーの訪問に不思議そうにしていたローレンは、けれどルーシーがそう言って掴み掛かると、すぐにルーシーが何を知ったのかを悟ったようだった。
サッと青くなった顔色。「どうしてそれを」とこぼされた無意識の言葉。
ルーシーはそれだけで、あの男が、王太子が話したことが真実であったのだと理解したのである。
グッと奥歯を噛み締めて押し黙ったルーシーに、ローレンはただ「すまない」と言った。
そうして、今度はローレンの口からも伝えられたのだ。『病死した』オフィーリアの墓とされているあの場所は、公爵家が体裁のために用意したに過ぎないものだった。
ルーシーが何度もひっそりと赴いたあの場所は、けれど最初から空っぽで、オフィーリアはあそこに眠ってなんて居なかったのだと。
「───……オフィーリアを、取り戻すわ」
全部を聞いたルーシーは、暫くの呆然とした後、ぽつりとした言葉でそう呟いた。開いた瞳。揺れる瞳孔。確かな決意。
「手伝って、ローレン」
あまりにも無謀なことだった。だからローレンは「無茶だ」とそれを止めようとしたのだ。けれどルーシーは、ローレンがそんな言葉を言い切る前に、彼の頬を掴んで引き寄せた。噛み付くようなキスだった。
「……お願い。貴方しか頼れないの」
囁くような言葉。ローレンはそれだけで、とてつもない、途方もない羞恥に襲われた。
気付いていたのだ、と分かったからだ。気付いていたのだ、彼女は!
ローレンがいつからか、ルーシーを気遣うためではなく、放っておけなかったからでもなく。ただ彼女と会いたくて、心配だなんだと言い訳を重ねて会っていたことに。近況を知りたいと、オフィーリアの話もまだたくさんあるからと、死んだ妹さえ言い訳にした。
自分の醜悪さが明るみにされて、酷い羞恥で足元さえ覚束ない。けれど崩れ落ちはしなかった。出来なかった。ルーシーの、剥き出しになった割れたガラス片のような眼差しに見つめられただけで動けなくなったからである。
「お願いよ、ローレン。……私に、オフィーリアを返して」
頬を包む柔らかな手のひら。くらりと目眩がした。鬼気迫るほどの瞳で、吐息がかかるほどの近い距離で、ルーシーは言ったのだ。
虚な深淵の底から、オフィーリアの緑の目がローレンを見つめているような気がした。ああ、と思ったら。ローレンはまた間違える。分かっていたのに、ローレンはルーシーの、いっそ病的なまでに華奢な手首を引き寄せたのだ。
「───僕は、何をすれば良い……?」
ルーシーはいっそ綻ぶ花のように微笑んで、「いい子ね」と囁いた。
▪︎
家を用意させたのだ。
王都から程よく離れた田舎で、辺鄙なところだけれど、僻地というほどでもない。買い物や暮らしに苦労することもないだろう。
空気が美味しくて、近くには川もある。ローレンが出したいくつかの候補からルーシーが選んだのだ。安全で、かつ母が好きそうなところ。
オフィーリアの亡き今、ルーシーにとっての母は最も重要な弱味と言えた。
だから遠ざけることにしたのである。嘘をついて説得して、丸め込んで田舎に送った。
とても親切な後見人が見つかったの、相談をしたらママの借金のこともどうにかしてくれた。元々ママが借りたんじゃなかったんだもの、返さなくても良かったのよ。
ねえ、田舎に使っていない家があるんですって。そこで管理人として住まない?お仕事として暮らすんだから、生活費もお給料だって出してもらえるの。
あまりにも都合の良い話に怪しむ母を、半ば無理矢理納得させて馬車に乗せた。
これから学年が上がって忙しくなるから、あまり帰れなくなってしまうかもしれないけれど、出来る限り顔を出すわと嘘を吐いて。
馬車を見送りながら、ルーシーは口元をぎゅっと引き結んだのだ。
これで躊躇う理由は何もなくなってしまったのだ、と。
表舞台に立つことにしたのである。
ルーシーは今まで危険を遠ざける為、人目を盗んで王太子と会っていた。
一国の王子をたぶらかすのだ。平民が王子を堕落させるのだ。問題にならない方がおかしいし、下手をすれば母まで巻き込みかねない。だからルーシーはこれまでひっそりと、隠れて少しずつあの男を堕落させてきた。
けれど事情が変わったのである。
いつまでも隠れているわけにはいかなくなった。
今の王太子は人形なのだ。ルーシーの復讐があまりにも順調に行きすぎたせいで、今の王太子はすっかり人形同然。置物といっても良いかもしれない。
ルーシーが居ない間、ルーシーが学校に通っている間はほとんど部屋にこもってルーシーを待っているだけの抜け殻。
つまるところ役立たずなのである。そんな王太子に、簡単に一言ねだっただけでオフィーリアを取り返せるはずもない。
ここ暫く、責務を投げ出し続けていたのだから尚更だ。そうさせたのはルーシーだけど、そのせいで今となっては、誰も王太子の望みなんて聞きやしないだろう。罪人の墓を掘り返すともなれば殊更に。
ローレンは公爵家の嫡子だが、オフィーリアの兄でもある。王家を説得するにも難しいだろう。
むしろ下手にオフィーリアの亡骸を求めれば、弱味と思われて脅されて、結局いつになっても返してもらえない可能性もある。
王太子を使えるようにしなければならない。
頭の痛いことだ。ここまで堕ちてしまった人間を今更正気に戻すことは難しいだろう。
出来ることと言えば、精々王太子を正気に『見せかける』ことくらいである。
「ね、ヴィトー。今日もまた、王様からお手紙が届いていたわ。夕食を一緒にしないかって」
分厚いカーテンを閉め切った王太子の部屋。
ルーシーはソファーの上にぼんやりと座っていた王太子の元へ歩み寄って、手のひらで頬を包むようにして撫でた。
「ああ、ルーシー。すまない、捨てるのを忘れていた。父上からの手紙は、君が嫌がるのに……」
「ううん、良いの。怒ってないわ。あのねヴィトー、私考え直したのよ」
「考え直した……?」
「ヴィトーはやっぱり、王様とお会いするべきだって思ったの。貴方がいつまでもお父様に誤解されているなんて、私はそんなことは嫌。ヴィトーはこんなに素晴らしいひとなんだもの。お父様にも分かっていただかないと」
「……すまない、ルーシー。あまり、よく分からない」
「ああ……。いきなり話し過ぎてしまったのね」
下げた眉。「ごめんなさい」とルーシーは胸の中、銀の頭を撫でて言った。
すると王太子はそっと目を細めて、「良いんだ、ルーシー」とルーシーに擦り寄る。
深く考えられない思考。人形同然、置物同然となってしまった王太子は、けれどルーシーが居る時には命が戻る。骸に血が通うみたいに、言葉や表情を取り戻すのだ。
ルーシーが宥めて言い聞かせて、それとも甘えてねだれば、王太子は必ずその通りにするのである。
パブロフの犬のように、そういう風に教え込んできたからだろう。
今までだって、どうしてもこの男を人前に出さなければならない時はルーシーはこうしてきた。
本当は、王太子は既にルーシーがいなければ碌に何かを求めることも考えることも、話すことさえ出来ない。
なのに誰もが王太子は正気のまま、ただ単に欲望に負けて堕落したと思っているのは、そういうからくりがあってのことだった。
「良い?ヴィトー。貴方は今日、陛下とお会いして、陛下に謝って、仲直りをしてくるのよ。今まで責務から逃げてしまって申し訳ありませんって言うの。わかる?」
「仲直り……」
「そう。どうしてだとか何故だとか、難しい理由は何も考えなくて良いの。ただそうするべきだってことだけを覚えてくれていたら良いわ。私の言うことだけを信じて。出来るでしょう?ヴィトー。すてきな貴方」
「……ああ。ああ、ルーシー。それが君の望みなら」
甘やかに蕩けた微笑みで、王太子はルーシーの胸に擦り寄った。
ルーシーはそれに優しく微笑んで、「ありがとう、ヴィトー」と王太子を褒める。
壊れて崩れて、自ら考えるということが殆どできなくなった王太子。
けれど彼は幼少期から王子として王太子として教育を受けてきたから、何も考えず王太子としてこういう風に振る舞えと言われたら、辛うじてそれらしく出来るのだ。
自主性が削ぎ落とされただけの状態であるとも言える。ロボットのようなものとも言える。
近くで誰かが、ルーシーが「何も考えずにただこうしろ」と細かく命じたら、その通りに動いてくれるのだ。
ただ、一度に吹き込める命令は限られている上、今の王太子は記憶力も緩やかだ。前に吹き込んだ命令も、時間が経つとあっさりと忘れてしまうことは欠点であるけれど。
だからこそルーシーは腹を決めたとも言えるのだ。だからこそルーシーも母を田舎に追いやって、誰も巻き込まないような状況を作った。
今のまま隠れて会い続けるのでは、そもそも会える時間が限られているし、どうしても王太子を動かすのに限りがある。
堂々とそばにいて、彼を支えるふりをして、常に何かを吹き込める立場を作らなければならない。
面倒なことだけれど、仕方がない。ここまで壊れてしまった王太子を使う為には、この程度の手間はどうしても必要になってしまうのだ。
「あいしてるわ、ヴィトー。おりこうに出来たらご褒美をあげる」
いつだったか、この男に送られた口紅。淡く色付いた唇で、ルーシーはそっと王太子に口付けた。
ヴィトーの唇。オフィーリアのものとは違う、少しかさついていて、酷く冷たい温度であった。
▪︎
「それにしても、ここ暫くの殿下のご活躍ぶりは輝くようですわね」
学園、春。うららかな午後の時間、テラスで貴族令嬢の一人がふとそんなことを言い出した。
同じテーブルを囲む他の貴族の娘達も、それに「本当に!」ときゃらきゃらはしゃいで同意する。素敵な殿方、それも身分ある方のお話ともなれば、つい話に花を咲かせてしまうのが乙女というものである。
「少し前までは何やら落ち込まれて、中々公の場にもお見えになりませんでしたけれど……。思えばあの頃は色々とございましたから、仕方のないことだったのでしょうね」
「ええ、ええ。ですが殿下はすっかりと立ち直られて……。あの凛々しい横顔ときたら!」
「前と比べて、少し陰があるというか、寡黙な方になられましたものね。でも、それがより一層素敵というか……」
「聞けば、例の火遊びなども今では全く無くなったそうですわ。どこのご令嬢とも、デートもなさらなくなったって」
「もうどれだけ順番待ちをしても殿下と親しくなれないことは、正直にいって少し残念ですけれど……。それだけ殿下が王太子としてのご自覚を持たれたということですものね」
ぽっ、と頬を染めて、明るい髪の令嬢がはにかむ。
何と言ったって、ここ最近の王太子殿下は本当に魅力的に見えるのだ。少し前までの柔らかな青年では無くなって、けれどそれが年頃の乙女にはたまらないらしかった。
どこか陰があって、寡黙で、鋭い美しさがある。今の王太子殿下はどんな家門の、どれほど綺麗な令嬢に言い寄られても、「すまない」と一言話して去るだけなのだ。
そんな冷静で硬派な王太子殿下に、学園中の貴族令嬢が夢中になっているというわけである。
「でも……。皆さま、聞きまして?殿下が今のように立ち直られたことには、ノーマルクラスの……。つまり平民の女生徒が関わっているという話もありますのよ?」
「まさか……。殿下に限ってあり得ませんわ!この学園で最も高貴な方が、いやしい平民を相手になさるわけがありませんもの。ただでさえ今の殿下は……。わたくし達貴族生徒とも、殆ど関わられなくなりましたのに」
「その通りですわ。きっとどこぞの噂好きが、好き勝手に適当なことを吹聴したのでしょう」
「………わたくしも、そう思えたらどれだけ良かったことでしょう」
憂うように伏せられた目蓋。今度は暗い髪の令嬢が、ため息を吐いて呟いた。何かを知っている様子の彼女に、その場の全員の目がバッと向けられる。
「ここ最近、生徒会室に出入りをしている平民のことは、皆さまご存知ですか?」
「いいえ。でも、それ自体はそう珍しいことではありませんでしょう?平民の生徒が、わたくし達のような貴族生徒に擦り寄って、自ら雑用を申し出ることなら……」
「いいえ、いいえ!そうではないのです。あの平民は、ルーシー・モリエは……!」
わっ、と顔を覆いながら彼女は言った。頼りない声、震える肩。
そうだわ、と誰かが思い出す。彼女は確か、元々何かの活動を立ち上げては、事あるごとに理由をつけて生徒会室に出入りをしていた。活動の許可を得たり、報告をあげたり。
分かりやすく積極的な令嬢達とは違って、夜会などで派手に遊んでいたわけではないけれど、かつての王太子との関係はあったのだろう。憧れていただけかも分からないけれど。
「……殿下はあの平民を、特別に扱っています。生徒会の雑務を手伝わせているなんて仰りながら、生徒会室に入るなり、隠すつもりもない様子で!人の目がある中でさえ寄り添い合い見つめ合い、常に触れ合って、耳元で囁いて!」
「それは……。何かの間違いではなくて?まさか殿下が、」
「あれが間違いなどであるものですか!今に分かりますわ。あの女はきっと、その内生徒会室の中ばかりか、その外でさえ自重しなくなります。で、殿下の庇護がありますもの。わたくしは、平民が思い上がってはいけないと、そう当たり前の忠告をしただけなのに……!殿下はわたくしを、わたくしを……!!」
忘れはしない。あの鋭い紫の眼差し。あの心優しく大らかだった王太子殿下に、ああも恐ろしい目線を向けられたのははじめてだった。
顔を覆った体勢のまま言葉に詰まった暗い髪の令嬢に、周囲の学友達はそれぞれ心配そうに名前を呼んで言葉をかけ、それとも背中をさすって慰める。
「そう思い詰める必要はありませんわ。きっと殿下は今、立ち直られたばかりで混乱が残っておられるのです。ね、皆さまもそうお思いになられますでしょう?」
「え、ええ。身分というものは、それほど意味のあるものですもの。殿下もすぐに正気に戻られますわ」
「大方その平民は、弱られていた殿下に姑息にも近付き、懐に入り込んだのでしょう。全く、平民らしくいやらしいこと……」
「それに相手はあの殿下ですのよ?どうせその平民も、すぐに飽きられ捨てられてしまいますわ。精々、新しい婚約者が決まるまでの遊びと言って良いかと」
「ええ、ええ。平民なんて、どの道未来のない、可哀想な生き物なのですから」
だから安心しましょう、大丈夫です、と令嬢達は口々に言い合って微笑み合う。
そうだ。どの道平民なんて先のない可哀想な生き物なのである。ここにいる自分達とは違う。
かつての王太子の婚約者、オフィーリア・フォルジュ亡き今。ここにいる貴族家の娘たちは、家門の働きによっては王太子の次の婚約者に、ひいては王太子妃、王妃にまでなれる身分を持つ者である。
気まぐれで遊ばれたという平民なんて、どうせきっとすぐに飽きられて捨てられて、この学園からも消えていくだろうから、と。
この時の貴族の娘達はそんな風に話し合い、王太子に近付く「平民」のことなど全く危険視もしていなかった。
まさかこの少し後。その平民が公妾として正式に認められた挙句、王太子がその公妾にかまけて一切の縁談を断つような事態になるとは、この時の彼女達は露ほども考えていなかったのである。
▪︎
「公妾になるってどういうことよ!!」
バン!!と勢い良く机を叩きつけながらクリスティが言った。その正面に座るルーシーはそんなルームメイトに苦笑して、「そのままの意味」と答える。
「そのままの意味、って……。冗談じゃないわ、まさかあんた、あの男に絆されたの?だからそんな馬鹿なことを!?」
「落ち着いて、クリスティ。私にも考えがあるのよ。絆されたとか愛してしまったとか、そんなくだらない理由で将来を決めたわけじゃないわ」
「だったら何で!っ何でよ、どうして耐えられるの……?愛妾になるってことはあんた、あの男の所有物として扱われるのよ……!?よりにもよって、ルーシー・モリエが!」
「あたしのルーシーが、」と、クリスティは戦慄く唇で言った。泣きそうな、それとも傷付いたような顔。ルーシーは仕方のない様子で椅子から立ち上がると、そっとルームメイトのことを抱きしめる。
クリスティはそんなルーシーに、ぎゅっとしがみついて首元に顔を埋めた。
普段クリスティは堂々としているしヒールも履いているから忘れがちだけど、そういえば、ルーシーの方が身長が高かったのだと今更になって思い出す。
「お願い、ルーシー。男なんかのものにならないで……。男なんて利用して踏み付けにするだけの、どうでも良いもののはずでしょう……?あたし達はそうやって生きていける、男なんかに頼らないで、自分の力で生きていける。だってあたし達、その為に学園に入ったはずじゃない!!」
「クリスティ」
「ねえルーシー、考え直してよ!あんな男のものにならないで。あたしと一緒に行こうよ。城で働けなくたって、田舎だって、外国でも良い!あんたがいればどこでも良いの。だから、お願い。働くところも住むところだって、あたしが何とかしてあげるから……」
「クリスティ、聞いて。私はね、私の意思で、私のためにあの男の側にいることを決めたの」
「っルーシー!!」
裏切られたみたいな顔だった。叫んだクリスティを、宥めるようにルーシーが抱きしめる。
優しい手つき。百合の匂い。クリスティはグッと言葉を飲み込んで、いつからだったろう、と思い出す。
いつも陽だまりのような匂いだったルーシーは、いつからか花の匂いを纏うようになった。まるで誰かの匂いを移されたみたいに、ルーシーの匂いは変わった。情念に纏わりつかれるみたいに、いつまでも染み付いて離れないような百合の匂い。
クリスティではない、誰かの香り。
「欲しいものがあるの。だから、貴女とは行けない」
「ルーシー……。あ、あたしの、手を離すの……?」
「大好きよ、クリスティ。貴女とルームメイトになれたことは、私にとってとてつもない幸運だった」
ああけれど、この子はそれを、一番の幸運とは言ってくれないのだ。
クリスティは奥歯を噛み締めた。分かっている。この子はクリスティには嘘を吐かない。
ただ少し隠し事が多いだけで、友人と認めてくれた相手にはどこまでも正直な子だ。だからこそ苦しかった。
「……くすり、だけは」
「うん」
「いつでも手に入るように、あたしからも母さんに掛け合っておくわ。……困ったら、母さんの酒場に連絡を寄越して。どこに居たって駆け付けるから」
「……うん」
「男なんかのものになったあんたを見るつもりはないし、卒業しても城には就かない。でも、忘れないで。あんたにはあたしだけよ。どれだけ困ったことになっても、他の誰も信じられなくても、あたしのことだけは信じて助けを求めるの。忘れないで……」
「うん……。ありがとう、クリスティ」
柔らかな手のひらに髪を撫でられて、クリスティはぐす、と小さく鼻を啜った。
本当に、酷い子だと思う。ルーシーはクリスティのことを大切にしてくれたけれど、友人として親しくしてくれたけれど。クリスティがルーシーを想うほどには、ルーシーはクリスティを特別にはしてくれなかった。
生まれてはじめて、クリスティは男を妬んだ。憎まれても嫌われても良いから、この子の特別になれることが羨ましいと思って、嫉妬と羨望に押しつぶされそうだったのだ。
ルーシーは酷い子だった。だけど陽だまりのような、汚らしいと蔑まれてきたクリスティを、唯一そのまま受け入れて大好きだと言ってくれた子だった。
その日、クリスティは久しぶりにルーシーと同じベッドに眠りながら、ほんの少しだけ泣いた。眠るルーシーは気付かなかっただろうけれど、失恋みたいな気持ちで泣いたのだ。
───かくして、ルーシー・モリエは学園を去った。
ルーシーと比べて二つほど学年が上であった王太子。その卒業に合わせるようにして、ルーシーもまた退学を選び、学園を去ることを選んだのである。
▪︎
「いつまで続けるつもりですか、こんなこと」
暗い室内、リカードは言った。王太子、ヴィトー・マクシアンの乳母兄弟であり、長くその側近でもあった男。
険しい眉間、張り詰めた空気。問い詰めるような言葉は、安楽椅子の上に佇むヴィトーに向けられていた。
「───お前のことは、実家に戻したものと思っていたんだがな」
「冗談でしょう。殿下をこのままにして、おちおち帰省なんて出来ません」
「お前は相変わらず真面目が過ぎる……」
「殿下にだけは言われたくありません。誰のせいで俺がこんな苦労をしていると思うんですか」
はっきりとリカードに言われて、ヴィトーは苦笑するように「間違いない」と頷いた。
正気を失っているにしては、随分と流暢な言葉であり思考。ルーシーの側に居る時とは打って変わって、ヴィトーはしっかりと伸ばした背筋でリカードと対峙していた。
「それよりも、ルーシー嬢のことです。今度、公妾として召し上げると聞きました」
「ああ。祝福してくれるかい?」
「まさか。殿下のことですから、ルーシー嬢にはまだ何も打ち明けていないのでしょう。……いつまで、こんなことを続けるおつもりですか」
糾弾のような言葉で、リカードはヴィトーを見つめた。ヴィトーはそれにふと睫毛を伏せて、「いつまで、いつまでか……」と呟く。
薄い灯りにきらきらと、ヴィトーの銀の睫毛が輝く。
「当然、地獄に堕ちるまで」
「───……」
リカードは、そんなヴィトーに絶句した。ヴィトーの言葉に驚いたからではない。
そう言ってヴィトーが浮かべた表情が、あまりにも綺麗で、穏やかで、幸福な微笑みだったからである。
「分かるか、リカード。私は今この世で最も幸福な人間なんだ。唯一愛したひとは今この時も、私のことを誰よりも強く憎んでくれている。誰に向けるよりも強い思いを向けてくれている。私の隣に立ち、私の胸に抱かれ、あの燃えるような瞳で私に愛を囁いてくれている」
「……殿下」
「こんな幸福は他にない。こんなしあわせは他にない。もちろん、あんな粗悪な薬に溺れているんだ。私とていつまでもこのままで、私自身のままではいられないだろう。解毒の薬もどれほど時間を稼いでくれるか分からない。けれど、考えても見ろリカード」
考えてもみろ、とうたう様にヴィトーは言った。夢見るように細められた瞳。少年のような、いっそ病的なまでに煌めいた紫の色。
「私は愛したひとの胸の中で、愛したひとのもとに溶けるように地獄へ堕ちるんだ。自分が何者かも分からなくなりながら、けれどきっと、自分を胸に抱く女が愛しいことだけは何があっても忘れない。青々とした葉に食まれる虫のように、夢見るようにルーシーの腕の中で死ねるのであれば、それは何よりも幸福な最期だろう?」
「だが……、けれど!それはあまりにも人の道を外れています!殿下はその為に、死んだ婚約者の骨を、亡骸を利用している!オフィーリア様の死を……!」
「お前は本当にオフィーリアのことが好きだな」
「殿下ッ!!」
ガン!と強く響く音。リカードが側の机を思い切り叩いた音だった。その拍子に、机に無造作に置かれていたペンがころりとカーペットの上に落ちる。
けれどヴィトーはそんな乳母兄弟にも、落ちたペンにも視線をよこさず、再び静かに瞼を閉じた。ぎぃ、と安楽椅子が揺れる。昨夜やった薬の影響がまだ残っていて、身体がだるいのだ。
「私は本当にしあわせな人間だ……」
囁くような言葉だった。まるでそれしか言葉を知らないみたいに、ヴィトー・マクシアンはとても大切な様子でその言葉を呟いた。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、やはりたった一人の冷たい微笑みだけである。
▪︎
ヴィトーだって、何も最初からこんな人間だったわけではなかった。
幼い頃のヴィトーはむしろ人を疑うことを知らないほど純粋で、快活で、気が付けば木の上に登っているような少年だったのだ。
婚約者であったオフィーリアとも、昔はそれなりに友好的な関係を築けていた覚えがある。
かつては健全を絵に描いたような子供だったのである。けれどヴィトーは成長するにつれて、どんどんと碌でもない人間になっていった。
明確なきっかけがあったわけではなかった。ただ子供ではいられなくなっていくほど、様々なことを知らざるを得なくなってしまっただけのこと。
国王である父さえ、何故か頭が上がらなかったフォルジュ家。
彼らの影響力がどれほど強いのか。その為に彼らがどれほどの不正を働き、どれほどの人間を殺してきたのか。王太子であるはずのヴィトーが王室でさえ、王城でさえ何の力もなかった理由。
オフィーリアは、フォルジュ家が半ば無理矢理決めた婚約者だった。
オフィーリアを妻とした時、ヴィトーがどうなるか。オフィーリアがヴィトーの子供を産んだ時、ヴィトーがどうなるか。
ヴィトーに期待されていること。種馬としての役目。傀儡としての役割。政治も何もヴィトーは望んだようには出来ないだろう。ただフォルジュ家が表面上はうやうやしく差し出してくる書類に、王印を押すだけの王になるのだ。
成長するにつれ、ヴィトーはそういうことを知っていった。
知っていくにつれ、ヴィトーはどんどんと捻くれたし、オフィーリアともろくに関わらなくなった。嫌って、疎んで、距離を置いた。
オフィーリアに見せつけるような女遊びを始めたこともそうだった。
牽制したくて、遠ざけたかったのだ。お前など愛することはない。だから近付くなと怯えて叫び出したくて、それさえ出来ないから逃げるようにオフィーリアに背を向けた。
情け無いことをしていたという自覚はある。けれどあの頃のヴィトーにはそれしか出来なくて、それ以外の手段を知らなかった。
幼かったのだ。それでいてきっとヴィトーは、王族という身分にも王太子という立場にもそぐわないくらい、凡庸でどうしようもない人間だった。
オフィーリアとの微妙な距離感は、それから暫くの間、ヴィトーやオフィーリアが学園に入ってもなお続いて行った。
その頃のオフィーリアは、社交界では『完璧な淑女』と称えられるようになり、けれど学園では『婚約者にさえ慈しまれない女』として蔑まれてもいた。大人達からの評価は高かったけれど、同じ年頃の、特に少女にはどこかで見下されていたのだ。
ヴィトーの振る舞いがそうさせていて、けれどヴィトーはどこかでそれを自覚していながら、その振る舞いをやめようとはしなかった。
まるで自業自得だと思うみたいに、孤立していたオフィーリアのことを見ていたのである。
けれど、ある時のことだった。オフィーリアはいつしか、その顔に滲ませていた孤独を振り払ったように、晴れやかな瞳をして歩くようになっていたのだ。
驚いた。オフィーリアが変わったことに周囲の人間は気付いていなかったけれど、ヴィトーだけは分かったのだ。
ヴィトーはオフィーリアを疎んでいた。嫌って憎んで、どこかきっと怯えてもいた。オフィーリアという人間そのものにではなく、オフィーリアが持つフォルジュの名とその名が持つ意味に。
だからいつだって、ヴィトーはオフィーリアのことを注意深く見て、警戒していたのである。
だからヴィトーは、オフィーリアの変化に唯一気が付いたのである。
オフィーリアは、表面上はなにも変わっていなかった。けれど確かに何らかの変化が訪れたようだった。だから調べた。王城から密かに人を呼び寄せたのだ。乳母兄弟でもあったリカードは、昔からそういうことが得意だったから。
そうしてヴィトーは知ったのである。オフィーリアがここのところ、密かに執心している平民の少女がいるということを。
それを知った時の、ヴィトーの高揚は言い表しようがない。
突き止めなければと思ったのだ。完璧な淑女と称えられるだけあって、いつも何にも動じなかったオフィーリアの弱味が、使えるかもしれないのだから。
「ルーシー・モリエ?」
「はい。ノーマルクラスで、特に優秀な成績を残している平民です。出自はいささか問題ですが……」
リカードが突き止めた、オフィーリアが密かに大切にしているという平民の娘は、そんな名前をしているらしかった。
淡い栗色の髪にハシバミ色の瞳。意外だ、というのがヴィトーの第一印象である。
調べれば娼婦を母に持つという少女は、美人ではあるが控えめで、いつも身支度にかなりの時間をかけているオフィーリアが選ぶには随分と意外な人選に思えてならなかったのだ。
常に本を抱えていて、奨学金がかかっているからか勉強熱心。
そして毎日のようにヴィトーさえ知らなかった小さな裏庭に通っていて、毎日のようにオフィーリアと小鳥のように戯れあっているのだという。
ただ隣に座って本を読んでいたかと思えば、思い出したように髪に触れたりもする。
まるでオフィーリアをただの少女のように扱って、手を伸ばして微笑んで、全部を受け入れるみたいに抱きしめて、そういう時間を過ごしているのだと。何かの支援を受けているわけでもないのに、随分と親密らしい。
最初はただの興味本位だった。
ヴィトーはあのオフィーリアに心を許した人間がいるなんてと、そんな興味でひっそりと、あの庭園の見えるところに足を運んだのである。
オフィーリアと戯れる、甘やかな少女の横顔を見たのである。
雷が落ちるような衝撃だった。
ああ、そうだ。そうだ!
あの時ヴィトーは、あの場所に行くべきでは無かったのだ!
あの甘やかな瞳を見るべきでは無かったのだ。あの真っ直ぐと伸ばされる指先を知るべきでは無かった。いくら興味を持ったとしても、見るべきではなかったのだ。知るべきではなかったのだ。
数多の女と関係を持った。
当てつけのようにオフィーリアの前で、他の少女の肩を抱いて愛を囁いた。けれど、どうしたことだろうか。あれは果たして恋だったのか。分からない。分からなくなった。
淡く色付いた頬。「だいすきよ」とオフィーリアの頭を撫でた華奢な指先。いたずらのように彼女の頬にキスを落としたオフィーリアを、くすくすと笑いながら受け入れて許した少女の姿。脳裏に焼き付いて離れなかった。
そうか、と思った。胸に落ちるような納得だった。オフィーリアは幸福を知ったのだ。オフィーリアは、だからあんな瞳をするようになったのだ。
あれほどに愛されて、受け入れられて、柔らかな指先に抱きしめられて。ああ、そうだろう、そうだろう。
それはきっと、途方もないほどの幸福だろう。
あの瞬間、ヴィトーの胸に湧き上がってきたものは何だったのだろうか。
嫉妬か、憎悪か、それとも『何故フォルジュであるお前が、よりにもよってそんな幸福を得たのか』と思ったのかもしれない。
とにかくそれが汚らしい感情であったことには間違いなかった。胸を掻きむしりたくなるような感情だった。
だからだろうか。
学園が休暇の時期に入り、王城で久々にオフィーリアと会うことになった時。
ヴィトーはきっと、一線を超えてしまったのだ。
あの日。
随分と晴れやかな顔で城に訪れたオフィーリアは、ヴィトーに対して「側妃の件を了承する」と言い出した。ヴィトーがずっと当てつけのように話していたこと。
オフィーリアと結婚したあかつきには、他の女を側妃か公妾として迎え入れるという、子供じみた嫌がらせの主張。オフィーリアはずっと拒絶していた。けれど今になって、それを許すという。
それどころか。
「どなたかお望みの方がいらっしゃるようでしたら、我が家の方で調整いたします」
などと、そんなことを微笑んで話したのだ。
その心変わりに誰が関わっているのかなんて明白だった。
あの、甘やかなハシバミ色の瞳。ヴィトーの脳裏に焼き付いて離れないあの少女。
オフィーリアを愛しく見つめるルーシーの横顔を思い出した瞬間、ヴィトーは気が付けば、「……なら」と呟くようにこぼしていた。
「ならば、ルーシー・モリエを」
この時のオフィーリアの顔を、ヴィトーはきっと、一生忘れないだろう。
▪︎
嫌いだった。憎んでもいた。けれど死んで欲しかったわけではなかったし、ましてや殺したいだなんて思っていたわけでもなかった。
けれどそれは、ヴィトーが善人だったからというわけではなかった。
そう思う勇気さえないほどに、行動に移すほどの度胸もないほどに、ヴィトーは浅ましく、また狭小な人間であったというだけのことだった。
オフィーリアが死んだ。静かな激情によってヴィトーに襲い掛かり、それを見つけた騎士に捕まったのだ。
オフィーリアの凶行に誰よりも喜んだのは、国王でもあるヴィトーの父だった。これでフォルジュ家の力を削げると大喜びしたのだ。
王太子の殺害未遂。それも目撃者が居るとなれば、流石のフォルジュ家もただではすまない。
父は国王として最良の選択をした。出来る限り大袈裟にして、オフィーリアの処刑を決めてしまった。
当然フォルジュ家はそれに慌てた。特に当主であるフォルジュ公爵は事態の収束に奔走して、結局いくつかの取引の末、土地、鉱山、資産。王家に対して多くのものを差し出す代わりに、オフィーリアの死の理由を『病死』と偽ることを許された。
そうしてオフィーリアは、あの暗く湿った牢獄の中。毒を煽って死んだのだ。
オフィーリアが死んでから、ヴィトーの周りにはベタベタとした暗い羞恥が付き纏うようになっていた。
少し考えれば分かるはずだった。オフィーリアは、あれほど深くあの少女を愛していた。それを、今まで散々女遊びを繰り返していたヴィトーが、ヴィトーのような男が求めたのだ。
オフィーリアからすれば、まるで思いつきのようにも考えられる唐突さで。
だから許せなかったのだろう。
何よりも大切なひとを、こんな男に穢されると思えば正気ではいられなかった。だからヴィトーに襲いかかった。殆ど条件反射のように。何か保身を考える暇さえないほどに、オフィーリアはあの娘を愛していたのだ。
ヴィトーの浅ましさが、オフィーリアを殺したのだ。
ヴィトーは暫くの間その事実に苦しめられた。
現実が事実としてヴィトーに襲い掛かり、ヴィトーに対して自らの浅ましさと狭小さを突き付けたからである。
そうだ。ヴィトーを苦しめたのは罪悪感ではなかった。羞恥であった。幼少の頃には「リア」と呼び、妹のように可愛がっていた少女を殺してなお、ヴィトーは自らの保身ばかりを考えていた。
頭の中に真っ先に思い浮かんだのは、このことを知られたくないという思考。頭の中に真っ先に思い浮かんだのは、あの甘やかなハシバミ色の瞳だった。
その事実がますますヴィトーの浅ましさを肯定して、ヴィトーはより一層の、身体中を掻きむしり覆い隠してしまいたくなるほどの羞恥に襲われたのである。
ヴィトーは救いようのない人間だった。
日々を重ねるごとにその自覚は深くなり、ヴィトーは足を引き摺り込まれるような憂鬱に襲われた。
しかし、そんな中でも日々は巡るし、時間は過ぎる。新しい季節が訪れて、ヴィトーは再び学園に戻ることになった。
そうしてあの日。ヴィトーはあの小さな裏庭に足を運んだのだ。何かを考えたり、何かを目的としたわけではなかった。
ただ人目を逃れる為に歩いていたら、いつの間にか辿り着いていた。本当だ。無意識だった。
あの時は表向きには病によって婚約者を亡くしたばかりのヴィトーに、たくさんの貴族の娘が纏わりついてきていた。「おかわいそうな殿下」「わたくしがお慰めいたします」と擦り寄られて、けれどこの時ばかりはそんな乙女達さえ鬱陶しかった。
彼女達を避けて歩くうちに、いつの間にか足が向いていたのである。
気が付けばあの裏庭にヴィトーはいた。啜り泣く少女の声にハッと我に返って、後退りをして。ザザ!と動いた葉の音。
「誰!」と響いた少女の声。
「───……」
はじめて合わさった、ハシバミ色の瞳。
ヴィトーの心臓が、大きく騒めいたのが分かった。ヴィトーは、この時自分が何を話していたのかを覚えていない。覚えているのは、あの熱の感覚。ただ血液が全身を回り、頬が赤く熱くなり、ぎこちない言葉しか紡げなかったことだけが、ヴィトーの記憶に焼き付いて離れなかった。
彼女がオフィーリアの死の真実を知っているのだと分かったのは、それからすぐのことだった。
泣いて崩れて、吐いて気絶した彼女に貸したヴィトーのジャケット。それを密やかに返しにきた彼女の、柔らかな微笑みを見た時だった。
けれどヴィトーはその瞳が、星のように瞬き燃えるような激情を孕んでいることに気が付いたのだ。
「殿下には、何とお礼を申し上げたら良いか……」
恥じらうように伏せられた瞳。細い指先に触れられて、熱に浮かされるような思考で理解した。
ああ、そうか。彼女は私を憎んでいるのだと、彼女はその為に私に近付こうとしているのだと。長い間オフィーリアを憎み続けていたヴィトーだからこそすぐに分かった。
けれどその時。ヴィトーの胸に湧き上がってきたのは、恐怖でもなければ羞恥でもなかったのだ。
ああ、そうだ、そうだとも!ヴィトーはこの時、確かに歓喜したのだ!彼女の指先がヴィトーの手の甲にほんの僅かに触れただけで、ヴィトーは何もかもどうでもよくなってしまったのだ!
ヴィトーはずっと、自らの浅ましさを知られるのが怖かった。
オフィーリアを殺したことをこの少女に知られることが、軽蔑されることだけがずっと怖かった。
けれど、けれどどうだろう。そんな恐れは、この少女を前にするだけで無くなってしまった。自らの浅ましさへの羞恥さえどうでも良くなってしまうほどの、熱に浮かされる感覚。
昔、恋は罪悪なのだと誰かに言われたことを思い出した。
ヴィトーはこの時になって、ようやくその意味を知ったのだ。この少女に見つめられる熱に比べれば、羞恥も後ろめたさも、何の意味もないのだと思った。
人の道を外れることさえ、人として持つべき道徳さえどうでも良くなってしまったのだ。
だから、そうだ。これこそが恋だったのだ!
恨まれている。憎まれている。嫌われている。けれど彼女はだからこそ、ヴィトーに近付き、ヴィトーの為にあいの言葉を囁いた。
恨まれること、憎まれること、嫌われること。それほどの強い思いを向けられること。美しい少女。愛しい乙女。ヴィトーの初恋。
ルーシー・モリエがたった一人、ヴィトーだけを見つめて、ヴィトーだけのことを考えて生きてくれているという甘やかな事実。
ヴィトーはこれを、幸福と名付けることにした。
幸福を決めてしまえば、あとは簡単だった。楽だった。
自らの醜悪さにも浅ましさにも、最早ヴィトーは羞恥さえ感じない。善悪も道徳も何もかもさえ切り捨てて、人でなしになってしまって、けれどそれがしあわせだった。たった一人の愛しい少女が、甘やかな微笑みで、冷たい瞳でヴィトーを見上げ愛を囁いてくれている。
手を引いて、二人で川に落ちて、笑い合う時間が愛しかった。
何も知らない子供のように、ただ手を繋いで眠る夜は穏やかだった。
彼女に導かれて落ちる奈落は心地良かった。
薬は嫌いだ。悪夢を見るし、身体がすぐに疲れて使い物にならなくなる。けれど彼女が与えてくれるものであるのなら、それだけでヴィトーにとっては、どんなものも楽園の露となったのだ。
何もかもがどうでも良かった。ルーシー以外の全ては要らなかった。世界の全てから身を隠して、狭い塔のなか、二人だけでとけてしまう夢を見た。粗悪な薬の副作用で、身体中を虫が這いずり回るような幻覚を見てもなお、ヴィトーが幸福でいられたのもその為である。
ルーシーだけが居ればよかった。
憎まれていることが幸福だった。
他の何もかもがどうでも良かった。
だから、オフィーリアの死さえ利用した。
ルーシーはこれでまた、ヴィトーのそばに居てくれるだろう。オフィーリアの骨を手に入れる為に、取り返す為に、ヴィトーを利用してくれるはずだ。
日々緩やかになっていく思考。まだ僅かに残る理性と正気に縋って、出来る限りの根回しをした。
ルーシーにより多くのものをあげられるように、ルーシーをいつまでもそばに留めておけるように。
父を説得して、オフィーリアの罪をより重い扱いにした。簡単には名誉を回復させられないように、オフィーリアを取り戻すことをより難しくしたのだ。
オフィーリアを取り戻す為には強い権力が必要な状況を作った。ルーシーは賢いはずなのに、オフィーリアのことが関わると途端にがむしゃらに、一直線になってしまう。
ルーシーは結局、王室に入り込むことを選んだ。身分の問題があるからと、最初は公妾として。けれどきっと、直にあの子はより高い地位を手に入れる。
だって、それを邪魔する人間はもうすぐ消えていなくなり、ルーシーを支えるものだけが残るのだから。
溶けていくような視界で、ヴィトーはただその事実だけを噛み締めて、ああ、と思った。
「私は本当にしあわせな人間だ……」
ぎぃ、と揺れる安楽椅子。絶句する乳母兄弟に、何をそう悲観する必要があるのだろう、と穏やかな思考の中で不思議に思った。
これほどの幸せは他にないというのに、と。
思えばヴィトーの脳みそは、この時既に溶けかけて、雲のように意味のないものとなってしまっていたのだろう。
だって、この時のヴィトーは気付けなかったのだ。最早ルーシーにとって、自分は『こだわる必要のないもの』なのだということに気が付けなかった。
ヴィトーがオフィーリアの骨を餌にした瞬間、ルーシーの目的はすげ変わってしまったのである。
ヴィトーへの復讐から、オフィーリアそのものへ。
つまるところ、ヴィトーは最早、ルーシーにとっての『目的』ではない。
オフィーリアを取り戻すための手段。権力を得るための手段。
必要が無くなればいつだって捨ててしまえる『手段』に成り下がってしまっていたのである。
▪
平民出身の公妾は、けれど王室においても意外なほど簡単に受け入れられた。
どこの馬の骨とも分からない女に影響されて、王族どころか人間失格になるよりは余程まし、ということらしい。
『王太子を堕落させた魔女』と、『王太子を更生させた少女』は別人だと思われているのだ。
ルーシーがこれまで真剣に正体を隠して来たことを考えれば当然ではあるけれど、とにかく王城の人間。特に王太子の父親である国王は、どこぞの悪女に誑かされ堕落した王太子を、ルーシーが更生させたと思っている。
もちろん、王もルーシーの平民という身分に思うところがなかったといえば嘘になるだろう。
けれど王太子の少し前までの堕落ぶりを思えば、国王もルーシーのことを拒むことが出来なかったのだ。
どうやら簡単に女に影響を受けて、道を踏み外してしまうらしい息子。それを引き留めてくれさえするのであれば、平民の公妾くらい受け入れてやろうという気持ちになるのが親心というもののようだった。
まぁ、『王太子を堕落させた魔女』と、『王太子を更生させた少女』。
そのどちらともルーシーであるということを考えれば、マッチポンプも良いところではあったけれど。
王室に入り込んだルーシーが真っ先に試みたのは、王と王妃の信頼を勝ち取ることだった。
常に王よりも王妃よりも頭を下にして、けれど決してへりくだったりはしなかった。
尊敬を示し自らの分を弁え、公妾として以上の立場も求めなかった。王太子の味方であると同時、だからこそあなた達にも従うのだという姿勢も見せ続けたのである。
王太子のことを誰よりも思っているのはあなた達だろう。分かっているからあなた達に従うのだと言葉と態度で示してみせて、王太子が中々次の婚約者を決めないことに頭を抱える二人に寄り添い、同じように頭を抱えて解決策を探した。
人間というものは中々単純なものである。
少しずつ心を解きほぐすように接せれば、王も王妃もその内ルーシーに心を許すようになった。当然、身分や立場の線引きはいつまでもしっかりとあったけれど、その線さえ守れば王室はいつだってルーシーに優しかった。
煌びやかな宮、躾の行き届いた使用人達。絹のドレスに大きな宝石。不自由ひとつない生活。
何か困ったことがあったとしても、ルーシーがため息を吐けば、誰かが「それはいけない」と眉をひそめて正してくれた。
けれど、オフィーリアを返してはくれなかった。
フォルジュの娘は自業自得だ。あんなものに死後の名誉など必要ないと嘲って、「密かな友情があったのです」と訴えたルーシーに同情した。
可哀想なルーシー、フォルジュの娘に遊ばれてしまったのね。
哀れなルーシー、あれはフォルジュの人間だ。ただの平民に過ぎなかった頃のお前を、本当に友人と思っていたはずがない。
あれのことは忘れなさい。あんなものに、貴女の情など、お前の情など勿体ないとオフィーリアを踏み付けた。
だから殺したのだ。
最初は王妃を。
次に国王を。
燃えるような怒りだったかと言えばそうではない。ただ冷えた頭の奥が、「こんな人間を生かしておくべきではない」とルーシーに囁いた。
ルーシーも全くその通りだと思ったから、出来る限り平和的に、なんていう理想論は呆気なく捨ててしまったのである。
王妃は奇病に犯されて、為す術もなく死んでいった。
国王がこの世を去ったのはその一年後である。
王妃を亡くしてからというもの、日に日に弱っていってしまったのだ。まるで誰かにそう仕組まれているみたいに、みるみる内に。
心身共に衰弱して仕方がなかったから、王太子が王の分まで政務を担い、ルーシーが弱り行く国王の看病を甲斐甲斐しく行った。
覚醒剤とはよく言ったものである。
毒に犯され弱り行く中で、けれどルーシーが与える薬だけが王に気力をもたらした。ぼんやりと揺らぐ思考の中で、信じられるのはルーシーだけだと、医者も家臣も他の誰も信じられやしないのだと吹き込んだ。
それだけで、王はすっかりルーシーの傀儡となって、ルーシーだけを信じるようになったのである。
そうしてルーシーに与えられるだけの影響力と権限を与えたあと、最期には妻の後を追うようにこの世を去った。
王が没し、王太子ヴィトー・マクシアンが王座に就いた。
平民出身の公妾はそれを機に王妃の座を得て、けれどそれに否を唱えられる貴族は碌にいなかった。
ヴィトーの寵愛厚い妃であり、先代国王の遺言もある。後ろ盾として名乗りを上げたのが、あのフォルジュ家であったということも、ルーシー・モリエの立場をより盤石なものとした。
ルーシーは国母になった。
王国史上初の、平民出身の王妃が生まれたのだ。
もちろん、ここに至るまでの道のりが全て順調だったとは言わない。
見下されたし、嘲笑されたし、足蹴にされたことだって数えきれないほどあった。奥歯を噛み締めて壁を殴り付けたこともあるし、胸を掻きむしって悔しさに叫んだこともある。
けれどルーシーにとって、それはここで敢えて語るほどのことではないのだ。受けた侮蔑には既に報いを返したし、ルーシーは決して負けなかった。
重要なのは、そうしてルーシーが今これだけの権限を得たという事実だけなのだ。
重要なのは、そうしてルーシーが、オフィーリアを取り戻したのだという事実だけなのである。
▪︎
罪人の墓地はあまりにも広く、そして沢山の骨が納められている。
墓標らしい墓標もなく、あるのは細く小さな、かろうじて幾つかの記号が書かれている石細工がひとつだけ。
名前も書かれていないから、一目見ただけではそれが誰の墓なのかも分かりやしない。
だからオフィーリアを見つけるためには、処刑者のリストが必要だったのだ。
王城で厳重に管理されている名簿である。王の許しがなければ持ち出すことも、そもそもどこに保管されているのかも分からない名簿。
そこには罪人の墓地に捨てられた亡骸の名前と、それに対応する墓の記号が記されていた。
西の27番。
それが、オフィーリアが眠る場所の名前だった。
「───オフィーリア」
亡き骸は、朽ちかけた緑のドレスを纏っていた。
引き上げられた白い色。オフィーリアの死から随分と時間が経っているから当然だけれど、肉は溶けて既に無かった。
かつて柔らかな肉となめらかな肌を纏っていた指の先。かつてあの緑の目が収められていた、空っぽな眼窩。
この世界で最も美しかった少女。あの頃のオフィーリアの面影はすっかりとなくなって、けれど不思議なことに、ルーシーはそれがオフィーリアだとすぐに分かった。
駆け寄って、抱きしめて、オフィーリアを抱き上げた。土のついた頭蓋骨。
こんなに小さくなってしまって、軽くなってしまって、けれどどうしようもなく愛おしい。
「オフィーリア、」
僅かに震えた声。ぽろぽろと子供のように涙を流しながら、けれどルーシーのその表情は、泣いているようには見えなかった。宝物を見つけた子供のように、ただ真っ直ぐに、きらきらとした瞳でそれを見つめていた。
「……オフィーリア」
いつの日か、「大好きよ」とルーシーを抱きしめてくれた月のような女の子。
ルーシーが唯一、永遠を誓った女の子。
泣き虫で我儘で甘えん坊で、一時期はルーシーにルームメイトが居ると知っただけで拗ねて大変だった。
記憶の中のオフィーリアは、いつだって星のように輝いている。
春のようにあたたかく、花のように儚かった女の子。ルーシーがこの世界で一番に愛したひと。
ああ、と思った。
「オフィーリア……っ」
オフィーリアの頬に付いた土を、優しく親指で払う。
ああ、と思った。やっぱり、こんなに綺麗なひとはほかに居ない。オフィーリアはたとえ生きていたって死んでいたって、骨になったって、この世の誰より綺麗だ。
オフィーリア・フォルジュはいつだって、世界で一番綺麗で、かわいくて、星のように瞬いている。
「───おかえりなさい、オフィーリア」
ルーシーの胸元のペンダントが、からりと音を立てた気がした。
薄情もののオフィーリア。ほんの僅かな小指の骨しかくれなかったオフィーリア。ルーシーの心臓を食べたいと言ったくせに、ルーシーに心臓をくれなかった。
でも、良いわ、と思った。
心臓はくれなかったけど、残りの全部は手に入れた。腕も、足も、頭も、肋骨も何もかも、オフィーリアは今ルーシーの腕の中なのだ。
だから、良い。もう良い。最初から怒ってなんかいないし、そもそもルーシーはずっと、オフィーリアがいなくて寂しくて拗ねたふりをしていただけだった。
「おかえりなさい……」
噛み締めるような言葉だった。静かに瞳を閉じて、ルーシーはオフィーリアを抱きしめた。
こうして、ルーシー・モリエは本懐を遂げたのである。
▪︎
とはいえ、ルーシーの人生はそれから先も続いていく。
やるべきことはまだいくらでもあって、むしろオフィーリアを取り戻してこそルーシーの日々はより忙しくなったような気さえした。
庭園を作ったのだ。
いつか、ルーシーとオフィーリアが出会った場所によく似た庭園。野花が咲いて小鳥が囀り、小さな池に、あたたかな日差しが差し込む場所。
『オフィーリア』と名前を付けた。王妃宮のすぐ近く。それが新しいオフィーリアの眠る場所であり、墓標でもあった。
春のような庭はオフィーリアによく似ている。
朝の早くや執務を終えたあと。そこを散歩するのが、ルーシーの新しい日課であった。
「───おかあさま!」
木で作られたベンチの上。
微睡むように瞳を閉じていたルーシーは、耳に届いた幼い声にパチリと目蓋を開いた。
すると目の前には、やはり小さな女の子がルーシーの顔を覗き込んでいる。ルーシーは綻ぶみたいに微笑んだ。
鮮やかな金の髪。緑の目をした女の子。ルーシーが何年か前に産んだ子であり、つまるところこの国の王女である。
「おかあさま、やっぱりここに居た!あのね、あのね、リアはお腹がすいてしまったの」
「まぁ、それは大変!私のお姫様が空腹だなんて国の一大事だわ。急いでおやつの時間にしないと」
「まったくもってそのとおり!」
「お姫様は何が食べたいのかしら?」
「おかあさまのパンケーキ!」
きゃらきゃらとはしゃぐ娘を腕に抱き上げ、ルーシーもまたくすくすと微笑んだ。
可愛い娘。愛しい娘。ルーシーにとっての宝と言える小さな子。
ルーシーは最初、子供を産むつもりを持っていなかった。だって愛せるか分からなかったのだ。守れるかも分からなかった。ルーシーは自分を信じていなかった。
ルーシーのような人間がそんな責任を果たせるものか、母親に向いているわけがないと、ルーシー自身が誰よりも強く思っていた。
だから対策もしていたし、身籠っていると知った時には随分と驚いたものだった。
産むかどうか、ルーシーだって随分と悩んだ。それでも最後には、ルーシーはこの子を産むと決めたのだ。
この国には、まともな堕胎の方法が碌になかったということもある。母体にも胎児にも大変な負担をかける方法しか無かったということもある。
けれどそれ以上に、大丈夫だと思ったのだ。まだお腹の薄かった頃、腹に手を当てて、撫でて、ふとした感覚だった。
大丈夫だと思った。根拠のない感覚で、けれど確信でもあった。
だから産んだ。
今になって思う。あれはきっと正解だった。だってこんなにも可愛くて愛おしい。この子が居るからこそ、今のルーシーは生きていられる。
この子を守るためにと思えばこそ、ルーシーは本懐を遂げた今でさえ、より力を尽くしていられるのだ。
今この国で、ルーシーの政治に否と言えるものはいない。
いつかのルーシーの敵と言えた者達は軒並み滅びて、今はルーシーが選んだ側近ばかりが国を支えてくれているのだ。
その筆頭であるフォルジュ家は特に手段を選ばず、ルーシーと娘を支えてくれている。
だからこの子が王家の特徴と言える銀の髪を持っていなくても、紫の目を持っていなくても、貴族達さえ口出しはできない。
かつての王家にだって黄金の髪を持つものは居た。緑の目はルーシーの母からの隔世遺伝。だから何もおかしくないと、皆口を揃えて納得してくれたのである。
「ところでお姫様。パンケーキのはちみつは?」
「いーーーっぱい!」
「ふふふ。ではそのように」
にこにこと笑う小さな娘。
まぁ、この子は確かに王家の血は継いでいないけれど、そんなことは些末なことだろう。
国を治める上で、本当は血筋なんてものは何も重要ではない。ましてやあんな男の血など、この世に残しておく意味もない。
出来上がったパンケーキ。たっぷりと蜂蜜をかけられた一欠片を切り分けて、ふわりと優しいお母様の表情で、ルーシーは幼い娘にそれを差し出した。
「召し上がれ、可愛い子」
たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん遊んで。
そしてどうか、辛いことも悲しいことも知らないままで、幸せなまま大人になって。
▪︎
母は穏やかなひとだった。
ルーシー・モリエ。王国史上初の平民出身の王妃であり、世には女傑だとも評価されていたひと。
けれどそんな女傑の王妃も、ダリアにとってはただの優しいお母様であったのだ。
マルス王国第一王女、ダリア・マクレイン。
幼い頃には『リア』と呼ばれていた彼女は、王族という身分の人間にしては珍しく、自身に向けられた愛というものを生まれてこの方疑ったことのない人間だった。
母は穏やかな人だった。
優しくて、いつだってダリアのことを何よりも大切にしてくれた。王妃という立場にあったにもかかわらず、母はダリアが頼みさえすれば、何だってしてくれたのだ。
お腹が空いたと抱き付けばパンケーキを焼いてくれた。新しいドレスを仕立てたいと相談すれば、時間を作って一緒に生地から選んでくれた。どんな我儘を言っても困った顔をしなかった。
もちろん、ダリアが度を越したことをすればきちんと叱ってくれた。けれどそれ以外の時には、母は何があってもダリアを後回しにはしなかったのだ。どれだけ疲れていても忙しくても、ダリアを見つけただけであっという間に顔から疲れを消してしまった。
ダリアが母の元を訪ねれば、必ず「私のお姫様」と微笑んで頭を撫でてくれたのである。
ダリアは母のことが大好きだった。
母の愛は穏やかでありながら深く、いつだって絹のようにダリアのことを包んでくれていた。
守られていたのだと思う。様々な思惑がひしめく王城で、けれどダリアが危険を感じたことは一度もなかった。ダリアは常に、あたたかな幸福の中にあった。
「ねえ、お母様。どうしてこのお庭はオフィーリアって名前なの?綺麗だけれど、何だか人の名前みたい」
幼い頃のことである。母とダリアだけが足を踏み入れることの出来た小さな庭園で、ふとそんなことをダリアが尋ねたことがあった。
母はそんなダリアに、ベンチの上。広げていた本を閉じてダリアを見た。「そうね」と、懐かしむように伏せられた瞳。
「オフィーリアというのはね、お母様のとても大切なお友達の名前なの。だから名前を貰ったのよ。その子はこの世界で一番、誰よりも綺麗な女の子だったから」
「そんなに?」
「そんなに。このお庭とよく似ていて、けれどこの庭よりも余程綺麗で可愛くて、愛しくて大切だった」
伸ばされた母の手が、とてもあたたかかったことを覚えている。頬を包む母の手のひらに擦り寄って、すると母はなぜか、ほんの少し泣きそうに顔を歪めた。
「お母様は、そのお友達のことが大好きなのね……」
ぽつりと呟くような言葉。母はそれに花の綻ぶように微笑んで、「ええ」とダリアを膝の上に乗せて抱きしめてくれた。
「愛しているわ。とても。……とても」
あの声の色を、ダリアは大人になっても覚えている。
母は穏やかな人だった。それでいて、強いけれどどこか脆い人でもあったのだ。愛に弱くて、誰かを大切にしてしまうと途端に柔らかくなってしまう。その分強くもなるけれど、傷付かないわけでは無かったのだろう。
オフィーリア。
その名前が持つ本当の意味を、ダリアは最後まで知ることはできなかった。けれど確かに、お母様にとって、何よりも大切な名前だったのだと思う。
だって、母の最期の言葉もそうだった。
あの朝焼けを覚えている。あの細められた瞳を、柔らかな微笑みを覚えている。空に伸ばされた手。
母の最期はきっと『オフィーリア』だった。
だから母はきっと、幸福な最期を迎えたのだ。
▪︎
───私は愛したひとの胸の中で、愛したひとのもとに溶けるように地獄へ堕ちるんだ。自分が何者かも分からなくなりながら、けれどきっと、自分を胸に抱く女が愛しいことだけは何があっても忘れない。
現フォルジュ家当主。数年前、父親を殺して公爵となったローレン・フォルジュは、静かな足取りで王城内を歩いていた。
王妃の国葬が終わったそのままの足で、喪服を着たままで。目指したのは国王の元。
国王、ヴィトー・マクシアン。
先代国王の死後から間も無く、再びの堕落を果たしたと評される人物である。
特にこの十数年は碌に部屋からも出ておらず、今日などは王妃の葬儀にすら出席しなかった。
臣下を遠ざけ、使用人も遠ざけ、彼の世話をするのは若く美しい愛人達のみ。
政務の全てを王妃に押し付け、生まれ持った責任に背を向けたと非難されている彼の真実を、けれどローレンだけは知っていた。
「───お久しぶりです、陛下」
国王の部屋を閉ざしていた重厚な扉。それを開けば、そこには安楽椅子に腰を下ろすヴィトーが居る。
大きな窓のそばで、若く美しい愛人に髪を梳かされた格好だった。
床につくほど伸びきった銀の髪が、窓から差し込む月の光にきらきらと輝いていた。
ローレンの声に反応したのだろう。緩やかに開かれる紫の瞳は、いつ見ても全く色が変わらない。
こんな暮らしをしていてなお、少しの濁りもない色をしているのだ。まだ幸福な夢の中に住んでいるから。
「ルーシーが死にました」
はっきりとした言葉だった。告げたローレンの言葉に、ようやくヴィトーがぴくりと反応する。
「ルーシー……?」と確かめるように呟かれる。それからヴィトーは二度ほどのまばたきの後、「お前は相変わらずおかしなことを言う」と苦笑をした。
王子であった頃と何も変わらない笑みだった。
「ルーシーが死んだなど、何をどう勘違いすればそんな話になるんだ。見ろ、リカード。ルーシーならばここに居る。そうだろう?ルーシー……」
ヴィトーがそばを振り向くと、彼の今の公妾。
ルーシーと呼ばれた女は、「はい、陛下」と柔らかく微笑む。さらりと揺れる栗色の髪。
「ルーシーはここに居ります。何があっても、陛下のおそばに……」
『ルーシー』の胸元に抱きしめられ、ヴィトーは微睡むように目を細めた。
「私はしあわせな人間だ」と、こぼれたみたいに言葉をつぶやく。
「私はほんとうに、しあわせな人間だ……」
ローレンは、それに何も答えなかった。
哀れだと思う。これほどまでに愛したひとさえ分からなくなったかつての王太子。あれほどまでに強く求めたルーシーが、死んだことさえ気付けない。
ルーシーはヴィトーを許さなかった。愛しもしなかった。ヴィトーを飼い殺して生かすことにしたのは、ヴィトーが王であること自体に意味があったからだ。
ルーシーが王妃として采配を振るうには、どうしたってヴィトーが王でなければならなかった。だから命までは奪わずに、ずっと飼い殺していたのである。
ヴィトーの時間はもう何年と動いていない。
栗色の髪を持つ女をまだ公妾だった頃のルーシーだと思い続けて、この部屋を訪れる人間は学園時代に知り合っていた誰かと認識するのだ。老年の使用人を先代の王だと思い込んだこともあった。
「陛下。……殿下」
ローレンは、あえてヴィトーを殿下と言い直した。彼の止まった時間に合わせるように。この一瞬だけ、ローレンもまた過去に戻るように。
「ルーシーはずっと、最期までずっと、オフィーリアのものでしたよ」
誰の妻になっても、誰の子を産んでも、ルーシーは最期までたった一人のものだった。
ルーシーが死んだことも、今ヴィトーを抱きしめる女がルーシーではないことも、ルーシーがどれほどオフィーリアを愛していたかも、今のヴィトーには分からないかもしれない。
それでもローレンがこのことを彼に伝えようと思ったのだ。それはきっと同情というよりも、ローレンもまた、ヴィトーと同じだったからである。
婚約者の唯一に恋をした。妹の唯一に恋をした。形式として手に入れることには成功したけれど、振り向いてはもらえなかった。ルーシーの心は常にたった一つに向いていて、ヴィトーやローレンのものにはならなかったのだ。
ヴィトーとローレンはきっと、そこだけはよく似ていた。
「それだけです。……夜分遅くに失礼をいたしました、陛下」
「どうか、良い夢を」と。ローレンはそう言って頭を下げて、国王の部屋を去った。
きっと王はこれからもずっとこのままだろう。薬に思考を砕かれて、緩やかに衰弱し、緩やかに死へと向かっていくのだ。
ただ、自らでしあわせと名付けた夢の中に浸りながら。しあわせな最期を迎えるのだ。
それが本当に『幸福』と言えるのかは、ローレンにも分からないけれど。
▪︎
───王妃が死んだ。
春の日のことだった。
死ぬにはまだ早過ぎる若さで、けれど穏やかな最期だったという。
その知らせは瞬く間に国中を駆け回り、そして国中の嘆きを呼んだ。
王国史上初めての平民出身の王妃。
女傑と呼ばれるほど政治に奔走した政治家でもあった。政務を投げ出した国王に代わり、全ての采配を担ってきたのだ。
派閥によって二分化していた貴族を纏め、諸外国との関係を改善し、国の経済を活性化させるためにあらゆる措置を行った。
当時不足していた平民相手の福祉にも力を入れて、けれど貴族や富裕層がそれに不満を持てないほど国を豊かにした。
領地や領主によってばらつきのあった法の整備も推し進め、後の時代には『王国の時間を一人で五十年分進めた』とさえ評される王妃、ルーシー・モリエ。
一人娘であった王女が成人するのを見届けると、みるみる内に弱っていったという。
王妃と親交のあった当時の貴族は、彼女の死の理由を『役目を全て終えたからだろう』と日記に記していた。
元々無理が祟って、いつ死んでもおかしくない身体だった。娘に引き渡すための国は安定し、娘も成人した。
憂うことがなくなって、糸が切れたように倒れたのだろう、と。
王妃の遺体は、その遺言に従って、王家の墓ではなく王城内の庭園に納められた。
生前の王妃が何よりも愛した穏やかな春の庭園。『オフィーリア』に王妃は眠る。
少女の腕に抱かれるようなあたたかな庭で、真実の幸福のもとに眠っている。
趣味でルーシーとオフィーリア、あとローレンの血縁関係に業をなるたけ盛ってみました。
気付いたひとが居たら嬉しいな。




