Prologue ― ザ・ノマド。
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……冷ややかな風が頬を撫でる…。嘶く騎馬の声はおろか――先程の風の音すら、耳に入らない。恐れる事は無い、恐れる事は無い。そう思って、私は小さな銀製の聖像を握りしめる。
林間に張り巡らされた対騎兵障害物の傍には、少数の騎士と、数合わせ目的の徴募兵達が…緊張の面持ちで待機していた。
「……あれが…遊牧民…。」
…眼前に漂う白霧の中に――騎兵の小集団の姿があった。
荒涼たる大地にブンチュークを突き立て、正しく獰猛なる戦士の形相で…我々を睨みつけていた。
…はぁっ……と――緊張のあまり、息にならぬような溜息を吐いて……ふと、目を伏せると、聖像――我が主の偶像を…握りしめる手が、微かに震えている。……落ち着け、私。今日、この時の為に準備をしてきたのだ。領国の平和の為に。梟雄なる獣共を手懐ける為に。
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その数日前。
「閣下、遊牧民の越境問題に関して御報告申し上げたい続報が――。」
……魔王軍崩壊後…荒廃とした北部高原一帯の民は帝国領内に流れ、高原は民無き地と化した。だがそれも先代までの事で、北部高原の更に果てより現れた見知らぬ民が北部高原に根付きつつある。
彼らは遊牧民――我ら農耕民のように定住せず、肥沃な草地を求めて放浪生活を送る――まさしく移動する国――。
忌々しき魔族共も狩猟集団の遊動民であったが、遊牧民とやらの流動性は……一線を画すものだった。彼らは国境の概念を理解せず、幾度となく越境を繰り返すのだ。
……彼らは「清々しい晴天の下に境目など存在せず、大地は人々に共有されて然るべきもの」と、本気で考えているようだった。
「原因が分かったか。」
「今度の侵入はサラハン部族の有力氏族カリュタイにございます。閣下の御想定通り……」
先日、毒殺された氏族長レン・トアラルシュのカリュタイ氏族は、サラハン部族最有力氏族。
然しながら、その権威はレン・トアラルシュが現政権シュエル・トアランの娘婿である事に起因する。彼がトアラルシュを称しているのも――その証左だ。
想定通り、レン・トアラルシュ亡きカリュタイ氏族は急速に没落した。奴らは活路を新天地に求め――国境を越えて来たのだ。
……我が父の教えによれば、北部高原の社会構造は熊に類似している。縄張り争いに敗北した弱い熊は山を追い出され、明日を求めて人里へ征く。そうして、遊牧という生活様式の生息域を拡張させるのだ。
…ただ、西方学問の書が正しければ、単に肥沃な草地や都市の富を求めて侵入し、場合によっては都市を掌中に収め、|文明の甘露に溺れる《農耕民の真似事を始める》とも――。
……少なくとも、遊牧民という存在が、我ら農耕民の脅威である事に違いはない。神出鬼没の遊牧民騎兵達が一度国境を越えれば、徒歩で追撃する我らなど容易に振り切って、縦横無尽に国土を蹂躙するだろう――いや、している。
数年前のアシュツェルニェ部族の侵入では、東方領土の軍管区長官達の連合軍が対処したが、退却中の軽騎兵を追撃するうちに――先鋒を驀進する重装騎兵と鈍足な重装歩兵の間隔が開き、更に渡河中に戦列が崩れた所で……突如、遊牧民騎兵が反転、混乱の中で撃破されてしまった。
この戦いでアシュツェルニェ部族も重装部隊相手の戦闘で痛手を負い撤退、追撃戦は一定の効果があったのだが――。
――中央は、遊牧民を統率力を持ち合わせない蛮族の類と思って――酷く侮っている。偽装撤退や伏兵など〝仕掛け〟の存在を直前まで疑わず、例え本能か何かで感じ取ったとして、それを眼前にするまでは農民反乱を相手にするような「稚拙」で「粗雑」な戦闘を――。
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……もし、我ら国境防衛の要が打ち砕かれ、遊牧民が帝国中枢へ浸透したならば、攻城兵器を持たない遊牧民は城塞都市を決して落とせないだろうが、それでも荘園や農村は略奪の憂き目に遭うだろう。私は――何としても…どんな卑劣な手を使おうとも、遊牧民を止める。
「――娘が手紙に応えたか、会合点へ行くぞ。」
ザ・ノマド。
第一章 ― 方伯閣下の謀




