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第5話 逃避

 母を捨てる。


 その言葉を心の中で繰り返すたび、胃の奥がチリチリと痛んだ。


 苦労して自分を産み育ててくれた母。その母を、こちらから切り離す。それは、人として許されない行為だとわかっている。


 記憶の底から、いくつもの夜が浮かんでくる。


 子どもの頃、熱を出してうなされたとき。母は眠らずに傍らにいてくれた。冷たい氷枕に頭をのせ、汗ばんだ手を母が握りしめてくれた。その感触を、はっきりと思い出せる。


 あの手だけが、自分をこの世に繋ぎとめていた。その手を、いま自分は、無理やり振りほどこうとしている。


 苦しい。


 同時に、胸の奥でふっと軽くなるものがあった。施設の入居費用という重荷から解放されれば、未来の数字に怯えずに済む。


 涙が頬を伝った。悲しみなのか、後ろめたさなのか。それとも安堵なのか、自分でも判別できない。


 母を捨てると決めた。すると、不思議なことに他のものも次々と手放したくなった。


 会社を辞め、自宅を売り払い、家具や家電をリサイクルショップに引き渡した。長年使った食器やソファも、思い出の詰まった本棚も、少しも惜しいと思わなかった。


 すべてが、船を停泊させる(いかり)のようなものだった。


 残したのは、最低限の衣類。ウサギの人形。代わりに、キャンプ道具とバイクを買った。


 そうして手に入れた「軽さ」は、翼を得た鳥のような自由を意味しない。むしろ骨を削られた身体みたいな、頼りない「軽さ」だった。


 何も持たず、何も守らず。ただ削り取られただけの人生を噛み締める。


 それでも、どこかで。どこかで、これでよかったのだと思う瞬間もある。苦悩と安堵が、交互に押し寄せ、こめかみのあたりを、なん度も行き来した。


 あの日。


 橋の上で健吾と待ち合わせた。


 川面には街の灯りが揺れて映り、冷たい風が頬を撫でていく。駅前の雑踏から外れたその場所は、まるで境界のように感じられた。


「京介、本当にいいんだな?」


 健吾の声には、迷いと同時に確かめるような響きがあった。


「ああ。もういい。ここから逃げたい」


 言葉にすると、心の奥に静かな決意が広がった。


「俺が逃げてる理由、聞かないんだな」


「どうせ、面白い話じゃないんだろ?」


 互いに苦笑した。


 健吾はポケットからスマホを取り出し、迷うことなく川へ投げ捨てた。自分もそれに倣った。


 黒い塊は弧を描き、水面に落ちると、一瞬だけ波紋を残して消えた。


 儀式のようで、妙に清々しかった。


「救われた。そんな気がする」


 思わず口にした言葉に、健吾は静かにうなずいた。


「これからの旅。お互いを見失ったら、それはそれ。その時は、京介、元気でな。お前とまた会えて、よかった」


 瞬間、四十年前のグラウンド。その光景が甦る。


 走り疲れて足が止まりかけたとき、健吾が声を張り上げた。


「走れ京介! 止まるな!」


 社会の中心から外側に押し出されていく。いや、そうじゃない。外へ、逃げるんだ。


 夜風の中、そう、強く願った。

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