第4話 離婚
妻に、役職定年の話を切り出した。そして数年後、定年した後に予想される給与額も、正直に話した。
ほんの数秒の沈黙。その後、彼女の口から出たのは「離婚」の二文字だった。
蛍光灯の光は何も変わらない。それなのに、色彩が一段淡くなったように感じられた。
テーブルの木目も壁の模様も、知らない、別の誰かの家のもののように思えた。
愛し合って、結婚した。三十年を共に過ごした。だが彼女の瞳に、夫を映す温もりは、もう残っていなかった。
思い返せば、自分は何一つ、彼女との約束を守れなかった。
彼女の人生は、パートと子育てで埋め尽くされていた。
ほんの少しの贅沢さえ、させてやれなかった。
そういえば、最後に見た彼女の笑顔は、スーパーで安売りの特上カルビを見つけたときの笑顔だ。その笑みは、喜びではない。小さな救いを見つけた安堵だった。
そして。
いつか夫婦で豪華客船に乗って、海外旅行をするという約束。
結婚して間もない頃から、ずっと、二人で語り合ってきた未来の約束。その約束を、今後、果たせる見込みはない。
「離婚した後、どうするの?」
「実家に帰るわ。親の介護もしなきゃいけないし」
「そうか。大変だな」
「あなたも、色々と大変だと思うけど。頑張って」
その声には憎しみも怒りもなかった。ただ、淡々とした諦め。それがかえって、自分には痛く感じられる。
「ごめん。幸せにしてやれなくて」
「頑張ってくれたとは思ってるよ。でも、もう無理かな」
「もし、これから豪華客船で一緒に旅行しようって言ったら、離婚しないでくれるか?」
自分でも愚かだとわかっている。
「無理。そういうことじゃないのよ。それがわからないから、離婚になるの」
妻の言葉は、不思議なほど静かだった。これは夢じゃない。現実だ。
「あなた、私のこと、何も知らないでしょ? 知りたいって思わないでしょ? 豪華客船の話じゃないの。あなたは、いつの間にか、私のこと知りたいって思ってくれなくなった。それが、一番辛かったの」
自分は三十年間、家族のために働くことが全てだと思い込んでいた。
だが彼女が求めていたのは、人間としてお互いのことを理解したいという姿勢。生活の中で分かち合う、相手のことを知りたいという小さな願いだった。
「今からじゃ、もう遅い?」
「結婚して、もう今年で三十年よ。三十年も、私はあなたに興味を持ってもらえなかった。この時間を巻き戻せるなら、やり直してもいいよ。でも、できないでしょ?」
積もり積もった失望だけがあった。
「謝って済むことじゃないけど、ごめん」
「悪いことばかりじゃなかった。熱海の旅行、ほんとうに楽しかった。ありがとう」
かつての約束は、こうして、果たせぬまま終わった。