第3話 町中華にて
その夜、健吾の仕事が終わるのを待って、二人で町中華に入った。
赤い暖簾が夜風に揺れ、店先の裸電球が心もとない明かりを落としている。
引き戸を開ければ、焦げた醤油と胡麻油の匂いが鼻を突く。懐かしい気持ちに包まれた。
古びたテーブルに座り、瓶ビールを注文する。栓を抜く乾いた音が響き、二人で注ぎ合った。
「京介と一緒に酒飲むの、初めてだ! なんか、嬉しい」
「そうだな。嬉しいな」
薄黄色の液体が泡立ち、灯りに照らされて光っている。
カチンとグラスを合わせる音は小さかった。それが不思議と胸にくる。まるで四十年の空白を一瞬で埋め合わせる合図のよう。
「たしか、京介の家も中華料理屋だったよな?」
「そうだ。でも、もうずっと前に閉めたよ」
「そうか。俺、一度だけ家族で行ったことがあるよ」
「一度かよ。もっと来いよ。……まあ、もうないけどな」
二人で笑った。笑った拍子に、あの頃の自分たちが一瞬だけ甦った気がした。
サッカー部の練習、夏のグラウンド。灼熱の照り返しに足を取られ、誰もが疲れ果てていた中、健吾だけが声を張り上げていた。
「走れみんな! 止まるな!」
その声が、部員全員の背中を押していた。どれほど助けられたことか。
健吾は、キャプテンでも、レギュラーでさえもなかった。けれど、誰よりも真剣で、誰よりも仲間を大切に思っていた。
県大会出場をかけた引退試合に敗れたとき。ベンチで泣いていた健吾の横顔を、今もはっきり覚えている。
「そういえば、健吾。お前、高校卒業してすぐ東京に行ったよな」
「ああ。大学で東京に出た。でも去年戻ってきたんだ」
「どうして? 東京の方がずっと面白いだろ」
「離婚したんだ。で、これからのことを考えたら、こっちに戻るしかなかった」
健吾の言葉は淡々としていた。しかし、その表情には長年の疲労がにじんでいた。お互いに、歳をとった。
「実家が残ってて、よかったな」
「いや、実家はないよ。あそこの工場に、寝泊まりさせてもらってる」
「確か、健吾。お兄さん、いたよな?」
「死んだよ。がんで。六十二のとき」
「そうか、若いな。残念だ。ごめん、無神経で」
互いの近況を語り合いながら、四十年の空白が少しずつ埋まっていく。かつてと変わらぬ信頼が、帰ってくる感じがした。
やがて健吾は、テーブルの端に置いていたウサギの人形を手に取った。
指先で弄びながら、しばらく黙り込む。その瞳には、サッカー部で仲間を鼓舞していたあの真っ直ぐさが見える。
「なあ、京介。俺と、逃げないか?」
酔いの席の冗談ではなかった。
四十年を経ても変わらない。不器用で誠実な熱が、そこに残っていた。