敵視
なんとか店じまいに間に合って味噌を買い、重たい袋を腕に提げて家につくと、聖はいつものように裏口の引き戸を開けた。
「ただいまぁ~! 味噌買ってきた!」
大声を上げたが、返事がない。おかしいなぁと思って、もう一度叫んでみる。
「ただいまー!」
やはり、返事がない。もしかして急患でも出て問診にでも出かけているのかと思って、聖は制服についた水滴を払い落とし、家に上がった。
廊下を歩くうちに、話し声がわずかに聞こえてきた。応接間からだ。おおかた糸井と一緒に酒でも飲んで、いい気分になって語っているんだろう。なんだ、いるんじゃんと少し不満に思って、聖は乱暴に応接間のドアを開ける。
「ただいま。兄貴、いるなら返事くらい……」
聖は言いかけて、その場で固まってしまう。応接間のソファに、ついさっきバス停で遭ったあの少年と少女が座っていたからだ。二人も驚いたようで、目を見開いて聖を見つめている。
侑一が能天気に顔を上げた。
「おう聖、帰ったか。こちら、今日からうちで預かることになった紺野小夜さんと颯太くん。小夜ちゃん、颯太くん、こっちは一番下の弟の聖。高野聖の聖と書いて、ひかると読むんだ。完全な当て字だけど、ちょっとカッコいいだろ?」
聖はどう反応していいものかわからなくて、吸い込まれるように小夜と颯太のソックリな濃い灰色の瞳を見ていた。まるで双子みたいに、そっくり。
色々と言いたいことや言わなければいけないことがあるはずなのに、頭が真っ白になって、何も浮かばない。
先に動いたのは颯太たちだった。ふっと颯太が微笑んで、会釈する。
「初めまして。紺野颯太です。お世話になります」
「姉の紺野小夜です。よろしくお願いします」
小夜も颯太にならうように、頭を下げる。聖はその微笑に、ますます頭がこんがらがっていくのを感じた。真っ白だった頭が、とたんに絵の具をぶちまけられたようにごちゃごちゃになる。
このギャップはなんなんだと聖は回らない頭で考える。さっきのバス停ではあんなに冷たい目でにらんできたのに、今度は礼儀正しく微笑んでいる。
何も言わずに固まったままの聖に、呆れたように侑一が声をかける。
「おまえ、なに固まってんだよ。挨拶は?」
侑一にせかされて、聖はようやく現実感をつかみ、パッと赤くなりながらうつむいた。
「あ……えっと……三男の聖です……よろしくお願いします」
「ごめんね、こいつ人見知りだからさ。普段はサルみたいにうるさいやつなんだけど」
侑一が余計な口を挟み、聖はますます赤くなって侑一をにらむ。颯太と小夜は微笑んだまま。聖はようやく自分を取り戻し、侑一の隣に座って小声で文句を言った。
「兄貴、来るのは明後日って言ってたじゃん!」
「バカ、予定は流動するものなの。未来は未定。いつ何が起こるかわかんないんだぞ、地球で生きてる以上は」
わけのわからない言い訳を当然のような顔でされて、聖は小さくため息をつく。そんな二人のやり取りを、颯太はあまり興味なさそうな顔で眺めていた。小夜はうつむいたまま、顔を上げようとしない。聖はなんだか自分がひどく子供っぽく空回りしている気がしてきて、腹立ち紛れに侑一の膝の上に味噌の袋を置いてやった。
「重っ! なに、これ」
「なにこれって、兄貴が買って来いって言った味噌だよ。重いのに、雨の中、わざわざ戻って買ってきた味噌だよ!」
思わずムキになって言う聖に、冗談だよと侑一がこらえきれないように笑い出す。聖はますます赤くなって、侑一をにらむ。侑一は颯太たちに、まぁうちはこんな感じでいつも騒がしいんだと笑ってみせ、颯太と小夜も顔を見合わせるように微笑した。自分だけのけ者にされている気分だった。
侑一はそんな聖の疎外感に気付いているのかいないのか、能天気に話を続けていく。
「とりあえず、二人は離れの病室をひとつずつ自由に使ってもらっていいから。もしかしたら急患が入る可能性もあるけど、そのときは颯太くんにちょっと移動してもらうことになるけど大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
颯太が神妙な顔で頷く。その素直な態度に、侑一は満足そうに微笑んだ。
「なんだか落ち着かなくて悪いね。あとは家の中を案内しようか。ああそれと、他人の家ということで二人とも遠慮もあると思うけど、俺は遠慮しないからね。仕事もどんどん言いつけるよ。特に颯太くん、覚悟しといて」
侑一の言葉に、颯太は一瞬怪訝そうな顔をして、それからふっと微笑んで頷いた。そのとき、小夜が小さく咳き込みはじめる。侑一もよりも早く、颯太がそれに反応した。
「姉さん、つらい?」
慣れた様子で背中をさする颯太に、小夜は胸を押さえながら小さく首を振った。侑一は一瞬その光景をキョトンとした顔で見つめてから、医者らしい機敏さで小夜に駆け寄った。
「小夜ちゃん、雨にあたって体が疲れてるかな? もう横になったほうがいいな」
「そうですね」
颯太が小夜のかわりに頷く。すっかり蚊帳の外の聖は、ただオロオロと事態を見守ることしかできない。
侑一は優しく小夜の体をささえて立ち上がった。颯太が慌てて代わろうとするが、侑一はきっぱりと首を振る。
「俺が連れてくから、大丈夫。ちょうど検診もしておきたかったんだ」
「でも……」
「颯太くんは、聖の相手してやって。……聖、颯太くんに家の案内して。あと、学校のことも」
突然振り返って言われて、慌てて聖は何度も頷く。侑一は頼んだぞと厳しい声で言ってから真面目な顔のままパチっとウィンクして、うわっと思わず声を上げた聖を全く気にかけることなく、小夜の背を押して応接室を出て行った。
ドアが閉まってから、とたんに聖は重い沈黙にさらされる。侑一たちの足音が遠ざかっていく。すぐ斜め前に座っている颯太は、口をつぐんだまま目を伏せている。さっきまでの柔らかい雰囲気は霧のように消え去って、伏せた睫毛には鋭いナイフのような影が落ちていた。
聖は思わず体を固くして、小さく深呼吸して自分を奮い立たせると、乾いた口を開いた。
「えっと……紺野、くん」
颯太は聖の声に反応して、ゆっくり視線を上げた。鋭い視線にさらされて、聖は心臓が大きく波打つのを感じた。なんでだかはわからないけれど、自分は敵意を持たれているようだと聖は悟る。理由が思い当たらないだけに、聖はますます身を固くしながら、とりあえず兄に言われたことだけはちゃんとしようと話を続けた。
「俺と同じ中学に編入するってことは兄貴からもう聞いてるよね? 明日から、もう学校に来れる?」
颯太は小さく頷いた。ひどく警戒されている。
「なんかわかんないこととかあったら、俺に出来る限り力になるから。……じゃあ、とりあえず簡単に家の中を案内するよ」
聖に促されて、颯太はのろのろと立ち上がる。思ったよりずっと華奢で小柄だった。蛍光灯の下で、颯太の剥きたての梨のような瑞々しい肌が、異常に白く見える。そんな子供っぽい体つきに反して、颯太はひどく大人びた顔をしていた。そのアンバランスさに、聖は戸惑ってしまう。
聖のまわりにいる男友達といえば、みんな身体ばかり大きくて行動や中身はガキ同然だった。脩という例外がいるにはいるけれど、脩もあれでまだまだ子供っぽいところが多い。颯太には、子供らしい表情がまったく見当たらなかった。
聖は落ち着かない気持ちで颯太の前に立ち、風呂場や手洗い場などをひとつひとつ案内していく。
「そういえば、三階は……」
聖が振り返ると、颯太は真っ直ぐ聖を見据えて頷いた。
「三階のことは、侑一さんから聞いてます」
「そっか」
短く頷いて、あれっと違和感を覚えて聖は再び颯太を振り返る。
「俺たち、同い年だから。敬語とか……使わないでいいから」
なんだかモゴモゴと口の中で呟くような言い方になってしまった。こうゆう状況には慣れていない。聖のまわりにいる同年代の友達は、昔から顔なじみで一緒に遊びまわっていた人たちばかりだったから。颯太は怪訝そうな顔をして、わかったと低い声で頷いた。
聖はどうにも居心地が悪くて、首筋をさかんになでながら、ひととおり家の中を案内していった。
「で、あっちに行くと医院のほうにつながってて……こっちに行くと渡り廊下があって、その先が離れにつながってる。えっと、紺野たちは離れで生活するわけだから、風呂とかメシとかのときはこの渡り廊下を通って母屋に来てもらうことになるから」
聖の説明に、颯太は聞いているのかいないのか、特に何の反応も示さないままだった。やっぱり俺は嫌われていると思って、聖は途方にくれる。理由が思い当たらないのが何よりも困った。聖は颯太に敵意を持っているわけではなくて、むしろこれから一緒に生活していくわけだから仲良くしたいと思っている。その気持ちをどう伝えたらいいものか、聖は思案にくれながら再び応接室へと戻ってきた。
さっきは気付かなかったけれど、応接室の端には旅行鞄が二つ置かれていた。これが二人の荷物らしい。颯太は軽々とそれを両手に提げた。
「じゃあ、部屋に戻るから」
颯太は相変わらず冷ややかな表情でそう言って、聖に背を向ける。聖は慌ててその背中を呼び止める。
「ちょっと待って!」
訝しそうな顔で、颯太が振り返る。突き刺すような視線を受けて、聖は思わず目をそらしたくなってしまう。
「何か用?」
「いや……俺、なんか紺野の気にさわるようなことした?」
なんで、と颯太が低い声で聞き返す。
「だって紺野、なんだか初対面なのに俺のことカタキみたいな目で見てくるから」
「そんなことないよ」
颯太はそっけなく答えて、その言い方に聖は思わず身を乗り出した。もしも何か理由があるとすれば、ひとつしか思い当たらない。少し迷ってから、聖は口を開いた。
「あのさ……もしかしてさっき、バス停のところで、俺何か失礼なこと……」
「何が言いたいわけ?」
颯太の冷たい声が、聖の言葉を遮った。聖は思わず言葉に詰まってしまう。それほど、颯太の目は殺気を帯びるほどに冷たく鋭かった。そしてその冷たい水晶の奥で、熱いものが滾っているのもわかった。
聖はなんとなく悟った。
理由はわからない、理由はわからないけどこいつはとても他人を信用なんてできない状況にあって、特に俺のことは信用できないと思っているらしいと。
「いや、あの……」
「用がないなら行くから」
今度こそ颯太は聖に背を向けて、部屋を出て行ってしまった。聖は呆然とその背中を見送って、どうしようもない戸惑いを覚えながらその場に立ちすくんだ。
聖にとって衝撃だったのは、自分が颯太に嫌われているらしいという事実よりも、颯太のあの鋭い瞳だった。
自分と同い年で、あそこまで冷たい瞳をする少年。いったい何が彼をそうさせているのか、興味もあったし同時に怖くもあった。もちろんそれ以上颯太の事情に立ち入ることはできないということも、聖にはよくわかっていたけれど。