兄
脩の家で散々ゲームをして遊んで、脩の家の使用人の長い愚痴に付き合った後、夕食を食べていけという誘いをなんとか断って、聖は倉崎家を出た。
脩の家はとにかく大きい。明治に建てられたという洋館は確実に歴史を刻んできた重みがあり、古いけれどとても住みやすく手入れされている。庭には少し不釣合いかと思われるほど見事な日本風庭園が広がり、池には一匹何百万とかいう鯉が泳いでいる。他に新館と呼ばれる事務所があって、そこには常に支援者や来客が絶えなかった。脩はやっぱり、そうゆう政治家の祖父たちの血をしっかり引いていると聖は思う。
でも本人も脩の母親も、代議士のあとは長男が継げばいいと思っているらしく、脩は好き勝手気ままにやっていて、母親もそれを黙認している。脩の兄は頭はいいけれどおとなしい人で、聖は脩が一番政治家に向いているのになと常々思っていた。
脩の家から聖の家までは徒歩で十五分ほどかかる。この街は坂が多いから、距離はたいしたことはないが体力がいる。ちょうど中腹の坂を下り始めたところで、さらに悪いことが重なった。雨が降り出したのだ。
最悪だと舌打ちして、聖は足を早める。が、雨足は強まるばかりで、家についたときにはすっかり全身ずぶ濡れになっていた。
「ただいまぁ……」
「動くな!!」
裏口のドアを開けた瞬間、自宅とつながっている医院のほうから長兄・侑一の怒鳴り声が聞こえた。聖はおとなしく玄関にとどまって、自分の全身を情けない気分で見下ろす。しばらくして白衣を身に付けたままの侑一がバスタオルを持ってやってきて、聖に向かってそれを投げた。
「また見事に濡れたな」
呆れたような兄の声を聞きながら、聖はぐしゃぐしゃと頭をタオルでかき回す。水滴がたっぷりと敲きに飛び散るのを、侑一は嫌そうな顔で見ていた。
「部活だったのか?」
「いや……脩の家行ってた……」
おとなしく白状すると、侑一はあの代議士んとこの次男かとわざと遠回りな言い方をして呟いた。遊びにいくくらいなら家のことを手伝えと言われるかと身構えたけれど、侑一はそれ以上何も言わなかった。黙って、聖から濡れたタオルを受け取る。
「あ、足の裏もちゃんと拭けよ」
「わかったよ……夕飯は?」
「今日は雨宮さんがきてたから、作ってもらった。里芋だって」
雨宮さんとは、たまに家の手伝いに来てくれる近所に住む元看護婦の老婦人で、手伝いにきたときには必ず聖の好物の里芋料理を作っておいてくれるのだった。聖は喜んで足の裏を拭き、自分の部屋へと飛び込んだ。洗濯ものはすぐに洗濯機に入れとけよと侑一の怒鳴り声がして、聖も大きな声で返事しておく。
聖の部屋は二階にある。六畳の和室だ。二階にはもうひとつ、四畳半の納戸があって、そこは侑一の書斎代りになっていた。さらに母屋の渡り廊下伝いに離れがあって、そこは入院患者用の簡単な病棟のようになっている。二つあるその病室が埋まることはまれで、普段は滅多に掃除もせずにほっぽられているような離れだった。
そしてもうひとつ、この家には三階がある。聖はなるべく三階には上がらないようにしているけれど。
聖の部屋はいつもキレイに整頓されている。掃除が好きなのだ。掃除だけは苦に思わないで、よく侑一の書斎も簡単に整理してやっている。侑一もその点に関しては惜しみなく聖に感謝を示し、ありがたがってくれる。もっとも、黒光りする古い板が張られた四畳半の床には、備え付けの本棚に収まりきらない医学書や本、古いカルテが足の踏み場もないほどうずたかく積まれ、片付けると言ってもその置き場所をできる限り安定させて積み直すことくらいしかできないのだけれど。
水分を含んでピッタリと肌に張り付いた服を苦労して着替えると、聖は濡れた服を丸めて抱えて、階段を駆け下りた。台所をのぞくと、侑一が里芋の煮物の鍋を温め直している。
「あーっごめん! 今手伝うから」
「いいからおまえは風呂に入ってこい!」
背中を向けたまま、侑一が命令する。
「でも……」
「風邪でも引かれたら余計に困るからな、いいからさっさといってこい」
「……はーい……」
こうゆうとき、ものすごく兄貴に申し訳ないなと思う。聖はちょっとうなだれて、できるだけ手早くシャワーを浴び、簡単に身体を温めてから急いで台所に戻った。もうすでに、食卓の上にご飯の準備ができている。ちょうど侑一は箸を並べ終えたところで、きょとんとした表情で顔を上げた。
「あれっ、聖早かったな」
「ごめん、全部準備させちゃって……」
申し訳なさそうに謝る聖に、侑一はふっと微笑む。
「本当に、よくぞここまで真っ直ぐに育ったものだよ、おまえは……」
「な、なにがだよ」
急にしみじみと言われて、聖は思わず赤面して視線をそらした。中学三年生の男子というものは、ただでさえ反抗期真っ盛りで生意気な態度をとるものだが、聖は真面目で周囲の大人を困らせないタイプだと自覚している。ご近所さんからも、聖くんは本当に良い子に育って、とことあるごとに褒められてきた。そういう自分が嫌いではないが、兄から言われると恥ずかしさもあって素直に受け取りづらい。聖はわざと不機嫌そうな顔を作って、食卓についた。
「よし、じゃあ食うか」
二人は同時に手を合わせ、箸を持った。里芋の煮っ転がしとゴボウの味噌汁、ご飯、漬物を添えた焼き魚というシンプルな食事だ。スズキは侑一がむりやり焼いたようで、かなり焦げている。
「兄ちゃん、勘弁してよ……」
焦げた部分を箸でつまんで悲しそうな顔をする聖に、侑一はアハハと笑ってごまかしてから、贅沢言うなと不意に表情を厳しくした。
「いいか、この魚はなぁ、はるばるオホーツク海から……」
「あーそれはいいからさ、ちょっとちょっと!」
侑一のわけがわからない説教が始まると長いので、慌てて聖は大声を上げて遮る。
「それより、最近脩の様子がおかしいんだよね」
とりあえず疑問に思っていることを口にしてみると、侑一はあまり興味なさそうな顔で相槌を打った。
「へぇ。どんなふうに?」
「うーん……それがさ、更々屋の莢子さんの前で妙に態度が変わるんだよね。あれって、どうゆうことなんだろ」
神妙な顔でたずねる聖に、侑一はぷっと小さくふきだした。
「それって、アレなんじゃないの?」
「アレ?」
「思春期にありがちな。恋とか愛とか」
明らかにおもしろがっている侑一に、聖はちょっと顔を赤くしながらも首を振る。年の割りにオクテな聖にはよく恋愛のことはわからないけれど、どうもそうゆう感じではなかった。もっと何か、何か違和感のある……。
それを必死で伝えようとするけれど、侑一はもう「思春期の色恋沙汰」と結論付けてしまっているようだった。
「違うんだよ、そうゆう雰囲気じゃなくてさ」
「まぁおまえらくらいの年齢なら、普通にあることだろ。ほっといてやれよ」
「ほっとけないよ……そういえば兄貴こそ、恋人はいないの?」
普段から気に掛かっていたことを、思い切って便乗し聞いてみた。侑一は一瞬怪訝そうな顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うわぁ、もうおまえとこんな話ができるようになったんだ! ときの流れって早いなぁ、なんか感動だよ」
「ちょっと侑一さん、なにごまかしてんだよ」
「ごまかしてないよ、俺は本気だよ。そうか、おまえも大きくなったなぁ。久しぶりに昔のアルバムでも見たくなってきた」
嬉しそうにそう言う侑一に、結局そのまま話をうやむやにされてしまって、聖は不服に思いながらも複雑な気分で味噌汁をすする。実際のところ侑一はまったく女の匂いがしなくて、それでも二十八という年齢を考えれば恋人くらいいるのが普通だと思う。侑一は弟の厳しい目から見てもなかなかいい男だし、彼女のいる気配がない方が不思議だった。
食べ盛りで早食いの聖がほとんど食事を終えて、手を合わせようとしたそのタイミングを見計らったように、ふいに侑一が口を開いた。
「実はこの家に、従兄弟を二人預かることになったんだけど」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「……従兄弟って、俺らに従兄弟なんていたわけ?」
何よりもまずその疑問を先に口にすると、侑一はもっともだというように頷いた。
「それが、いたんだな。なんでも死んだ親父の腹違いの弟の、しかもどっかに引き取られていって云々とかいう、だいぶ遠い縁らしいんだけど、従兄弟であることにかわりはない」
「なんで急に、そんな遠い従兄弟を預かることになったんだよ、しかもうちが」
聖は全く事情が飲み込めなくて、つい侑一を責めるような口調になってしまう。なによりも侑一がすっかり何もかも決定したあとで報告しているような態度が気に入らなかった。ひとことくらい事前に相談があってもいいと思う。
侑一はそんな聖の気持ちに気付いているのかいないのか、味噌汁をすすりながら妙に笑顔で言った。
「その従兄弟っていうのは、おまえと同い年の男の子と、一つ上の女の子の姉弟なんだけど。楽しそうだろ? すぐ友達になれるよ」
「俺の質問に答えてない」
「……その女の子のほう、小夜ちゃんっていうんだけど。ちょっと体調崩しててね、静養もかねて静かな場所で預かろうと思うんだ。うちが最適だと思ったけど、違う?」
「……違わない……」
うつむいて呟いた聖の頭に、侑一がポンと手をのせる。
「うちは部屋も余ってるしな、男の子のほうは颯太くんっていうんだけど、なかなか利口な子だった。勉強教えてもらえるぞ」
そう言われると、なんだか従兄弟を預かることはそう悪いことではない気がしてきた。それでもやっぱり平穏が保たれている家が色々と不安定になりそうで憂鬱だったし、何より侑一が全部一人で決めてしまったことが不満だった。
聖はもう子供ではないからそんな不満を口にはしなかったけれど、プイと横を向いて侑一の手から逃れ、態度でそれを示した。侑一はちょっと困った顔になって、つぐないのつもりなのか、皿は俺が洗っとくよと明るい声で言った。聖はますます不満になって、黙ったまま食堂を出た。