音痴ピアノ
監修:蒼風 雨静 作;碧 銀魚
「おばあちゃん、きらきら星弾いてー!」
孫娘が私の持ち主のおばあちゃんにせがんでいる。
「はいはい。」
そう言って、おばあちゃんは私の鍵盤に指を乗せる。
すると、その指は軽やかに踊り、まるで魔法のように綺麗な音色を紡ぎ出していく。
でも、私はちょっとだけ音痴だ。
40番のドの音とその隣のレの音、50番のラシャープの黒鍵、56番のミの音、63番のシの音が、少しずつずれている。
だけど、おばあちゃんはこの独特の音色が好きだと言って、直そうとはしなかった。
定期的に調律師に来てもらっていたが、この5か所はずっとずれたままにするよう、注文をつけていた。
調律師のおじさんは、いつも苦笑いしながら、「はいはい」と言っていた。
「おばあちゃん、スーパー戦隊スゴインジャーも弾いてよ!」
きらきら星を弾いている最中に、孫娘の弟がせがんできた。
この弟のほうはこらえ性がない。いつもこうして、邪魔してでも自分の要求を通そうとする。
「今、きらきら星を弾いてもらってるの!」
当然、姉とケンカになる。
「姉ちゃんばかりずるい!」
「次でいいじゃん!」
「今すぐがいいー!!」
ついに弟のほうが泣きわめき始めた。
おばあちゃんは「あらあら」と言って、きらきら星の演奏をやめ、弟をあやし始める。
「わかったわ。先に弾いてあげるから、泣かないの。」
「えー……」
姉がまだ文句を言っている。
だが、こうなると、もう弟リクエストを弾くしかない。
「じゃあ、スゴインジャーね。」
そうして、おばあちゃんはスゴインジャーのテーマ曲を弾き始めた。
この見た目からは想像できないくらい、ロックな曲の演奏が始まった。
……それが、私の中にある、遠い日の記憶。
おばあちゃんが、この家からいなくなってから、随分とたつ。
もう、おばあちゃんは亡くなってしまっただろうか。
あの孫の姉弟は、今も元気やっているだろうか。
おばあちゃんがいなくなってから、私を弾く人は誰もいなくなった。
ずっと部屋の片隅で置いてきぼりにされ、やがてこの家自体から人がいなくなった。
たまに、おばあちゃんの息子が、用事があって来るくらいだ。
ああ、楽しかった日々はもう戻ってこないのだろうか。
私はこのまま、人知れず消えていくのだろうか。
そんなことばかり、私は最近思っている。
だが、物事は何がどう転がるか、わからないものだったりする。
「あったぞ!ピアノだ!」
見覚えのない男が、突然家に入ってくるなり、私を見付けて怒鳴った。
「田中さん、ありました!すぐに被疑者の姉を連れてきて下さい!」
その男が叫ぶと、田中と呼ばれたもう一人の男が入ってきた。
「すぐに連れてくる。鈴木、その辺りの物をどかして、すぐに弾けるようにしておけ!」
「わかりました!」
田中に指示され、鈴木と呼ばれた男は、私の周囲に置かれたものを、片っ端からどかしていく。
それが終わるとほぼ同時に、田中が一人の女性を連れてきた。
それは、おばあちゃんの孫娘だった。
すっかり成長して、立派な大人の女性になっていた。
どこか、若い頃のおばあちゃんにも似ている。
私は感動でいっぱいだったが、皆はそれどころではないらしい。
「宜しくお願いします!お婆様がいない今、あなただけが頼りです!」
田中がそう言うと、孫娘は頷いた。
「わかりました。」
そう言うと、孫娘は私の蓋を開け、鍵盤の埃を掃ってから、その指で演奏を―
「音が鳴らない!」
途端に孫娘は叫んだ。
そう、私は長年調律もされず、放置されていたので、弦が緩んでいくつか音が鳴らなくなってしまったのだ。
「完全に鳴らないですか?」
鈴木が尋ねると、孫娘は88鍵全てを押した。
「……半分近くの鍵盤の音が鳴りません。残りの鍵盤も、殆ど音がずれてる。これじゃあ、解除キーになりません。」
孫娘が冷汗を流しながら言った。
なんだかよくわからないが、とても切迫した状況らしい。
「じゃあ、すぐに調律師を呼ぼう。時間はまだあるから、今からなら間に合うかも。」
田中がそう言ったが、孫娘は首を横に振った。
「それじゃあダメなんです。このピアノ、5音だけ特徴的な音ズレをしていて、それを再現しないと、解除キーにならないと思います。おばあちゃん、この音ズレを気に入ってたから……」
孫娘がそう言うと、田中と鈴木は苦い表情で黙り込んだ。
なんだろう。
一体、私は何に必要とされているのだろう。
「……待って!そう言えば、あの当時も調律しに来てくれてたおじさんはいたかも……その人なら、5音がどうズレてたか、覚えてるかも……!」
孫娘がそう言うと、鈴木と田中が瞬時に電話を取り出した。
「すぐに調べさせます!」
そこから、田中が電話で何やら連絡を取り始め、鈴木はどこかへ飛び出していった。
孫娘は、私の前に座ると、私の鍵盤に再び触れた。
「お願い……助けて……おばあちゃん。」
その目から、涙が一筋流れた。
何かわからない。
でも、私はこの孫娘の力になりたい。
どうすれば……でも、私一人では音は出せない。
なんて、もどかしいんだ。
「見つかりました!まだ、存命でした!」
鈴木が戻ってきたのは、夕暮れ近くのことだった。
「本当か!?じゃあ、すぐ来てもらってくれ!」
田中がそう言うと、鈴木は頷いて、また電話を始めた。
「あの調律師のおじさん、まだお元気だったんですね。」
孫娘が嬉しそうに言った。
「これで、うまく調律出来ればいいが……」
田中は深刻そうな表情でつぶやいた。
間もなく、鈴木が一人の老人を連れてきた。
ああ、随分と老けてしまっていたが、私の面倒を見てくれていた、あの調律師だ。
「こんな時間にご無理を言ってすみません。ただ、緊急事態なのです。」
田中が丁寧に挨拶すると、調律師はゆっくりと頷いた。
「わかりました。ただ、僕はもう調律師は引退して久しいんです。手も、この通りで……」
そう言って、調律師は手を田中と鈴木に見せた。
その手は小刻み震えていた。
「これは……まさか、パーキンソン病ですか?」
田中が尋ねると、調律師は頷いた。
「ええ。ですから、調律はムリなんです。」
辺りに絶望的な空気が満ちた。
孫娘も深刻そうな顔で俯いている。
「でも、ご心配なく。ちゃんと代わりに来てもらいましたから。」
不意に、調律師はそう言った。
田中と鈴木、そして孫娘が意表を突かれて、一斉に顔を上げた。
そこに、一人の青年がやってきた。
「久しぶりです。」
青年は孫娘に向かってそう言った。
「うそ!もしかして、おじいさんの跡を継いだの!?」
孫娘は驚いている。
ああ、私も見覚えがある。
確か、あの青年は孫娘の弟の友達だ。
あの調律師の孫だったんだ。
「僕の手はもう使えないけど、孫がしっかり調律してくれる。大丈夫、耳はまだ使えるから、音はしっかり覚えてるよ。」
調律師のおじいさんはそう言って、ニッコリと笑った。
その隣で、調律師の孫が頭を下げた。
「宜しくお願いします。」
そこから、私の中身が開かれ、調律が始まった。
まずは、全ての音を鳴るように調整し、そこから問題の5音を調整することになった。
孫の調律の手付きは、かつてのおじいさんそっくりだった。
繊細なチューニングハンマーの使い方、優しいミュートの押し当て方、探り探りの鍵盤の押し方。
まるで、あの頃に戻ったようだった。
結局、全ての鍵盤の音が出るようになるまで、丸一晩かかった。
「とりあえず、音は出るようになった。あとは、問題の5音だ。」
調律師の孫が言うと、おじいさんのほうが、震える指で鍵盤を押した。
押したのは、40番のドの音とその隣のレの音、50番のラシャープの黒鍵、56番のミの音、63番のシの音。
全て覚えてくれていた。
「ズレていたのはこの5つ。一つずつズレ方が違っていたから、一つ一ついくぞ。」
おじいさんの指示の元、孫が一つ一つ整音していく。
「このドは、もう少し高い。そう、そうだ。50番は、フェルトを1ミリ切ったほうがいいかもしれん。」
内容が専門的すぎて、田中と鈴木、孫娘にはよくわからなかったと思う。
それでも、孫娘は片時も離れず、調律を見守っていた。
そうして、日が昇りきった頃だった。
「出来ました。」
調律師の孫が、汗を拭いながら言った。
皆の視線が、一斉に孫娘に向く。
「……弾きます。」
孫娘は私の前に座ると、まずは16番のドから64番のドまでの音を順に鳴らしていった。
「……あの頃のままだ。凄い……!」
孫娘が驚愕しながらも、涙を流している。
「それじゃあ、お願いします。」
田中がそう言うと、孫娘はコクリと頷いた。
その後ろで、鈴木が何かの機械を構えている。
孫娘が弾いたのは、スーパー戦隊スゴインジャーのテーマ曲だった。
かつて、ぐずる弟に、おばあちゃんがよく弾いてあげていた、あの曲。
まるで、おばあちゃんが乗り移ったかのように、孫娘はその曲を演奏していく。
その様を、田中と鈴木、調律師の孫が固唾を飲んで、見守っている。
だが、調律師のおじいさんだけは、どこかにこやかに、それを聴いていた。
演奏は1分ほどだった。
「どうでしょうか……?」
孫娘が尋ねると、田中が電話を片手に、何やら報告を聞いている。
「……大丈夫です。解除されました。」
田中の一言に、その場に一気に安堵の空気が流れた。
鈴木はその場に座り込み、孫娘は再び涙を流し始めた。
その背中を、調律師の孫がぽんぽんと叩いている。
「よくがんばったね。あいつを救ってくれてありがとう。」
「うん……だって、あたしの弟だもん……」
詳細はわからない。
でも、孫娘が私で演奏したことで、あの弟は救われたらしい。
よかった。
皆が撤収の準備を始めた時、孫娘が田中に話しかけた。
「あの、弟と話ってできます?」
田中は一瞬逡巡した。
「……はい、わかりました。」
だが、そう頷いて、電話をかけ始めた。
それを、孫娘に渡す。
「もしもし、もう知ってると思うけど、例のバクダンは、あたしが解除したわ。」
孫娘は、先程と打って変わって、厳しい調子で言った。
「うん、うん。いや、あたし一人じゃないわ。刑事さん達も、調律師のおじいちゃんと、その孫のあんたの友達、そして、おばあちゃん。みんな、あんたを人殺しになんかしたくなかったの。それだけは、覚えておいて。」
孫娘はそう言って、電話を切った。
その目にはまた、涙が浮かんでいる。
「よろしいでしょうか?」
田中がそう言うと、孫娘は頷いて、電話を田中に返した。
その後、孫娘は時々この家に来て、私を弾いてくれるようになった。
最近は、調律師の孫も一緒に来ることが多く、たまに私の調整をしてくれる。
なんか、出逢った頃のおじいちゃんとおばあちゃんを見ているみたいだ。
今でも、私は少し音痴なままだ。
調律師の孫が、私を完璧な音痴で仕上げてくれるからだ。
でも、それが私なんだと思っている。
いつか、弟が罪を償ったら、またここに来てほしい。
そうしたら、ちょっと音痴なスゴインジャーを、孫娘が演奏してくれるはずだから。