炬燵
監修:蒼風 雨静 作:碧 銀魚
「これからお願いね。私たちもだけど、特にあの子のことをあたためてあげて」
この家に来た最初の日に、僕はそういわれたのを今でも覚えている。
電源が入れられる日が少なくなったと思ったら、突然目の前の景色が開けた。
初めて自分の置かれている状況がわかった。文字通り。
この家にやってきて以来、大きな布団をかぶせられたので、自分の下に敷かれたカーペット以外、ほぼ何も見えない日々だった。
たまに足が入ってくるので、それをあたためるのが、僕に課せられた一番の使命。
入ってくる足は、いつも二人分。
この二組の足の主が、僕のご主人だ。
たまに客なのか、違う足が入ってくる。
そのたびに、賑やかになるのだが、分厚い布団に阻まれて、外の物音や声はよく聞こえない。
そんな感じで、冬の日々は過ぎていっていた。
それが春の訪れと共に、視界が広がった。
どうやら、布団が引っぺがされ、ちゃぶ台に変身と相成ったらしい。
それに伴い、初めて二組の足の持ち主の顔をまともに見た。
一人は老年の女性。
もう一人は若い男性。
顔や雰囲気はよく似ているから、親子なのだと思う。
自分が生活のお供になった主たちのことを、一冬の時を経て、僕は初めて知った。
布団がなくなったことで、これまで秘密のベールに包まれていた、この家の状況がわかりはじめた。包まれていたのは、僕だけど。
まず、僕が置かれていたのは、一軒家の居間。
そんなに大きな家ではないようだし、そこそこ古い家みたいだけど、住人の二人がちゃんと愛着を持って、丁寧に手入れをしているらしい。
そういう、家や物を大切にする心が、僕だけでなく、その家の中にあるもの全てから感じ取れた。
居間にはテレビがあったので、二人は日に何度か僕のそばでくつろぐのが日課だった。
布団をかぶっている間は聞こえなかったが、二人はここでよく、とりとめのない会話をしていた。
それでわかってきたのだが、男性のほうはやっぱり女性の息子で、小難しい名前のところで働いているらしい。
母親のほうは病気がちで家にいることが多い。たしかに、冬の間も、母親のほうの足を見ることのほうが多かった。
どうやら息子はしばらくこの家に住んでいなかったらしく、母親が病気になったことで、この家に戻ってきて、そのタイミングで僕はここにやってきたらしい。
ちなみに以前は、父親という人もいたようなのだが、僕がこの家に来る前にいなくなったらしい。電車というものに関する仕事をしていたらしく、部屋の中にはそれと思われる写真やものも、たくさん置いてあった。
このあたりの状況がわかった頃には、もうセミの鳴き声がきこえ始めていた。
基本的に来客は少ない家みたいだけど、時々息子が同じ年きらいの女性を連れてくることはあった。
冬の間に時々見かけた、親子以外の客の足は、この女性だったらしい。
この女性のことは、『彼女』というそうだ。
母親のほうも、この彼女が来るたびに嬉しそうにしている。
このあたりの人の機微は僕にはわからないが、彼女がここに来ることは、何かいいことらしかった。
彼女は夏の間、何度かここに来て、僕がいる居間でもくつろいでいった。
彼女が来る頻度は次第に多くなり、セミの声がスズムシの声に代わった頃には、何日か泊まることも多くなってきた。
さすがの僕にも、何か大きな変化がこの家に訪れようとしているのを感じていた。
それは、ほかの家具たちや、この家自体も感じていたと思う。
そして、その日はやってきた。
僕は布団を被せられた。
おいおいおいおい、このタイミングでそれはないだろう!
と、百回くらいは思ったけど、思ったところで布団はしばらくとれない。
仕方なく、僕は戻ってきた本来の役目に専念することになった。
冬の間、あたりが見えず、会話や物音はほとんどきこえないけれど、家主の二人以外の彼女と思われる足は何度も見かけた。
しばらくは、そんな感じで、前回の冬と同じ雰囲気のまま過ぎていった。
ところが、ちらほら電源をつけられない日が出始めた頃、見知らぬ足が大量に入ってくる日があった。
足だけだから、よくわからなかったが、若い人も年寄りも、男も女も、いろんな人が入れ代わり立ち代わり、足をつっこんできていたようだ。
そんな日が数日続いた後、ぱたりと知らない足を見ることはなくなった。
入ってくるのは、いつもと同じ二人と、彼女の足だけ。
間もなく、電源が入ることはなくなり、布団が引っぺがされた。
久しぶりに居間の中を見ると、前にはなかったものが、結構増えていた。
主に増えていたのは、棚の上の写真。
きれいに着飾った息子と彼女、母親の姿がある。
そして、彼女がどこからか持ってきたものも、結構増えていた。
さらに、彼女がこの家にずっといるようになったらしい。
布団をかぶっている間に、何かとても大事な何かを、見逃したような気がする。
今ほど炬燵に生まれたことを恨めしく思ったことはない。
そう思った。
彼女は、それ以降「彼女」とは呼ばれなくなり、「妻」とか「奥さん」と呼ばれるようになった。
彼女は奥さんになってから、基本的にこの家にいるようになった。
ただ、それと入れ替わるように、母親が家にいないことが多くなった。息子と奥さんの話によると、入院というものをしているらしい。
住んでいる人が変わると、生活のリズムも大きく変わる。
寝起きする時間や食事の習慣が変わったせいか、僕の電源が入れられたり、切られたりするタイミングが今までとは変わった。
僕の周辺で特に変わったのは、奥さんが僕を使って書き物をするようになったこと。
おかげで、夏の間はほとんど置物だった僕は、活躍する機会が大きく増えた。
書いているものはその時々で違うみたいだけど、奥さんにとって僕は書き物がしやすいらしく、家にいる日はほぼ毎日僕を使ってくれた。
これはとても嬉しかった。
セミの声がスズムシに代わるころになると、母親が家にいない日がさらに増え始めた。
同時に、息子と奥さんが話し合うことも多くなった。
この家の外のことは、僕にはよくわからないのだけど、冬に続いて、また何かが変わろうとしている感じはしていた。
そして、このタイミングで布団を被せられた。
冬場になるとどうしようもないので、僕はまた入ってくる足をあたためることに専念し始めた。
相変わらず、奥さんは僕を使って書き物をしているらしく、この冬は奥さんの足を見ることが最も多かった。
対して、母親が入ってくることはまったくなく、家自体にいる気配自体がない。
見慣れた存在がいないというのは、寂しいものだなと、思った。
でも、布団を被せられてから、しばらくたったころだった。
久々に外が騒がしくなったなと思ったら、三人分の足が同時に入ってきた。
見慣れた息子と奥さん、そして久々に見る母親の足だった。
思わぬ出来事に僕はとても嬉しくなったけど、母親の足が随分細くなったことが気になった。
その日、息子と奥さんは頻繁に出たり入ったりしていたけど、母親は時々出るだけで、ほとんど一日中、ここであったまっていた。
また、ここで暮らすことになったのかな、と思っていた、その時だった。
「今までありがとね。私がいなくなっても、あの二人のことをあたためてあげてね」
不意に母親の声がきこえてきた。
どうやら、わざわざ布団に顔を近づけて、つぶやいたらしく、布団越しでも明瞭にきこえてきた。
母親が僕に話しかけてきたのは、初めてこの家に来た日以来だった。
母親は翌日の朝にもう一度入ってきたのを最後に、また姿が見えなくなった。
今回は布団が引っぺがされるのが、やけに早かった。
まだ、電源が入れられる日が続いていたのに、不意に布団をどかされ、ついでに部屋の隅のほうに移動させられた。
何事かと思っていたら、部屋の真ん中に布団が敷かれ、間もなく誰かがそこに寝かされた。
それは母親だった。
久しぶりだったので喜んだ僕だったが、どうも様子がおかしい。
寝かされた母親は、まったく動かない。
傍らにいる息子も奥さんも、とても悲しそうな顔をしている。
間もなく、あまり見慣れない人々が次々にやってきた。
みんな、悲しそうな顔をしながら、母親の前で手を合わせるのが印象的だった。
それから、一日ほど母親は寝かされていて、今度は箱のようなものに入れられて、家から運び出されていった。それに続くように、家にいたたくさんの人たちも出ていって、しばらく家には誰もいなくなった。
考えてみれば、こんなに長い間、この家に誰もいない状態はこれまでなかった。
こんなに静かで、こんなに寂しいものだったんだな……
そう思った。
何日かたつと、息子と奥さんが帰ってきた。
手には見慣れた母親が写った写真と、白い箱状の包みを持っていた。
それを部屋の隅に置かれたままの僕の上に置くと、二人は居間に腰を下ろした。
しばらく、黙ったままだったが、
「今までありがとう。母さんが逝くまでの約束だったのに、葬儀まで付き合ってもらって」
息子のほうが、そう切り出した。
「いいえ。偽りとはいえ、家族だったので。ちゃんと見送らなきゃ」
奥さんは、僕の上に乗せられた母親の写真に目をやった。
「本当にありがとう。それとすまなかった。結婚のふりなんて、お願いしてしまって」
息子が言うと、奥さんは首を横に振った。
「お母さんには私もお世話になったし、せめて心配事がない形で最期を過ごしてもらいたかったから……それは、協力してくれた親戚の方々も同じ気持ちだったと思う。だから、あなたが罪悪感に苛まれる必要はないのよ」
奥さんは悲しそうにそう言った。
そのまま、二人は黙りこんでしまう。
これは、僕にはどういうことかよくわからないけど……
奥さんは実は奥さんのふりをしていた、彼女だったということなのだろうか。
それが、炬燵である僕にはいいことなのか、悪いことなのか、わからない。
ただ、相当な覚悟を持ってやっていたことだけは、二人の顔を見ていればわかった。
それだけ、母親の最後というのは、大切だったのだと思う。
「あのさ」
不意に、息子が口を開いた。
「なに?」
「やっぱり、僕たち、家族になることはできないかな?偽りではなく、本当の……」
彼女は悲しそうに微笑むと、首を横に振った。
「あなたのことは好きよ。でも、それはダメ。私の体質のことは知ってるでしょ?多分、私はあなたの子どもを産むことはできない。それは、お母さんの望みでもなかったでしょ?」
「それは絶対じゃないだろ?確かに、できにくいとは、医者に言われているけど……それに、母さんは僕たちの演技に、多分気づいていたよ」
息子がそう言うと、彼女は目を見開いた。
「うそ、なんでそう思うの?」
息子は不意に僕のほうを見てきた。
「この炬燵、君と付き合うと話したら、急に母さんが買いたいって言いだしたんだ。ここら辺は冬でもそこまで冷えこまないから、今まで炬燵なんて買ったことなかったのに。それに、これ以外にも、暖房器具をやたら買うようになった」
「それが、どうかしたの?」
息子はそのまま目線を母親の写真に向ける。
「多分、母さんは医学的な知識とかなかったけど、君がせめて体を冷やさないように、暖房器具をたくさん買ったんじゃないかって、思ったんだ。子どもができるか、できないかとかじゃなく、僕と君が家族になってほしかったんだよ。本当の家族に……」
息子の言葉に、しばらく黙っていた彼女だったが、
「そうなのかな……」
そう言って、涙をこぼした。
多分、母親は知っていたと、僕も思う。
だから、僕にあの子……彼女のことをお願いと言っていたのだ。
「母さんは逝ってしまったけれど、僕たちのことをずっと見守ってくれるよ。だから、僕と本当の家族になってくれないか?」
息子は意を決したように、言った。
今だ!
僕は強く、思った。
「えっ、なに?」
先に驚きの声をあげたのは、彼女だった。
電源ボタンを押していないのに、僕が光りだしたからだ。
布団を被せられていないので、独特のあたたかい色の光が、二人と、部屋と、母親の写真を照らす。
結局、僕はこんなことしかできないけれど、それでも母親にお願いされたのだ。
だから、この家族に大切にされた家の一員として、できる限りのことをやるんだ。
「がんばって、あたためてあげるってさ」
息子が微笑みながら、彼女のほうを向いた。
すると、彼女も微笑み、
「……望み薄だけど、本当にいいの?」
そう返した。
「いいよ。家族が増えれば、なお嬉しいけど、それより僕は、これから先を君と一緒に過ごしていきたい」
息子は、はっきりと言い放った。
彼女は小さく息をつくと、うなずいてみせた。
どうやら、うまくいったらしい。
とりあえず言えることは、コンセントが入ったままでよかったということだ。
それから、何度か布団を被せられ、引っぺがされを繰り返した。
正式に奥さんになった彼女は、今も変わらず、頻繁に僕を使って書き物をしている。
ただ、最近はもう一人、書き物をする人が増えた。
しばらく前からこの家にいる、家族の新しい一員。
この前まで寝転がっているだけだと思ったら、布団をかけられ、引っぺがされると、這いつくばるようになった。その後、立つようになったと思ったら、また布団を被せられ、引っぺがされると、歩き回るようになっていた。
それに伴い、息子は「お父さん」と呼ばれるようになり、奥さんが「お母さん」と呼ばれるようになった。そして、今度は増えた一人が「息子」と呼ばれている。
どうも、こういう呼び名は、受け継がれていくものらしい。
そうして新しい息子は、お母さんに習い、最近は僕を使って書き物をしている。
「あっ、けしごむはそんなにゴシゴシしないの」
息子が書き物をしていると、お母さんが後ろからそう言った。
「えっ、じゃあ、どうするの?」
息子がそうきくと、お母さんは傍らに座った。
「こうして、優しくこするの。そうすれば、割れたりせずに、最後まで使えるから。」
お母さんはけしごむを手にとると、お手本を見せ始めた。
天板越しに伝わるその感触は、とても心地よかった。