204号室 (2)
骨のない脇腹に、すっと冷たい何かが入ったような気がした。振り向くと、あのキチガイ女がいた。女は真顔で錆だらけの包丁を私の脇腹に突き立てている。それから、眼球脱落してしまいそうなほど限界まで見開かれた目で、私の顔を覗き込んでいる。
私の脇腹に空いたその穴は熱くなる。またその熱さを表現するかのように、穴から血が溢れる。根源的な生命力が流れ出てしまうように、力がみるみる抜けていくのを感じた。
女は口元を歪めて笑った。私はこれまで経験したことのない痛みに、弱々しく泣き喘ぐような呻き声を漏らす。そして致命傷を負ったナメクジみたいに玄関のほうへ逃避しようとする。這う私を女は悠々と歩いて追い越し、玄関の扉を閉めて施錠する。その聞き馴染みのある鍵の音が、絶望の音のように聞こえた。
動くと錆びた包丁が内臓を掻き乱すようで痛む。これは抜いたほうがいいのか。いや、どこかで抜くと出血が酷くなると聞いたことがある。
そんなことを考えていると、女がこちらに近づき、錆びた包丁の柄に手をかける。やめてくれと声が出るより先に、女は包丁をゆっくりと引き抜く。錆びのざらざらが肉壁を削る感覚があった。決壊したダムのように、血が傷口から溢れる。あの汚い包丁だから、洗わないと破傷風まっしぐらだろう。
「大丈夫ですか!?」と玄関の扉の向こう側から声がした。その特徴的な弱々しい声は、201 号室の巨漢であるとすぐにわかった。「夜分遅くにすみません。物音がしたので、心配なのですが」
「助けてくれ!」と私は渾身の声を振り絞り叫んだ。
「管理人さんですか?やっぱりそうだ。僕には彼の呻きが聞こえたんだ!地獄耳でよかった!」
女は玄関の方に視線をやる。
「開けてください!開けて!」
巨漢が分厚い掌でドアをバンバン叩く。
「殺される!」と私は叫ぶ。
その声に誘われるように、女は私に視線を戻し、ゆっくりと近づいてくる。
重く響く衝撃音が玄関から響く。木造のアパート全体を揺らすような衝撃だった。そして、また重い衝撃音がする。
「ねえ、おデブさん、何をしているの?」と玄関の向こう側から声がする。愛らしいフランス人形のような少女の声だった。
「カレーの匂いでも部屋からしたかしら?いくらお腹がぺこぺこでも、他人の家の玄関に体当たりするのはよくないわ。お行儀が悪いわよ」
衝撃音は止まない。
「だめよ。こら。めっ、めっ、めっ」と飼い犬を諭し躾けるように少女が言う。
金具が弾ける音とともに、玄関の扉が破れる。巨漢が流れ込むように部屋に入り、扉と一緒に倒れ込んでいる。少女がその後ろに立っていて、一頻り部屋の中を観察する。
「あら、まあ、大変」とさして大変とも思ってなさそうな澄まし顔で少女が言う。
キチガイ女が力みなく脱力し、巨漢に正対する。巨漢は力み過ぎてプリンみたいにふるふる震えながら、キチガイ女に正対する。
「僕しかいないんだ」と巨漢が図体のわりに小さく呟く。「このデカい図体はなんのためにあるんだ。でも、誰も助けたことなんてない。でも、僕しかいない。でも、とても怖い。でも、この女性は僕より小さい。でも、刺されたらきっと痛い。怖くない。怖い。怖い。怖い。怖くない。怖い。怖い。怖くない。怖い。怖くない。怖くない。怖くない!」
少女がキチガイ女を真っ直ぐ指差し、「あなた地獄に落ちるわよ」と言って、下を指差す。地獄を指差しているのだろう。
「わーーーーーー!」と情けなく裏返った声をあげながら、巨漢が駆け出す。女は巨漢の腹の辺りに包丁の刃を向ける。この女はその突進を避けることはすでに諦めている。錆だらけの包丁を巨漢の急所へ突き刺すことだけに集中している。
軽自動車と正面衝突でもしたように、巨漢の体当たりにキチガイ女は吹き飛ばされる。肉やら骨がひしゃげるようなえぐい音がする。
そして、底が抜ける。巨漢の踏みしめた床が抜け、彼は女もろとも下へ落ちた。私と少女を残して。
「ほら、ご覧なさい。言わんこっちゃない」と少女は嬉々としてそう言った。




