102号室
超大型台風なんて上陸しようものなら、半壊してしまいそうな古惚けた木造アパートを母から相続した。浅草にあるその木造アパートは天狗荘という名だった。隅田川の辺りにあり、川が氾濫したら東京湾まで押し流されてしまうだろう。アパートの壁は極薄で、耳を澄ませば隣人の足音や食事音さえ聞こえてしまう。私は大家として 101 号室に住んでいるが、その壊滅的な防音性能のせいで、息を殺すように生活を営むためなんだか息苦しい。建物全体が呼吸するみたいに隙間風も酷く、時折りその音は誰かの呻き声のようにも聞こえた。
102 号室の住人から騒音の苦情を受けたのは、真夏の昼下がりだった。
「最近なんだかうるさくないですか?」と菓子折りを携えて私の部屋を訪ねた住人は言った。彼女はこの春上京したばかりの女子大生で、腋汗のせいでノースリーブトップスの腋の下辺りがほんのりと色濃くなっていた。
「いつもうるさいです」と私は答えた。
「人の声が聞こえるんです」
「隣人の会話は聞こえたりしそうですよね。この建物の建築士は、防音なんて言葉を知らなかったんでしょうね」
この女子大生の独り言も私はよく耳にする。
「いや、会話とかではなくて・・・なんて言うんだろう。唸りみたいな。悲鳴みたいな」
「呻き声みたいな?」
「そうです。どの部屋から聞こえるのかはわからないんですが」
「じゃあ、隙間風じゃないですか?立て付けが悪いのか、私も呻き声みたいな隙間風の音を聞くことはありますよ」
「いや、そうじゃなくて。そうではないんです。隙間風の音も聞こえますけど、それとは違う音なんです。隙間風のほうは、どちらかというと男が地獄で炙られる呻き声みたいな感じですけど、私が言っているのは違うんです」
こんなに長く話したのは初めてだが、独特な表現をする人なんだなと私は思った。
「具体的には?」
「その・・・女性の声だと思うんです」
「女性?」
「たぶん・・・その、女性の喘ぎ声だと思います」
彼女は紅潮した顔を隠すように恥ずかしそうに一瞬だけ俯き、恥を悟られまいと強引に顔を再び上げた。毛穴からじゅわりと汗が吹き出したようで、腋の下の辺りはさらに色濃くなっていた。
私はその騒音について調査を開始することにした。




