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月の蘇る  作者: 蜻蛉
第一話 誕生
9/50

9

 険しい山々に囲まれた渓谷、その闇の溜まりにぼうっと浮かぶ篝火に照らされた、繍軍の陣。

 千虎と彼の部隊の兵士数十人、そして朔夜は山中からそれを見下している。

 陣中は既に眠っているのだろう、見張りの兵が数人見えるだけで、人影は他に無い。

 その周囲には苴軍が息を潜めて包囲している。険しい山影と鬱蒼と茂る森林に先鋒五百余りの兵が潜む。

 彼らは合図を待っている。今、隣に居るこの戦の主将、千虎の合図を。

 朔夜も息を詰めてその時を待っている。

 後詰めの孟柤軍から報告が来る。繍軍の退却路への布陣が完了した旨を伝えられ、千虎は大きく頷いた。

 苴が勝つ。朔夜は確信を強めた。

 千虎の右手が上がる。

 弓が引き絞れられる。

 朔夜はじっと将軍に目を注いでいた。

 それに気付き、彼はふっと微笑して。

 さっと手を降ろした。

 刹那、繍軍に火矢の嵐が降り注ぐ。まるで天の星々が地上に墜ちる様に。

 燃え広がる、炎。

「敵襲!!敵襲!!」

 燃える天幕から命からがら脱出する繍兵と、完全武装した苴兵が炎と共に襲い掛かる様が、僅かに残された陸地に水が侵食するように見えた。

 繍軍の混乱は千虎の狙い通りだ。

「…こんなものか」

 感情の抜けた顔で千虎は吐き捨てた。

 眉を潜めて朔夜は彼を見る。

「いや…あまりに呆気ないのでな」

 長年睨み合ってきた敵が、一瞬にして瓦解しているのだ。この年月の意味を問いたくもなる。

「何が不満なんだよ?完璧な夜襲…あんたの戦略通りだ。千の首を手向けるんだろ?」

「…ああ」

 使者として出向き、首だけとなって帰ってきた若者への弔い合戦。

 苴軍の誰もが戦友の非業の死を悼み、敵の卑劣に怒っている。戦意は高い。

 千虎は燃え盛る炎を目に映し、朔夜にしか聞こえない声で言った。

「俺は…部下を殺して戦を始め、また人の命を奪っている…どうしようもない、悪人だ」

 朔夜は驚いた顔をしたが、すぐにその意を汲んだ。

 あの使者は――この戦を始める為の、引き金だった、と。

 この戦を幕引く為の犠牲。自ら手を下した事と変わらない。

 全て分かっていて、繍に送った。

「俺もお前と同じでな…催促が来た。いつまで繍を遊ばせる気か、と。西国がキナ臭くなってな…こっちに兵力を裂きたくないんだ」

「だからか…」

 この戦が終わればまた新たな戦が待っている。

 その繰り返し。任務に次ぐ任務が待っていた自分の様に。

 この世の中では皆、そうなのだろうか。

 安らぐ暇も無く、戦い続ける。

「馬鹿げているな」

 千虎は自嘲した。自らだけではなく、愚かな人の性に対しての自嘲の様だった。

「仲間の命捨てさせてまで…俺は、何の為に…」

「悩むなよ、そんな事」

 それは、何より考えたくはない事で。

 反射的に言っていた。耳を塞ぐ代わりに。

 自分がこれまで奪ってきた、声なき声から逃げたくて。

「朔夜」

 轟々と、火が燃えている。

 あの夜と、同じ。

「お前は何の為に戦っている?」

「…俺は…」

 その時、背後で草木を踏み荒らす音がした。

 それは雄叫びに掻き消され、次いで弓が空を切る音が混じる。

 朔夜は千虎に押され、その場に倒れ伏した。

 頭上を鏃が飛ぶ。近くで味方の兵が次々に倒れた。

「ちっ…読まれていたか」

 朔夜の身体を抑え込む千虎が舌打ちして言った。

 山の上から、百はあろうかという篝火と、具足を付けた無数の重たい足音が、彼らに迫っていた。

 部隊の殆どは谷の下で敵軍を追っている。こちらに手数は無い。

 そうしている間にも、伏兵が迫る。

「繍の狙いは千虎、あんただよ!俺を差し向けたのが良い証拠だ。お前を消せばここが手に入ると踏んでやがるんだ!」

「陣は囮だったか…やられたな」

 心底悔しそうに呻いて、千虎は朔夜に告げた。

「俺達に逃げ道は無いが…お前一人なら逃がす事も出来るだろう」

「何言って…」

 言いかけた朔夜を遮って、強く、子供に言い聞かせる様に、千虎は言った。

「お前には関係の無い戦だ。こんな所で死ぬな。迷わず行け、走れ!」

 抑えていた朔夜から身体を浮かせ、周囲に数人残った仲間に叫んだ。

「皆、ここが我らの死に場所だ!冥土の土産に繍兵の首、持てるだけ持って行け!!」

「待って!!ここであんた達が死ぬ必要は無い!!」

 千虎の声を上回る声で叫び、朔夜は兵達の動きを止めた。

「朔夜!」

 責める声音に振り向き、不敵に笑った。

「忘れたのか?俺は悪魔だ。月夜に現る、戦場の死神だ」

「待て…!」

 千虎の制止を聞かず、少年は敵に姿を曝して悠々と歩き出した。

 途中、二人並んで立ち尽くしていた苴兵の、腰に差している短刀を勝手に引き抜いて。

「ちょっと借りる。将軍を止めてくれ、頼むな!」

 驚く二人に言い置いて、さっと敵に向けて走り出した。

 黒々とした壁の様に居並ぶ人影が見る見る迫る。

 朔夜は風を切りながら両手に握る短刀を構えた。

 背中で千虎の怒鳴り声と、部下達が彼を宥め止める声を聞き、小さく笑って。

 ふっと天を仰いだ。

 銀の三日月。

「――あれは…何だ…!?」

 繍兵が悪い予感を胸にさざめき合う。

 軽装備でたった一人、百を越える敵に突っ込む――正気の沙汰ではない。

 笑う者も居た。が、殆どの者が恐怖に近い不気味さと共に、ある事を思い出していた。

「あれは、…悪魔じゃないか…!?」

「そんな馬鹿な!!月の悪魔が何故我々に刃向かう!?」

「逃げろ!!殺られるぞ!!」

 兵達は浮足立ち、整然と攻めていた繍軍は一気に混乱した。

 その混乱を切り裂く、銀の刃。

 闇雲に突き出された槍の林を下にかい潜り、低い姿勢のまま敵の足を斬り付け、その間から無防備な背中に回り込む。

 それは一瞬の早業で、槍兵にとっては悪魔が姿を消したかと息を呑んだ時には既に背中から斬られていた。

 突如目の前に現れた死神に、そこに居た者達は正体を無くし、訳の分からぬ事を叫びながら逃げようとする者、自棄になって斬り付けてくる者、その場に立ち尽くす者――皆が皆、正気では居られない。

 朔夜は逃げる者は追わず、襲って来る者の相手をしていた。が、その意思とは裏腹に、戦意を喪失している者までも見えぬ刃が留めを差す。

 月は紅く染まる。

 朔夜自身もまた、正気ではない。

 しかし狂気に身を踊らせている訳でもない。

 そこに自我は無かった。

 広大な闇の中に浮かぶ月の様に、ただそこに在って。

 周囲の者に生か死を齎すのだ。

「…あいつ…本当に…」

 引き止める部下達への抵抗も忘れて、千虎は愕然と冷酷なる月に見入っていた。

 つい今し方まで、自分と十数人残された部下で、命を賭して食い止めねばならないと考えていた敵軍が、見る間に離散してゆく。

 その中心に、己の子にしようと決めた少年が、全身を血に染めて繍兵の首を次々と撥ねている。

「まさか…」

 呟かずには居られなかった。

 己の目が、見えている現実が、信じられない。

「まさか、そんな…」

 朔夜は全ての兵に触れては居ない。

 なのに彼の周囲の兵は、次々と首を斬られてゆく。

 ――月夜の悪魔か。

 これが、悪魔の所業なのか――

 否。

 これはあの子の前で俺が誓った事だ。

 繍兵一千の首を取る、と――

「ああ…」

 将軍は知らず、呻いていた。

「悪魔を作っちまったのは、俺か…」

 迫る刃は徐々に減ってゆく。

 いつもの事だ。興に乗りそうになった時、向けられるのは敵意ではなく、恐怖に満ちた目。

 逃げられないと観念した者の、死に物狂いの攻撃。

 朔夜はひょいと軽くかわし、後ろから斬り付ける。

 息の止まる体が倒れる前に、見えぬ刃が首を胴体から切り離した。

 ――ったく…

 毎度毎度、胸糞悪いんだよ…

 首のあった場所から血を噴きながら倒れた胴を踏み付け、後ろから斬り付ける敵を振り向き、睨む。

 ひっ、と兵は高い声を漏らし、動きを凍らせた。

「…死ぬか?逃げるか?」

 紅い唇で問う。

 少年の低い声に、残っていた僅かな戦意を削がれた男は、息をつくのも忘れた様に何度も頷き、背を向けて走り出した。

 朔夜は溜息だけで男を見送った。

 この、夢から醒めた時の嫌悪感。

 自分に戻った時、己でない己の所業に毎回嫌気がさす。

 ことに、今回はやり過ぎだ。

 転がる屍の尽くに首が無い。

 また後ろから狂気の雄叫びと刃の気配がした。

 まだ残っていたか、と呆れ混じりに振り返りながら右手の短刀を投げる。

 刀は敵の首を掻き切り、血飛沫と共にそこに落ちた。

 もう、生ける者はその場に居ない。

 気怠く刀を拾いに行く。噴き上がる血を浴びながら。

 ――定めなんだ。

 逃げられないのは俺の方で。

 いっそこの屍の中に混じった方が、余程楽なのかも知れない。

 振り返ると、遠く、こちらを見詰める影があった。

 見えないが、分かる。刺さる様な視線。

 責めている。戦で敵兵を殺す、他の者ならば栄誉となる行為が、俺の場合は罪にしかならない。

 分かっている。人間の所業ではない、そこから逸脱しているから。

 この光景がそれを証明している。

「好きでやってる訳じゃないっての…」

 一人虚しく呟いて、小さく笑った。

 渇ききった自嘲。

 彼らに向かってゆっくりと歩き出す。

 影は、逃げたくても逃げられないといった感じで、じりじりと後退していた。

 その中で、微動だにしない影が、一つ。

 もう前の様な処遇は期待していない。

 やっぱり化け物扱いの方が己に似合うのだ。

 影の中の色が、徐々に判るようになった。

 兵達の顔が青ざめて引き攣っている事も、予想通りだった。

 短刀を二人の兵の前に落とす様に地面に突き刺す。

「どーも」

 気のない礼を口にして通り過ぎる。

 兵の震えの音が聞こえてきそうだった。

 震えたいのはこっちも同じだ。

 顔を見る事が出来ない。自ら近付いているのに。

 一体、どんな顔で、言葉で、態度で、迎えてくれるのか。

 怖かった。

 地面だけ見たまま足を止める。

 すぐ前に千虎が立っている。

「…首、一千には足りないけど」

 違う言い訳が口から滑り出ていた。

 その瞬間。

 強い衝撃が頬を打った。

 あまりの強さと、抗う力を失っているせいで、いとも簡単に地面に倒れる。

 仰向けになって、目を見開いて殴った人物を見上げた。

 夜明け前の空を背景に、千虎が聳え立っている。

「お前は取り返しのつかない愚行を犯した」

 抑え難い怒りを孕んだ声。

「分かっているのか…!?その力は余りに大き過ぎる…他人に見せていいものではない…俺にもだ!!」

 なんで、と。

 声にならず目で問うた。

 この姿を見せた今も、親子になれるとは思っていない。だが所詮、他人でしかないのか。

 こんな化け物を手元に置いた事、悔いているのか。

「…違う…朔夜、違うんだ…」

 言葉にならぬ問い掛けに、千虎は苦しく答えた。

「その力はあまりに…戦力として魅力的だ…。出来れば毎度、共に戦いたいくらいだ。それ故にこそ、他の誰かにそれを見られれば、お前は…」

「俺は戦の道具だ。繍に居ようと苴に居ようと同じだよ。他のものにはなれない」

 千虎の言わんとする事を先取って、朔夜はきっぱりと言った。

「あんたは軍人として俺を国に売り渡せばいい。国の為にそうするべきだろ?最高の戦利品さ」

 千虎はじっと朔夜を見下ろしていた。

 怒り、迷い、様々な考えと葛藤の末に、漸く口を開いた。

「馬鹿…そんな事するか」

 朔夜は訝しげに目を細める。

「俺は軍人である前に人間だ。お前から武器は取り上げると決めたんだ。それを曲げる事は無い。お前は不満か?」

「…化け物を飼い馴らせると思ってるのか?」

 千虎は可笑しそうな笑いを見せた。馬鹿にしながらも、優しい笑いだった。

「俺には子犬にしか見えんがな。飼い馴らせるかはともかく、懐かせる事は出来るぞ。何せ、故郷(くに)に帰れば、妻の美味い飯を食わせてやれるからな」

 朔夜は一瞬、呆気に取られていた。が、すぐに千虎と共に笑い出した。

「いいね。美味い飯とか、最高だ」

「だろう?早くたらふく食わせてやりたいよ」

 言いながら起き上がらせるべく手を伸ばしたが、少年は小さく首を横に振った。

「動けないんだ。一眠りしない事には」

 千虎は驚いて笑いを収め、朔夜を見下ろした。

「そんなに体に負担が掛かるのか…いや、そうだな」

 先程の人間離れした動きを思い出し、まだ成長し切らない身体を比べ、納得する。

 そして今度は両手を伸ばし、細い身体を抱き上げた。

「ちょ…千虎!?」

「陣まで連れて帰ってやるよ。安心して休め」

 驚き慌てる朔夜に、まさに子犬でも抱き上げているような気軽さで千虎は言った。

 息を呑んでいるのは朔夜ばかりではなく、周囲の兵もこの光景に凍りついている。

 一軍を震え上がらせ、壊滅させた悪魔を、自分達の上官は子供扱いしてまた自陣に連れ帰る気なのだ。

 恐怖以外の何物でもない。

 そんな彼らに気付き、千虎は言ってやった。

「何を強張っている。お前ら今までこいつと楽しくやってきたじゃないか。陣に帰ればまたあの笛が聴けるぞ?聴きたいだろ?」

 それでも当然、戸惑いの色を隠せない彼らに、上官は語気を強める。

「こいつはただの子供だ!何を恐れる!?」

「無理だよ」

 小さく、耳元で呟きかける声。

「誰にとっても、化け物は怖いんだ。皆あんたみたいに強くて鈍感じゃないよ」

「…俺は鈍感か」

 苦く笑って、また部下に向き直る。

「これだけは言っておく…今、見た事は他言するな。喋った者は俺の隊から外す。場合によってはそれだけで済まない。俺は、この子を一命を賭けて守る覚悟だ。それを分かって欲しい。お前達は俺の部下だ、心ある者だと信じている」

 あまりの恐怖に強張っていた彼らの顔が、その言葉にすっと真顔になった。

 日頃から共に戦う者の信頼が、千虎の言葉を届けたのだろうと、朔夜は思った。

 これで少しは安心して眠れる。

「そうだ、お前、好物は何だ?帰ったら真っ先に作って貰おう」

 のんびりとした千虎の問いに、返る言葉は無かった。

 可能なだけ首を傾けると、肩の上ですやすやと寝息を立てている。

 千虎はふっと笑い、周囲の部下に視線をくれた。

 彼らも緊張が解け、口元に微かな笑みを戻していた。



 挿絵(By みてみん)


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