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月の蘇る  作者: 蜻蛉
第五話 脱出
49/50

8

 じわじわと足元から寒気が襲ってくる。

 この光景。初めて見る訳ではない。なのに、以前とは何かが違う。

 何が違うかは説明出来ない。やり口がより残酷になったとは思えない。同じだ。ならば、何が。

 月の神。その裁きの刃。それを振るう彼の姿はあまりにも神々しく、そこに群がる人間達の命は羽虫のように呆気ない。

 怒り、だろうか。

 その刃に込められているのは。

 以前見た時は、討ってはならぬ人を討ってしまった大きな悲しみと、迷いの中で刃を振るっていた。

 ただ、活路を開く為に。自分一人ではない責任感もあったかも知れない。だとしたら心苦しい事だった。

 あの時、彼一人だったら、どんな選択をしていたか分からない。

 それでも生きたのだ。それが正しいかどうかは誰にも判らぬが、とにかく生き延びたのだ。

 そう、あの時はとにかく生きようとする人間らしい意志があった。

 それが、今はどうだ。

 あれは怒りなどではない。

 更に近寄ってきて判る。その表情に怒りなど微塵も無い。

 そこにあるのは――否、

 何も無い。

 何も感じられない。

 大切な人を取り戻す為の戦い。彼女を傷付けられた怒りが当然爆発していても良い筈なのだ。

 だが、それすら眼中に無いような――そうだ。目前の敵しか意識に無い、そんな表情、動きをしている。

 ぞっとする。

 そこに以前のような人間らしさは無かった。

 人々が彼を死神だの悪魔だのと呼ぶ事に疑問しか抱いてこなかったが、この姿を見れば頷かざるを得ない。

 人間ではない――その戦いぶりも確かにそうだが。

 何一つ、人間らしい感情が、そこには無かった。

 生きるか否かすら、問題ではないのだろう。

 刃が迫るならそのままにしている。結局『力』のお陰でそれが届く事は無いのだが。

 しかも敵の多い方へ、多い方へとその身は吸い寄せられてゆく。

 いくら今は人間離れしているとは言え、一人であの群集を相手にするのでは不利にも程があるだろうに。

 生き延びる、そういう気配が感じられない。

 ひょっとして――そう思いひやりとする。

 生きる気など、元より無いのだろうか。

 死ぬ気で――それは比喩でも何でもなく、闘っているのだろうか。

 それを止めてくれる唯一の存在の元に辿り着くまで。

 あの月に今、光は無い。

 絶望の闇の中、ただ一筋の光を求めて。

 悲鳴と物音が随分近くなってきて、意識を情況の把握に向ける。

 隠れている繁みから数歩も行かない場所で戦闘が起きている。

 その近さに思わず緊張する。指の一本も動かせない。

渦中の少年を巡って周囲には五十人近い兵が刀を向けているが、実際に彼を仕留めようとしているのはその半数だろうか。

 あとは、距離を保ったまま動けないでいる。まるでその闘いに魅入っているように。

 実際に見惚れているのかも知れない。それほどまでに少年の闘いぶりは美しい。月と言うのはその美しさの比喩でもあるのかも知れない。

 美しく、恐ろしい。

 天人の舞が如き動きで、次々と命を奪ってゆく。

 思わず体が引き寄せられた。

 もっと近くで。それを見たい。

 銀糸が散り、きらきらと耀く。刃は月光を吸う。

 白い肌は柔らかな彫像のよう、碧眼は宝玉。

 体から放たれる微細な光が軌跡を描く。

 呼吸を忘れてそれを見ていた。

 かつて何気なく会話していた見知っている少年とは、別人――否、もっと別の存在だった。

 もうここに生ける者は居ない。

 すっと、目前に刃が突き付けられた。

 斬られると思った。

 かつて、あれほど殺す訳がないと本人に言っていたのに。

 何の疑問も無く、殺されると思った。

 それ以上は何も思わなかった。

 しかし、刃は止まった。

 首筋すれすれに刀を突き付けて。

 朔夜は肩で息をしていた。

「…於…兎…?」

「朔夜…!」

 恐怖が安堵に変わったのも束の間、倒れてきた体を支えて物影に隠れた。

「ちょっと…大丈夫なの!?」

 暗くて顔色は窺えないが、触れる手に体温は無い。

 それでも辛うじて力の無い笑いが返ってきた。

「あんたは…大丈夫だったんだな…」

「え?」

「あんたの旦那に言われたよ。この手であんたを殺したって」

 言いながら刀を握る手を僅かに上げる。

「嘘だとは分かっていたけど…もしかしたらとも思ってたから」

 何も確証は無かった。

 記憶は戻ってもそこだけ抜け落ちているかも知れない。 または全くの虚妄を記憶と信じたとも限らない。

 他人に、それも敵に教えられた事の方が確かかも知れないと感じてしまう。

 それほど今の自分は不確かだ。何も信じられない。

「霜旋から話は聞いたわ。酷く荒れて…それこそ別人みたいになって帰ってきたから、何があったのかと思って」

 朔夜は片頬で笑う。

「その別人が奴の本性だ」

「そう…だったみたいね。信じられないけど」

 しかし、於兎は霜旋の態度が全て嘘だったとは思っていない。

 結婚してまで騙すとは思えないし、何より騙す為だけで於兎と付き合っていたなら今頃既に逃げていると思うのだ。

 霜旋は家に帰ってきて、全てを話した。

 謝罪こそしなかったが、根は見てきた通り誠実な人なのだと、於兎は信じる事にした。呪うべきは彼の立場だ。

 改めて於兎は横たわる朔夜の姿を見た。

 その視線に気付いて彼の方から口を開いた。

「何しに来たんだ…。殺す所だった」

「あなたが心配で駆け付けたんだけど…そうね、確かに浅はかだった」

 珍しく反省する姿を訝しげに見上げる。

 それほど、斬られかけた事が堪えたのだろう。

 それなら悪態もつけない。悪いのは自分だ。

「…無事で良かった」

 悪かったと言う代わりに本音が出た。

 於兎は頷き、訊いた。

「私の安否を構ってる場合じゃないんでしょう?あの子…早く助けてあげなきゃ。動ける?」

 朔夜は何とか動くべく全身に力を入れようとしている様だが、足が僅かに動いただけだった。

 諦めのこもった息を吐く。

「気力だけで動いてるとこを止められちまったから…」

「あら、私のせい?悪い事したわね」

「もういい…」

 天を仰ぐ。

 星の光を探す。

「…頼みがある」

 結局。

 この人には、頼ってばかりだ。

 恩を返せる日が来ない。

「この山の洞穴に梁巴の人たちが隠れてる。俺が通った所は敵の死体があるからな、それを辿れば居場所が判る」

「…恐い事言わないでよ。それで?」

 この屍に囲まれた情況で恐いも何も無い。

「安全な場所に移して欲しい…そう言いたい所だが、危険過ぎる。だから、可能ならだけど…朝になったら彼らに告げてくれ、俺達を待たずに逃げろ、と」

「それって…」

「きっと俺は梁巴へ帰れない」

 於兎は何か言いたげに口を開いたが、何も言わないまま、閉じた。

 単純に励ました所で――この身体でこれ以上動き、闘えと言うのは酷だった。

 己の状態は自身が一番判っている筈だ。

「それなら…どうする気…?」

 梁巴に帰る事は叶わなくとも、何か勝算はあるのか。

「なるようにしかならないだろ」

 希望などとうに潰えていた。

「そんな…諦めるの?華耶って子は!?どうするの」

 唇を噛んで。

 言葉を探す。怒りも、悔しさも、悲しみも、何もかもがない交ぜになって、表しようが無い。

「…もう、遅い」

 残ったのは、虚しさだけ。

「俺がここまで勝手な事をすれば、奴は…。生きてても、もう…俺には何も出来ない」

「そんな…」

「行ってくれ、於兎。せめて、梁巴の仲間を…頼む」

 於兎はじっと朔夜の碧の眼を見つめて。

 最後に、訊いた。

「また、会える?」

 その、素朴過ぎる問いの切実さに、朔夜は答えるべき言葉を失った。

 どうして、この人は。

 いつも、生きる望みを棄てた時にこうして拾い直させようとするのだろう。

 また会ったところで良い事など無い。危険が増すだけ。十分解っただろうに。

「於兎」

 もし、運命の女神が微笑むのなら。

「元気でな」

 青空の下で、またこの人に遭いたい。

「…うん」

 於兎は立ち上がった。

 少し歩き、振り返って。

「心配無いよ。神様はちゃんと見ていて下さってるから」

「……そっか」

 去って行く背中を見送りながら。

 言葉の意味を考えていた。

 神様は、居ない。

 居たとしても、悪魔の味方はしないだろう。

 だけど、彼女の神様を否定したくはなかった。

 人々が何を信じるかは、自由だ。

 信じられてきた自分は、この通り無力なのだが。

 でも、出来る限り応えたい。

 この手が、この足が、動けば。

――華耶。

 今、そこに行く。

 今、そこに。

「っ…」

 動け。動け。動け…

 華耶の所に行くんだ。

 待っててと言ったから。約束を果たしに。

 生も死も越えて、彼女の元へ。

「っ…動けっ…!」

 痺れの向こうで感触があった。

 足が曲がる。指が地面を掴む。

 上体を起こす。近くの木に手をかけ、立ち上がる。

 数時間前に出た裏門が見える。その向こうに己を探す敵も。

 その敵に姿を露わにすべく朔夜は繁みから歩み出た。

 足元は覚束ない。支えになるものを触りながら歩く。

 その姿を敵が見つけた。

 すぐには手を出さない。様子を窺っている。

 どうやら先程の惨状が新手の戦意をも挫いている様だ。

「…おい」

 朔夜は敵兵に声を掛けた。

「死にたくないなら桓梠の所へ連れて行け」

 そこに、華耶が居る。

「逆だな」

 背後で聞き慣れた――あまりに聞き慣れた、再び聞きたくもなかった声がした。

「大人しく主人の元に行かねば、死ぬ事になるのはお前だ」

 影。

 かつて己に斬られ、顔を失った男。

「やっぱりお前が居たか…」

 潅で傷を負いながら逃走し、そのままどこかへ行ったか、ひょっとしたら生きていないのではないかと甘い期待をしていたが。

 娃壬の一件でその期待は諦めざるを得なかった。あの事件の裏に影の姿を見た。

 山中で意識を失っている所を拾われた、そこから既にこの男の仕組んだ罠だったのだろう。

 ずっと尾けられていた。潅を出た時から。

「当然だろう?俺はお前の影だ。まだ人間だった俺をお前が殺し損ねた、あの夜から」

 脳裏にちらつく仮面の下の顔と、あの夜の記憶。

 おかしくなりそうな理性を落ち着かせようと、眼を閉じて深く息を吐き、思考を別の方向に向けた。

「桓梠の所まで案内してくれるのか?」

「無論。貴様に覚悟があるのなら」

 覚悟――死へのそれだろう。

「ああ。当然だ。連れて行け」

 影は前に出、鼻で笑う様に一瞥し、一言低く告げた。

「来い」

 朔夜は影に従って歩き出した。

 恐らくこの先は死が待っている。それが蘇生可能な死か、徹底的な永遠の死なのかは判らないが、桓梠は悪魔を殺す気だろう。

 何が待っていようと、朔夜にはもうどうでも良かった。

 気がかりはただ一つ。

 華耶は、まだ待っていてくれるだろうか。

 生きていて欲しい。だがここまで来るのに時間をかけ過ぎた。

 最悪でも、せめて、冥府で謝りたい。

 否、そこまで来たらもう、見限ってくれているだろう。顔も見たくない、と。

 それでも、願わくば。

 一目、一言、それだけでも。

 だから半端な死は要らない。

 完全なる死を願って、朔夜は宮殿へと足を踏み入れた。

 日々、憎悪を持って見上げていた壁の内側。初めて見る世界。

 外側が奴隷と下級兵士の居場所なら、そこは正反対の立場の者――奴隷を使役する貴族と軍幹部の場所。

 豪奢な装飾がいちいち施されている。それは見る者を圧倒し、惹き付け、優越感や羨望を生み出すのだろうが、今の朔夜にはどうでも良かった。

 この回廊は死出の道。そう信じたかった。

 その道が尽きる。影が一つの扉を開く。

「お前が探しているのは桓梠様ではなく、あの女だろう?」

 扉の前で影は言った。

 朔夜は足を止める。あと一歩進めば部屋の中が見えるのだが。

「…居るのか?」

 俺がしたいのは桓梠への復讐だ、奴は何処だ――そう言う筈だったのに、口から出たのは違う問いだった。

 その必死さを、影は鼻で笑う。

「さて、これからがお楽しみだ。これをどうする?」

 影が目を遣った扉の先。

 見たら取り返しのつかない事になる――その予感が朔夜を躊躇させた。

 しかし、足は、前に踏み出した。そうするしか無かった。

 そして見えた部屋の中――

 叫ぶ事はおろか、咄嗟に声も出なかった。

 窓の向こうに、宙吊りにされた華耶が居た。


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