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燕の子  作者: 鏑木桃音
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晋の北伐


 沖は立派な大司馬になろうと日々努力した。師匠と仰いだのは太傳の評である。太傳は皇帝の補佐役のことである。今でこそ好々爺の顔をしているが、評は先先帝の弟であり、先先帝、先帝の時代に大いに活躍した歴戦の強者(つわもの)である。沖が頼るのは当然である。

 沖は国の兵力を把握するために、評から戸籍を見せてもらい、城の武具の備えを見せてもらって、国の地図を見せてもらった。地図を見れば改めて燕がいかに大きな国であるか分かり、身が引き締まる思いがした。城内だけで既に怖気づいている沖の様子に、評は笑った。

「沖や、大司馬は首都防衛だけではなく国防を担うのだから、地方の把握も重要であるぞ。」

「はい、お(じじ)様!」

評は沖が可愛くて仕方がなかった。

 国土の特徴を把握しておくことや、兵を拠出する地方長官との指揮命令系統を円滑にしておくことも大切だ。沖は各州を視察することにした。沖の隣にはいつも評がいた。

 

――― 過ちて改めざる、是を過ちと謂う。

 沖の大司馬就任は過ちである。この過ちはあまりに大きく、いくら努力しても贖えるものではなかった。過ちは過ちを呼んだ。

 沖は、そこにいれば誰もがその存在に気が付く、目鼻立ちの整った少年に育った。周りの人たちから沢山愛され、物質的に不足もなく、人を疑うことを知らず、そんな環境でのみ生育する透き通った心のような得難い美しさがあった。しかも仕事に熱意があり将来有望そうに見える。実のところがどうあれ、見かけは皇弟に相応しい特別感を備えていた。

 そしてその傍らには常に評がいた。沖の地方視察は、将来の大宰相が評の手中にあることを国の隅々まで宣伝して回ったようなものであった。国中から評に賄賂が贈られた。評は来るものは拒まなかった。歴戦の強者は耄碌爺(もうろくじじい)に成り下がった。

 荊州に視察に行ったときに、垂が沖一人を湖畔の散歩に連れ出した。

馬から降りると、垂は言った。「最近、評叔父はいかがされておいでだろうか。」

「?」いかがって、ついさっきまで一緒にいたではないか、沖は首を傾げる。婉曲表現では伝わらなかった。

「こんな辺境の地でも、都の噂は流れてくるものだ。評叔父がお前を利用して私腹を肥やしているという噂がある。」

「利用?・・・沖がお(じじ)様に仕事を教わっているのです。利用しているのは沖でございます。」

(すなお)で謙虚なのは美徳であるが、「沖、お前は将来太宰になるだろう。お前を意のままに操れる者がいれば、それはその者が太宰になったと同じことだ。世間は叔父がそれだと思っている。だから多くの者が叔父に金品を贈って取り入るのだ。」

「それはただの噂でございましょう。お爺様は立派な方で、金品で釣られるような人ではありません。」沖の評に対する信頼は厚い。

人を信じることは美徳であるが、「賄賂で政が動いていると疑われること自体、人々の政治不信を招くのだ。お前は自分の立場をよく理解し、人をよく観察し、よろしくない者は遠ざけなければならない。上に立つ者は人を信じ過ぎてはいけないのだよ。」

子供には、かなり難易度の高い要求である。沖は黙り込んだ。

 戻ってきた沖が難しい顔をしているので評は心配して尋ねた。

「沖や、何か困ったことでもあるのかね?」

さすがに、お爺様は賄賂を貰っているのですかとは言えないので、「お爺様以外で軍事にお詳しい方はどなたでしょうか?」と尋ねてみた。

後ろ暗い評はたちどころに勘付いた。垂への憎みを隠しつつ、沖の疑念を笑い飛ばす。「吾は三代の皇帝に仕える忠臣じゃぞ。吾に及ぶものなどおるはずがないわい。」

 そう、皇帝一家の評に対する信頼は厚い。その点を差し置いても、評ほど軍事に精通している者は他にはいない。評を遠ざけるには沖が早く一人前になるしかないのだ。垂の言葉は心の端に引っかかってはいるが、現状を変えることはできなかった。

 可愛らしい大司馬とそれを操る耄碌爺の噂話は、国境近くまで流れているのだから、隣の国にも当然伝わっていた。

 晋が三度目の北伐を決定した。

 五万の兵の指揮を執ったのは、晋の大司馬で平北将軍の桓温(かんおん)である。桓温は晋随一の政治家であり、戦経験の豊富な壮年の将である。対する燕の大司馬は、生まれて初めて戦を経験する沖である。

「沖、よく見ておけよ!」評は実質的に全軍の指揮を執った。

 桓温は長江から海へ出て黄河に入り溯上し鄴を攻める作戦を立てた。

晋は長江の河口付近から船に乗り、海に出て、黄河に侵入した。燕からすれば敵の大軍が突如として黄河に現れた格好となった。宮城に動揺が走った。

しかし歴戦の強者は落ち着いている。評は兵の招集を指示して、御前で将軍たちと作戦会議を始める。地図を見れば黄河は鄴の目と鼻の先を通っている。

ある将が言った。「黄河は今、水が干上がり、船で進むには限界があります。」

「水軍の用意には時間がかかる。天恵じゃ。」

「黄河の南と北、どちらに上陸するでしょうか。」

「何を抜けたことを申すか。南に上陸させるのだ、今すぐ黄河に向かい、北岸を押さえて南岸で晋を迎え討て。」

さすが歴戦の強者、瞬く間に方針を決めた。しかし咄嗟に出せる兵数は首都防衛軍の二万のみであった。宮城は丸裸になるがやむを得なかった。宮城に次々と早馬が入ってくる。宮城からも各地に兵の招集を求める使者が走った。

 評の指示通り、燕軍と晋軍は黄河の南岸でぶつかった。兵力差は倍以上ある。やる気に満ちた晋に不意を突かれ動揺している燕は負け続けた。評は防衛線を北岸に下げた。しかしそこでも負けた。この敗色を挽回するには兵力差をどうにかせねばならなかった。それには援軍しかない。宮城から各地に催促の使者を何度も飛ばす。防衛軍は援軍到着まで持ちこたえねばならない。鄴で立て籠るという選択肢もあったが、評は鄴を捨て龍城まで退避することを選んだ。龍城は第二首都であり、それなりの防衛軍を置いていた。

 伝令を受け取った垂は、軍を率いて鄴に急行した。そして宮城に駆け込むと、逃げ出そうとしている皇帝を掴まえて言った。

「お待ちください!どうか、洛陽東方の虎牢以西の割譲を条件に秦に援軍を要請して下さい。そうすれば必ずや私が晋を討ち払ってお見せします。先帝の定めた都を容易く捨ててはなりません!」

宮城内は大いに割れた。皇帝は辺りを見渡して、やがて口を開く。

「あい、わかった。敵前逃亡は私の好むところではありません。これより垂を征討将軍に任じ、軍の全権を与えます。」

皇帝はどこか吹っ切れた顔をしていた。皇帝が鄴に留まりたいと思っても皇太后や評が遷都を決めればそれに従うしかなかった。反抗するだけの実権がないからだ。垂は自分の思いを叶えてくれる。暐は初めて母に背いた。


陛下ちゃんに反抗期到来か。陛下ちゃんともなると反抗期で国が傾きます。

細かい地名は省略です。昔の地名と今の地名が相違していることもあり、追いかけるのが大変でしかも言われてもわからないでしょ。むしろ邪魔かなと判断しました。

諸々省略していますが、省略したものの一つに陛下ちゃんの庶兄があります。北伐防衛軍の当初の現場指揮者は庶兄の臧です。

五胡十六国時代って殺伐としていて殺伐としているんですけども、燕の皇帝一家には愛を感じます。お母ちゃんが怖いのも愛があるからだと思います。兄弟愛が強いのは鮮卑の特徴かもしれません。秦はチベット系遊牧民ですが、なんかちょっと違います。これについては追々触れます。元はどうかというと兄弟を重用していますが、もっと臣下として扱っている印象を受けます。個人的な印象です。

 沖は美少年とされていますが、実は内心疑ってます。日本人に特によく似ていると言われている地域の人なわけですから。検索してもイケメンがでてこない。

鮮卑は隋と唐と中国全土を支配して中国に完全に溶け込みました。


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