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燕の子  作者: 鏑木桃音
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灞橋の戦い


「これより長安を攻める!」怒った沖は言った。

 驪山から長安に行くには()河と産河を渡る。長安は渭河の南岸にあるが、灞河は渭河の支流で北から南に流れる。産河は灞河の支流になる。灞産の間は南に小高い丘が迫っていて逃げ場がない。灞河にかかる灞橋は石橋で長安の最重要要衝である。函谷関から長安に入るには必ずこの橋を渡らなければならない。驪山から出た燕は、灞橋の向こう側に三万の秦軍が待ち受けているのを見た。河間公苻琳の軍である。

 沖は、王族の永で上手くいったので、今度は王族で右僕射の憲に橋の攻略を任せた。橋の攻略は難しいが、方法は弓を使って敵を怯ませた後、騎馬で切り込むと決まっている。

 秦軍、燕軍は互いに弓矢の応酬をしたが、弓矢の雨の中、先に敵陣を突いたのは秦軍の方だった。敵は数千の騎兵で万の敵の懐に切り込んで来た。敵騎は昨日燕を急襲した軍と同じ旗を掲げていた。速い!

「後軍後退!」沖は叫んだ。

後軍は欣怡率いる女子である。沖は男子で構成された本隊の最後尾で後軍の前にいた。

敵は沖を目掛けてやって来る。敵の勢いに圧倒されて燕兵は自ら道を開けるかのように侵攻を許した。

後方で欣怡が叫ぶ「後退、後退、急げ!」

女子の高い声はよく通った。しかし、驪山から灞橋までは平坦で、背の低い女子の後軍からは前で何が起きているのかわからない。急に後退と言われて戸惑った。沖は後軍が邪魔で身動きが取れなくなった。

「平陽軍、全力で受ける!」沖は叫んだ。

後軍を巻き込むわけにいかない。沖たちは敵騎を受け止めた。

平陽軍はじりじりと下がった。

欣怡は後軍を守るために戦う。「後軍、驪山まで後退せよ!」

「欣怡危ない!」蒲子景が欣怡を助けた。

欣怡は蒲子景を叱り飛ばす。「馬っ鹿じゃないの!交戦中に他人のこと助けるとか余裕か?足元救われるぞ!」

「他人ってことないだろう?俺の愛妻なんだから!男はみんなこういう気持ちで戦ってんの!」

「うっわ、ドン引きなんですけど。」言いながらフフッと笑った。

 ピ―――!

突然敵将が指笛を吹いた。敵騎は一斉に方向を変え退却を始めた。燕軍が包囲して退路が無くなりかけていた。敵騎は、攻めて来た時と同様、あっという間に退散した。

 不意を突かれただけだ。沖は軍を立て直すと、先鋒を高蓋に代えて、もう一度橋を攻めた。

しかし、また同じ旗印の騎馬隊に攻め込まれた。まぐれではない。この騎馬隊はすごい。

敵将は沖目掛けて襲いかかった。陛下くらいの年頃の氐族で、その刃は鋭く何度も沖に届きそうになった。

気持ちで負けてはいけない。「平陽軍前へ!」沖は叫んだ。

「これ以上行かせるものか!」沖に応えるように敵将が言った。

沖は敵将の繰り出した矛を振り払って聞いた。「名は?」

「楊定。」

沖も名乗ろうとしたが、楊定は戟を構え直すと言った。

「鳳雛、禽獣の相手は私で十分!」

――― 鳳雛。

阿房宮を出て以来呼ばれたことがなかった名。とっくの昔に諦めて受け入れて慣れたはずの過去が、鮮やかに蘇った。


 耳の奥で銅鑼が鳴る。

「開けて!開けてよ!」子供の声が脳裏に響く。

「やぁ鳳雛、今日も元気そうだね。さぁ飯にしよう。」秦王の声がする。

「陛下、陛下、助けて!」

「お前の陛下は来ない。新興侯の命を助ける代わりに約束したんじゃないか。あやつの全ては私のものだ。だからお前も私のもの。お前がこうして泣いているのも全ては陛下のためなのだ。」


――― 私は鳳雛。いつまで経っても逃れられない。


楊定は戟を繰り出した。

肉を貫く音がした。

「殿下、しっかりしろ!」蒲子景が叱咤した。

沖は我に返る。「・・・蒲子景。」

蒲子景がゆっくりと崩れ落ちた。

「蒲子景!」

ピ―――!楊定軍は退却した。


「済まない。」沖は欣怡に言った。

「戦に不向きな人でしたから。」欣怡は涙をこらえて、ほんの少しだけ微笑んでみせた。


 燕は軍議を開いた。

「いかにして灞橋を攻略するかは、いかにして楊定を攻略するかと同義だ。」沖は言った。

「臣に策がございます。」永が言った。

 夜が明ける。沖はまた高蓋を前鋒にして橋を攻めた。やはり楊定の騎兵が駆けてきた。相変わらず威勢がいい。今度は本当に燕から道を開けた。沖は息を凝らせて成り行きを見守る。騎兵は平陽軍のすぐ手前で次々と転んだ。

「よっし!」

燕は、夜の間に本営の周りと楊定の進路に沢山の落とし穴を作っておいた。

「弓を放て!」

身動きの取れなくなった騎馬隊に矢の雨を降らせた。

楊定は捕らえ損なったが、騎馬隊はほとんど壊滅した。

 楊定の騎馬隊のない秦軍は高蓋で十分だった。燕は橋を渡った。灞産の間で、馬追い羊追いの要領で秦軍を取り囲む。秦軍は産河に掛かる橋に押し寄せた。燕は全方位から矢を射掛けた。

苻琳が流れ矢に当たって死んだ。燕は勝った。

産河を渡ると沖たちを阻むものは何もない。

目の前に、宝石のような長安城がある。この世の精華を集めたような阿房宮がある。

蒲阪関、函谷関、泓、鄭西、驪山ここまでくるのにどれだけの犠牲を払ったことか。

陛下、やっとたどり着いたよ。


楊定は仇池国の宗室楊佛奴の子。苻堅の娘婿。

太安元年(385年)後仇池国を建国し、前秦の柵封を受ける。

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