姚萇
二羽の燕の兄弟は、鈴なりになって広場を取り囲んでいる民衆に向けて語り掛ける。燕の戦士というのは故郷に帰りたい燕の家族の集りなのだ。
泓「なぁみんな、鄴に帰りたくても鄴には苻丕がいる。」
沖「ねぇみんな、私たちの王は長安に囚われている。秦王に鄴も王もどちらも返してくれるようお願いに行こう!」
泓「我らは既に烏を一羽退治している。秦王恐れるに足らず!」
沖「秦王、何するものぞ!」
燕たちは歓声を上げた。歓声がやまびことなって返って来てみんなは更に勢いづいた。
燕は一斉に函谷関を飛び立った。
大将を失った苻叡の軍は統率を失い、兵士はあるいは逃走し、あるいは後詰の軍へ落ち延びた。後詰をしていた姚萇の軍は未だ華澤(華陰の西)にいた。征討軍が華澤まで来た時、姚萇は苻叡に言ったのだ。
「燕人は故郷に帰りたいのです。関を出て行くようにお命じなさいませ。遮るべきではありません。」
戦わずして勝つ。これが最善だ。
しかし符叡は激怒した。「誰が帰っていいと言った!忘恩の徒を見逃せるか!仮にも私は都督中外諸軍事だ。関から出ればそれで終いというわけにいくか!」
姚萇と竇衝はため息を吐いた。秦王は既に関東に固執しない意思を非公式に明らかにしていた。今は関中を安定させることが最優先の時なのだ。関東に帰りたい燕人は帰るに任せた方が関中は安定する。苻叡は大局を見ていない。
姚萇たちはなんだかんだと理由をつけて華澤に留まった。函谷関は攻めるのが難しい場所なので、そのうち燕人は関東に消え、苻叡も諦めて帰って来るだろうと高を括っていた。
突然、苻叡の兵が無統制な状態でバラバラと帰ってきた。姚萇は驚いて、兵士を摑まえ何があったか問うた。
「大将軍が敵に捕らえられました。」兵士は動揺した様子で答えた。
「なんと!?生きておられるのか?」姚萇は兵士の胸倉を掴んだ。
「わ、わかりません!」
姚萇は兵士を突き飛ばすと、軍中に大号令をかけ函谷関へ向かった。世話の焼ける大将軍を救出するのだ。
燕人が潼関に辿り着くのが速いか、姚萇が立ちはだかるのが速いか。
険阻な山道を行く燕人の方が分が悪かった。函谷関の出口には姚萇が待ち構えていた。泓と沖は苻叡とさほど変わらない状況に陥った。
泓は燕人に向かって大声で言った。「相手は大将を失った敗軍だ。一歩も退くことは許さない!退く者、立ち止まる者、逃亡する者は斬る!」
泓は高蓋を前鋒にした。燕の大群は狭い山道から次々と湧いて出た。秦軍がどれだけ矢を射ても尽きることが無い。射抜かれた前を行く兵士を盾にして後ろの兵士が数歩進み、その兵士が撃たれるとその間に別の兵士が前進する。死体の山を作りながら燕は着実に平地に侵入した。弓矢から剣戟による戦いになると泓も沖も自ら戦場に出た。
「一歩も退くな!退く者は斬る!」泓は叫んだ。
「みんなで力を合わせれば必ず勝てる。進め!」沖も叫んだ。
無限に湧いてくる燕兵に、戦いに前向きな泓と沖と後ろ向きな姚萇、戦闘は次第に燕の優勢に転じた。
夜になると、燕は戦場の真ん中に符叡の棺を置いた。
早朝、秦軍は苻叡の冑の載った棺を見つけた。姚萇は急ぎ回収し蓋を開けてみると、苻叡が変わり果てた姿で手紙を握らされていた。
姚萇の腹がキリキリと痛んだ。公子を死なせたとなれば万死に値する。どうしたら死罪を免れるだろうか。
報告すれば秦王は激怒すること間違いない。しかしいつまでも隠しておけるものではない。報告が遅れれば遅れるほどバレた時の印象は悪くなる。
でも自分はちゃんと苻叡に深追いすべきではないと忠告したではないか。それなのにこの馬鹿は言うことを聞かずに追っていったのだ。そうだ。私は悪くない!
とりあえずありのままの事情を説明してみよう。
姚萇は戦線を華澤まで下げ、自軍の長史を苻叡の棺とともに長安に派遣した。
数日のうちに、長史とともに長安に行った部下数名が馬を駆って戻ってきた。
「長史殿が処刑されました!」戻ってきた部下は蒼白な顔で姚萇に言った。
「事情はきちんとご説明差し上げたのか。」姚萇は声を荒げた。
「もちろんです。主上は烈火のごとくお怒りです!」部下の震える声が姚萇の置かれた切羽詰まった状況を物語っていた。
姚萇の目の前が一瞬真っ暗になった。自分も処刑だ。
歴戦の将はすぐに決断した。姚萇は自軍を連れて戦線を離脱すると北に走った。長安の北部から西部にかけては羌族の本拠地である。姚萇は北地郡で秦に反旗を翻した。華陰、北地、新平、安定に住む羌族・胡族十余万人が姚萇に付いた。
姚萇は羌族の長であり、秦の龍驤将軍の地位にあった。大敗した対晋戦に出発する前に、秦王は姚萇にこの位を与えて言った。「過去、朕はこの位に就いて大業を成した。この位は簡単に他人に与えるものではない。汝、努力せよ。」
まるで、この位に就いた者は次に天子になるとでも言っているようだ。これを聞いて秦王を諫めたのが、竇衝だった。
姚萇が謀反を起こすに至り、姚萇も秦王も竇衝も皆思っただろう。天は人の行いを見ている。運命や天の意思は確かに存在する。
こうして華澤はあっさりと燕人の手に落ちた。
姚萇が反旗を翻したことで、秦は関中で北と東に反乱軍を抱えることになりました。姚萇は沖と違って犯意がなかったんだよ。運命としか言いようがない。
危うい。ちょっとぼーとしていると、雀の兄弟になりそう。