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燕の子  作者: 鏑木桃音
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みんなで帰ろう!

 沖宛ての暐の手紙には、秦王を討ち我等兄弟の雪辱を果たせと書いてある。

目を閉じると、長安の屋敷の亭台で何度も同じことを言われた記憶が蘇った。陛下は心からそうすることを望んでいる。でも。

沖は随に言った。「私が秦王を討とうとすれば陛下はどうなる?陛下を取り戻して鄴に帰る。私の恥辱を雪ぐためならそれで十分だ。」

陛下は沖にとってこの世で一番大切な人。父に等しい。陛下を失うくらいなら、祖廟の前で自裁するほうが余程マシに思えた。


 秦王が十余万の兵を率いて函谷関近くまで来たときに、垂が秦王に言った。

「北の田舎人が天王の兵が不利になったと聞いて扇動しあっています。臣は詔書を奉じてこれを鎮め、そのついでに祖先の墓参りをしたいと思います。どうかお許しください。」

秦王は、垂がもう関中には戻ってこない予感がしたがこれを許した。それほどまでに今回の垂の助けは有難かった。

 こうして垂は関東に放たれた。垂は一月もせず燕王を名乗り、秦王の子、苻()の治める洛陽を攻め、半年後には苻丕の治める鄴を残して冀州のほぼすべてを手中に納めることになる。


 淮南から兵士が戻ってくる前に、沖は陳文に近々兵を起こすことを打ち明けた。

その夜、陳文が羊肉と酒を持って宿舎にやってきた。夏なら星明りの下で一杯酌み交わしながら話をするのだが、冬は凍てつくように寒く、かといって、昼間に下吏のいる場所で大っぴらにする話でもない。陳文はどうしても話がしたくて、初めて沖の私的領域に押し掛けた。通された部屋には蝋燭が灯り床暖房が温かかった。陳文とは住む世界が違がった。あるべき場所に帰りたいのは当然のことだと思う。

「太守様が赴任していらした時のことを思い出します。この部屋にはくべる薪も置かず、一食分の食事すら用意せず、下官(わたくし)等はまったく酷かった。でもあなたも強情で、未だに太守室のボロ机を使っておられる。」

「仕方がないよ。私は亡国の胡族の子供で、しかも・・・」未だに口に出せない。一生出せないままだと思う。

「この地の支配者はコロコロと変わり、みな搾取だけして去って行きます。郡民の生活をより良くしようとして下さったのはあなたくらいです。」

「秦のために働く気がしなかっただけなんだけどね。」笑った。

いつか決起する日のために穀物生産量を上げようとしたのだから、純粋に民生の安定を図っていたわけではない。

「そんな太守様だからこそお願いがあります。」陳文は改まった。

沖は怪訝そうに陳文を見る。

「備蓄した食糧や馬や牛、必要な物資はすべて持っていってください。ですがどうか、平陽の民は連れて行かないでください。」その場合、沖の兵力が厳しいことになることは承知の上だ。

「燕人は知らない土地に無理やり連れてこられ、関中の人々は氐族も漢族も私たちを白虜と蔑んだ。燕人が時勢を得たならそれらを使うのは自然の摂理だと思うが。」沖の声には恨みが籠っていた。

「あなたはよい太守でした。下官は愚かでした。ですが、あなた方が故郷に帰りたいように私たちもずっとここで生きていきたいのです。どうか私たちに憐憫の情をお掛けくださいますようお願い申し上げます。」陳文は深々と頭を垂れた。

陳文は、自分の天寿を全うできればそれでいい人間だと思っていた。意外なことだ。

もう鄴で過ごした年月と同じだけの年月を平陽で過ごした。この土地の人々に愛着がある。沖はその条件をのんだ。

「これは私たちの誇りを取り戻す戦いだものね。」


 秦王が長安に入り、徴兵されていた兵士が雍州に帰ってきた。兵はほとんど欠けていなかった。蒲阪鎮守の苻叡は長安にいる。雍州から出るのに苻叡がいない今は絶好のチャンスだ。とうとう平陽から飛び立つ時が来た。

 沖は燕人全員を丸ごと連れて行かなければならない。兵士は1万余。大変心もとない。河東郡の燕人にもこっそり決起を呼びかけたが集まって2万ほどだ。人数が少ないのがバレないように平陽中の古着を集めて白い軍旗をたくさん作った。遠目から見れば古着だとはわからない。

燕人がこそこそと忙しなく出発の準備をしていると、欣怡と蒲子景、楊一、楊両、絳邑良が宿舎にやってきた。

「お兄様、奴婢たちも連れていってください。」

「これは燕人の誇りを取り戻す戦いなんだ。お前たちには関係ないよ。」

「俺たちは太守の弟分と妹分なんだから、関係ないってことはないだろう。」蒲子景が言った。

「有難う。心強いよ。」心がぽっと温かくなった。


 玉の墓に行く。

「玉。今があるのは玉のおかげだ。きっと迎えに来るよ。」

沖は自分のベルトを外すと徭につけた。沖が玉に頼るのは今日で終わりだ。これからは自分が頑張る番だ。

「お父様、ぶかぶか。」徭がずり落ちるベルトを引っ張って見せた。沖はベルトを外して徭の肩に襷掛けに掛け直した。

「今度弓や剣を背負えるようにしてあげよう。徭がいるからお父様は心置きなく戦える。生まれてきてくれてありがとう。」

徭は何のことだかわからない。とりあえず大好きな父の首に纏わりついた。沖も徭をぎゅっと抱きしめる。徭の肩越しに翡翠を見上げる。

「翡翠さん、言えなくなるといけないので言っておきます。今までありがとう。それから、これからも宜しくお願いします。」恥ずかしそうに感謝を伝えた。

翡翠は少し咎めるように言った。「そのようなことを仰っては、不吉ではございませんか。」

戦に勝つ者は、もっと貪欲で強引で生命力にあふれた人だと思う。

「そうかな?じゃぁ忘れてください。」沖はふんわりと笑った。

「随、兵は私が指揮するから、随は徭と翡翠さんとみんなの家族を守るように。」

本当言うと随も沖もかなり不安だ。秦王に勝っているのは沖の若さと兵士の士気の高さくらいだ。ならばせめて、やる気を挫いてはいけない。

「呉王が関東にいるということは、秦王は関東の兵を失ったに等しいです。この時機を逸してはいけません。天運は我等に味方しています。」

沖は頷いた。


 早朝、まだ薄暗い中、沖は白金色の甲冑を身に着け、集まった燕人の前に立つ。沖の姿は凛々しくて人々の期待は否が応でも高まった。

「これから我らの皇帝陛下をお迎えに長安へ行く。その後はみんなで鄴に帰ろう!」

燕人はその言葉をどれほど待っていたことか。人々は涙を浮かべて歓喜した。歩騎1万余、食糧や子供を牛車に載せて、沖たちは平陽の人々に手を振った。

 凄惨な旅はどことなく明るく始まった。

 

やっぱり、垂は好きになれない。昔と今は価値観が違うし、中国と日本でも違うけど。

ヒスイの戦いで息子の一人農が垂に言います。未熟な桃を無理して捥ぐのと、熟して勝手に落ちるのを取るのでは難易も美悪も大きく違うと。未熟な桃をとるのは苻堅を殺すこと、熟した桃は関東で鮮卑族を糾合して燕の地を取ることを指します。結局苻睴と苻丕を攻めているんですが、これは熟した桃を拾ったと言いますか。美悪はさほど変わりません。寧ろ苻堅を殺して帝位を暐に返したら美しかったでしょう。個人的感想です。

 沖ちゃんはみんなを連れて行ったと思います。遊牧民の移動だ。晋書に「沖乃令婦人乘牛馬為眾」とあるのです。沖は女性を牛馬に乗せて兵にした。鮮卑の女性は弓馬くらいできるでしょうから特別酷いことをしているとは思いません。ただ兵力不足がうかがえます。大丈夫か沖ちゃん!?

裏切り者の垂と比べて、蜀漢の劉備みたいじゃないですか!こういう戦いは歴史上上手くいかないのですが鮮卑族の庶民の戦闘力の高さから少し違った結果になります。沖ちゃん頑張れ。


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