常勝将軍
燕では、漢民族居住区と遊牧民族居住区が分けられており、それぞれ適した方法で統治がなされていた。恪と垂の家はその境界線になっている。沖と泓は遊牧民族居住区に毎日のように通った。その理由は泓と歳の近い農と隆がいるからだ。
垂は子沢山で、麟と馨の間に、宝と農と隆がいた。麟は家長不在の家を守り、宝は父について遠征に行き、農と隆は放牧された家畜の管理を任され、馨は乳製品作りの手伝いをした。各自が自分の役割をきちんと果たす有能な子らである。
沖と泓は、農と隆とよく競馬をした。沖はまだ小さいので相手にならないのは仕様がないが、泓も一度も勝てなかった。最後はいつも農と隆の競争になった。二人は疾風のように馬を走らせた。鬣と尾を風になびかせ、のびやかに駆ける姿は、泓と沖のいい目標になった。
麟と楷と紹は、四人が切磋琢磨するよい関係を築いてくれればいいと思うのだった。
二か月ほどして、遠征軍が鄴の都に凱旋した。
王宮の大広間で、皇帝は垂から戦勝報告を受けた。沖も泓も同席した。
垂は、引き締まった大柄な体格で、黒く日焼けし、鎧姿がとてもよく似合ていた。
垂が皇帝の前で跪き、洛陽を手に入れたことを報告し、献上する戦利品目録を読み上げた。臨席した朝臣から歓喜の声が漏れた。
皇帝が労いの言葉をかける。「先帝の意思を継ぎ我が大燕国の威光を広げたこと、大儀でした。
治者の徳が高ければ、天下は自然に治まるのでしょうが、私はこのように薄徳です。
大将軍には、これからも我が国のためご尽力くださることを望みます。」
垂は丁寧に敬礼をした。
沖は、こんなかっこいい大将軍が敬服するなんて、陛下はすごい!と思ったのでした。
次の日、沖たちはいつものように遊びに出かけた。宮城の外は、凱旋を祝うお祭り気分が充満していた。
遊牧民居住区に行くと、今までなかった巨大なゲル車が、でかでかと場所を取っていた。ゲルの数も増えている。更に、牧草地には大きなの天幕が張られ、大規模な宴会が催されていた。
「わぁ、違う場所みたいだ。」沖と泓は驚いた。
紹が言う。「大将軍がご帰還なさったのさ。戦勝祝いに大勢の人が訪ねて来ているね。今日はやめておこうか。」
宮殿で見たかっこいいおじさんだ。
「お祝いする!」二人は駆け出した。
「こら待て!」誰がいるかわからない場所は危ない。楷と紹は慌てて追いかける。二人の足の速さは教育の賜物である。辛うじて天幕の手前で掴まえた。
「よう、楷、紹!久しぶり。」人込みから声がした。
二人が顔を上げると、真っ黒に日焼けした若者がいた。垂の長子の宝である。
「二人ともそんな所にいないで、中で父さんに挨拶してくれよ。」と宝。
「あぁ宝、お帰り。そうしたいのは山々なんだけど、今は仕事中だから。」と楷が言った。
「仕事中?あぁ子守か。」沖と泓を見て鼻で笑った。ちょっと嫌な感じだ。
宝の後ろを引っ切り無しに酒食が運ばれていく。麟が出てきた。訪問客の対応に忙しそうだ。麟が気づく。
「やぁ、いらっしゃい。そんなところにいないで中に入ってよ。馨、沖ちゃんと泓君が来たよ。」と調理場に向かって叫んだ。
馨が顔を出していつものように沖の手をひいた。楷と紹は顔を見合わせるが、よく知った叔父の家である、そんなに警戒する必要もないかと思い直した。
馨は沖の手をひいて天幕の奥にずんずん進む。大勢の訪問者が垂にお祝いの言葉を言うために順番待ちをしている。馨は気にせず父の所へ案内した。隣には農と隆がいた。
「お父様、沖ちゃんと泓君が遊びに来てくれたのよ!」
垂は二人が誰なのかすぐにわかった。垂はキセルを置くと、
「しばらく見ないうちに、大きくなられましたな。」と二人の頭を撫でた。
大きく分厚い手は優しく温かかった。
麟は沖たちのために、垂の後ろで席を作ってごちそうを運んだ。四人の前には、蒸した肉饅頭に揚げ肉饅頭、蒸し餃子、骨付き羊肉、チーズ、馬乳酒と食べきれない量の料理が並んだ。
沖と泓は酒宴の雰囲気に圧倒された。宴の様子は宮城とはまるで違った。どれくらい違うかというと、羊肉と野菜の角切りスープと羊の姿煮くらいに違う。ざっくばらんで騒がしく、粗野で雑然としていた。
馨は笑って、「ほんと、酔っ払いオヤジどもは下品で嫌よね。」と言うと持ち場に帰っていった。言葉と裏腹に、むしろ嬉しそうに見えた。
垂は訪問客から祝辞と酒を受けていた。挨拶が終わった客にはごちそうが振舞われ、客は手近な者同士で歓談した。
「おい、皇帝のお言葉を聞いたか?まるで戦を否定するような言葉じゃないか。」
「大将軍がいくら頑張っても、皇帝があれでは報われないな。」
「まぁまぁ。戦は稼ぎどころ、俺たちには戦利品があるんだからいいじゃないか。」
「献上した捕虜は全員治水工事に回されるんだと。」
「女は?」
「朝臣に分け与えて残りは売るらしい。」
「清廉だねぇ、後宮には誰も入れないの?」
「あの皇太后が、敵国の人間を入れるわけねぇだろう。」
「はは、そりゃそうだ。あの母ちゃんじゃ、いつになっても子種は望めねぇな。」
「お!?これは我らが垂皇帝もあり得るんじゃないか?」
「垂皇帝?」
「そう、垂皇帝。」
「「「垂皇帝!垂皇帝!垂皇帝!!!」」」
誰からか始まった呼び声が、だんだん周りを巻き込んで、大合唱になって辺り一面を覆った。異様な雰囲気である。沖にとって、皇帝は陛下と対になって兄のことである。何かがおかしい。
「・・・泓。」心細くなって泓の袖を掴んだ。泓は酷く怖い顔をしていた。垂が皇帝になるということは、暐も沖も泓も皆亡き者にされるということだ。垂の兄である恪だって危険である。泓が思わず立ち上がった。紹は急いで泓の口を塞いで座らせた。楷も沖を抱き抱える。悔しいけれど、無事にこの場を離れることが最優先事項である。二人の心臓はバクバクと高鳴った。
「静まれ!!!」大音声が響き渡った。
垂が立ち上がった。人々は歓声を止め、固唾をのんで次の言葉を待った。
「口を慎め、愚か者どもよ。」
垂は振り返り、「怖い思いをさせてすまなかった。」と言って、沖を抱き上げた。それから皆に向けて言った。
「私は皇帝になる気は微塵もない。
皇帝は武勇に優れた者がなるのではない。天から授けられた正統な皇位承継者がなるのだ。安定した皇位承継は国に安定をもたらす。安定した国は、容易に敵に攻められない。戦がなければ人々は農耕や牧畜に専念し、奪うことなく豊かな暮らしができるのだ。理想的な世界ではないか。
所詮兵馬の権は皇帝の力の一部に過ぎない。皇帝は兵馬の扱いが上手い駒を揃えておけばいいのだ。徳を重んじる現皇帝は皇帝たるに相応しい。これがわからない者は私の麾下には不要である。即刻立ち去るがいい。」
垂の言葉に一同水を打ったように静まり返った。せっかくの楽しい宴会が興ざめである。
垂も気まずくなった。困った垂は、沖を自分の頭上より高く持ち上げて「ほら、高い高い。」と何度もやってみせた。沖はキャッキャと笑った。それを見た隆が「父上、俺にも!」とせがんだ。「どれ、隆はどれだけ大きくなったかな。」と隆も同時に抱えようとした。が、思いの外重くて片手では持ち上がらなかった。「ざまぁ無いな。」と自嘲する。すかさず「お父上、もうそんなに若くはないのですから。」と麟が突っ込んだ。誰かが「大将軍も形無しだな。」と野次った。笑いが起こり場が和んで、一同歓談を再開した。
四人は麟に導かれて速やかに天幕を脱した。
いつもの扉までくると、麟が謝った。
麟は弟たちと違い正妻の子ではなかった。麟は垂の後継者にはなれない。だから皇位についても同じことが当てはまると思っている。物事には筋目というものがあるのだ。麟は変わらぬ友情を確認すると安心した。
「また別の時に来てくれよな。」と麟。
「おお。」と楷と紹。
宮城への帰り道、皆無言だった。
泓は、兄弟を守るために誰よりも強くなりたいと思った。強くなるまで二度とあの場所には行かないと決めた。
沖は、怖い思いをしたけれど、守ってくれた垂は優しく頼もしかったと思った。
――― もしお父様が生きていらしたら、あんな感じだったのかな。
垂は奥さんがたくさんいた。それで庶出の子が更にって、元気だよね。
先帝は奥さん二人なのかな。きっと皇后が怖かったんだろうな。泓のお母さん生きてるかな、心配。
モンゴルの人が食べるものとか調べました。鮮卑にそのまま当てはまるわけではないでしょうが、そんなに遠くもないだろうと思うので。想像以上に遊牧生活は過酷でした。食物繊維ってなくても平気なんだね。