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燕の子  作者: 鏑木桃音
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襄陽攻め

悩める沖ちゃん。

郡役所にて

「皆さん、ご心配をお掛けしました。今日からちゃんと働きます。あ、これ?妻に捧げました。」バツが悪そうにザンバラ髪を触った。

陳文号泣。


 その冬の徴税時期に、雍州刺史の苻丕から呼び出しがあった。

「何じゃ、その童のような(なり)は。未だに昔が恋しいと見える。そなたのような小児を頼みにして戦地に赴かねばならぬとは、不安でならぬわ。」言葉とは裏腹に声は弾んでいた。

苻丕は、来春早々、晋の襄陽を攻めることが決まり、自身が征南大将軍・都督征討諸軍事に任じられたことを告げた。つまり襄陽攻めの総大将である。

沖は少し羨ましく感じた。秦のために戦働きなど、してやる道理もないはずなのに。公子と、もと皇子の現在地はまるで違った。

「おめでとうございます。」沖は言った。

「ついては、各郡3万の兵士と30万(せき)の兵糧を拠出せよ。」

「そんなにも!?」

「なんだ、不服か?」苻丕はギロリと沖を睨んだ。

「いえ、・・・いや、でも。3万人徴兵するとなると凡そ1戸から二人の兵士をださねばならず、30万石徴収するということは凡そ1戸あたり20石、収穫高の半分以上を徴収せねばなりません。」

「一家で一番メシを喰らう輩を二人も連れて行ってやるのだ、問題なかろう。」軽い調子で言った。

刺史はいい。直接民衆を支配しないので気楽なものだ。だいたい兵糧の拠出は何も雍州のみが負担するものではない。通常、軍の通過する郡県にも徴収命令は出される。それなのに雍州2郡の兵糧だけで雍州兵が1年食えてしまう。つまりこれは苻丕のいい格好しいなのだ。

「一番の働き手が欠けるのですから、来年の収穫は例年通りとはいきません。だとすれば、民の手元にもう少し食糧を残してやれないものでしょうか。」

苻丕は顔色を変え一喝した。「太守の分際で私に指図する気か!」

沖は口をへの字に結んで俯く。その様子に苻丕の溜飲が少し下がり、今度は意地悪気に言った。

「あぁそうだ。雍州の燕人を指揮するのは、其方(そなた)の兄、新興侯だったなぁ。其方は自分の兄の面目も潰すことになるが、それでいいのか?」

沖は、パッと顔を上げる。陛下カッコいい!・・・いや、そうじゃなくて。

もともと陛下は武ばったことに向いてない。その陛下が、秦のために身を危険に曝す必要はない。

「私が行きます!兄の代わりに私が襄陽に行きます!兵は神速を貴ぶですよね。私があっという間に城を落としてご覧に入れます!」

「は!?どこから来るんだ、その根拠のない自信は。お前のような小児を連れていては私が見くびられるわ。」

「老いぼれどもに若者の力を見せてやりましょう!」

「老いぼれって誰だよ。我が軍には老将の出る幕などないわ。」

燕国とは違う。しかし秦王の古参の将の多くは中年の域に達していた。だから若い苻丕は舐められないようにしたいのだ。

苻丕は沖を、要するに、自分ならもっと少ない兵でもっと短期間で襄陽を攻め落とせる、だから連れて行って欲しいと言っているのだと理解した。その意気は上々。苻丕は寛大な心で可哀そうな小児を諭した。

「刺史と太守がそろって治所を空けるべきではない。私は守尚書令になった。そなたの兄は私の部下というわけだ。雍州の燕人どもは、太守の兄なら従いやすい。これは天王陛下がお決めになったことだ。」

沖は口を噤んで項垂れた。苻丕は満足して沖をほおり出す。

「わかったら、とっとと帰って仕事しろ!」



沖は郡役所に戻ると陳文に相談する。

「陳文、どうしよう。」

「どうもこうも、お上には従うしかありません。乱世なのですから他人の不幸にあまり心を痛めぬことです。」陳文らしい答えが返ってきた。


程無くして、暐から手紙が来た。

――― 沖。其方の治める平陽をこの目で見ることができるとは。


「玉、どうしたらいい?」沖は玉の部屋で一人涙ぐんだ。


 沖は、戸籍に従い税の追徴命令と兵の徴集命令を各県役所に発した。

漢人にとっても、燕人にとっても得るもののない戦争だった。県吏は嘆く民衆に、この小麦は戦地に赴くお前たちの夫や子供が食べるのだ。遠い異国の地で腹を空かせては可哀そうだろう、と言って聞かせた。しかし兵士たちは、自分たちのことよりも、どうか家族が飢えないようにしてほしい、そう言った。

 戦意などまるでない。こんな状態では何が起こるかわからない。沖は、暐の身の安全のために、信頼の置ける武官をできるだけ多く従軍させることにした。郡に残された兵力は裏戸籍の私兵だけ、何かあったら自分が陣頭に立つ覚悟だ。


 陛下が平陽に来る日、沖は蒲阪の橋の袂まで迎えに行った。

気が急いて、朝早くから一行が現れるのを待った。とても寒く、毛皮の帽子と毛皮のコート、毛皮の裏地のブーツで完全防備をし、焚き火をしながら待った。随分待った気がする。

凛々しい鎧姿の暐が馬でゆっくり浮橋を渡ってくるのが見えると、やはり感無量で涙で視界が歪んだ。

「陛下、このような片田舎に御足労いただき、恐悦至極に存じます。」恭しく挨拶をした。

暐は沖の髪に気づいたが、「沖、少し瘦せたか?」心配そうに聞いただけだった。

それよりは、二人で久しぶりの再会を喜び、成長した沖のことや、最近少しお腹が出てきた暐のこと、旅の様子や珍しかったもの、都の様子などを尽きることなく話した。

郡役所に着くと、沖は暐を、刺史や朝廷の使者が使う賓客用の宿泊棟に通した。

暐が沖の苦しい立場を知るのに、さほど時間はかからなかった。

「沖や、秦王のために、そんなに思い詰めなくていいんだよ。私はここへはお前と徭に会いに来たのだし、襄陽には物見遊山に行くようなつもりだ。兵士も兵糧も帳簿をいじって誤魔化してしまえ。」暐は笑って言った。沖は真面目過ぎるのだ。

「ところで徭はどうしてる?私に抱かせてくれないか?」

暐にとって、襄陽攻めに参加する最大の目的と言ってよかった。

「随の所に預けてあります。」沖はさらっと答えた。

暐の穏やかな表情が一変した。

「私や母上様は、父上様を知らない其方(そなた)に、そのことで寂しい思いをさせたことがあっただろうか?」

暐は随を呼んだ。随は徭を抱いた妻と共にやって来た。暐は顔を綻ばせて徭を抱こうとしたが、徭が泣きだしたので、急いで随の妻に返した。暐は随を振り返って言う。

「随、沖は日々どうしてる?」

「中山王殿下は、玉を亡くして以来、まるで抜け殻のようでございます。(わたし)は、これまで玉がしていた身の回りの細々としたことが不安になり、別の者にお世話をさせようとしたのですが、御髪を切って拒まれる始末。徭殿下のことについても、玉を亡くしたのは徭殿下のせいだと思っていらっしゃるご様子。御労しくて胸が張り裂けそうです。」

嘘ではないが大げさではないか。沖はハラハラしながら聞いていた。

暐は、沖に子作りを命じたのは自分なので責任を感じる。

「徭は普段どうしている?」

「徭殿下は玉の妹、翡翠が乳母となってお育てしております。」

「うん。やはり、親子が共にいられるうちは、共にあるべきだと思うのだが。」

暐にとって、沖は弟というよりも長子に近い。沖を手放した時は身を切られるような思いがした。

「仰る通りです。そこで臣に一つお願いがございます。」

「何か?」

「徭殿下は翡翠によくなついておりますし、翡翠は玉に似ています。どうでしょう、この際、翡翠を殿下の後添いとしていただくというのは。」

「それはいい!」暐の顔がぱっと明るくなった。

沖は慌てる。「待ってください、そんなこと突然言われても!」

「子供は多ければ多いほどいいからな。」にこり。

「・・・少し考える時間をください。」

沖は堪え難くなり部屋を出た。


 沖は宿舎の板の間の廊下の欄干にもたれかかって座っている。欄干の向こうに、本来子供部屋として作られた建物が見える。

陛下は勝手なことを言うが、私がどんな思いで子をなしたと思っているのか。

徭は大切、それはわかってる。徭をここに置くべき、それもわかってる。でも、徭が泣くと母がいないと叫んでいるように聞こえて辛かった。私が子供を望んだからこんなことになった。だったら徭から母を奪ったのは私ではないのか。

 痛いくらい寒い。こんな所で頭を冷やしていると、だんだん心の痛みが麻痺して消えていくような気がした。

 欣怡(シンイー)がやってきた。

「お兄様、お話があります。どうして奴婢(わたし)を襄陽に行かせてくれないのですか?楊一も楊両もみんな行くのに。」

正直、そんな気分じゃない。

「欣怡は行かなくていいよ。お前は私の身代わりじゃないか。私が行かないのに行く必要はないだろう。」ぼそぼそと答えた。

欣怡は納得しない。「戦地に行くのは優秀な武官ばかりです。その数の内に奴婢は入っていないということでしょうか?」

キンキンと煩くて、沖はとうとうキレた。

「みんなみんな勝手な事ばかり言う!」

いくら別の痛みで誤魔化そうとしても沖の心は積載オーバーなのだ。

「申し訳ありません。」欣怡は、慌てて欄干を飛び越えた。

こんな寒い時に泣いたら、涙が凍ってしまいそう。欣怡は、拭うものがなくて自分の袖を引っ張って沖の顔に近づけた。沖はその手を振り払う。

「少しは私の事も考えてくれてもいいだろう!」そう叫ぶと膝を抱えた。

「申し訳ありません。」

こういう時はどうしたらいいんだろう。小さな孤児が泣いている時、欣怡はいつも抱きしめて背中をさすってあげている。欣怡は同じようにした。沖は一瞬驚くが、そのまましがみついた。

「お前は私の妹だろう?妹は兄を絶対に裏切ってはいけない!だったら私に逆らうな!ずっと私の見方でいろ!お前は私の傍にいればいい!」

沖は自分に掛けられた呪いと同じ呪いを欣怡に掛けた。

欣怡は嬉しそうに微笑む。

「はい、お兄様。」


 この呪いに掛かった者は、苦しみすらもどこか甘く感じる。

 結局、沖は暐の言うことに従うことにした。暐が率いる燕人を事実上統べるのは随だ。随には暐を守ってもらわなければいけない。自分の気持ちを除けば悪い点はないように思うのだ。

wikiによれば1セキは31kg。30万石に根拠なし。呉書で、戦時に孫堅が1郡の太守に30万石拠出させたという記載があり、呉書が太守を褒めているようなので、これくらいが限界値なのだろうと考えました。

 378年 前秦天王は征南大将軍・都督征討諸軍事・守尚書令・長楽公・苻丕と武衛将軍・苟萇こうちょう(壺関鎮守)、尚書・慕容暐を派遣し、歩騎七万を率いて襄陽に侵攻させた。(資治)

このことから、雍州2郡から6万徴兵し、苟萇と苻丕の下に氐族を1万という分配で考えてみました。

みんな言葉が違うから大変ですね。

苻丕は兵糧が沢山あることを理由に襄陽攻めをのんびりして秦王に怒られます。

資治は晋の立場から書かれているので、秦が晋に大きく仕掛けると秦に飢饉が起こります。襄陽攻めでも起きました。しかし、飢饉は天の怒りの表現ではなく、実際に沖ちゃん以下雍州の人々が今回の話のような苦労をしたということではないかと考えたりするわけです。

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