ゲルにて
沖は上体を起こして移動式住居を指さした。
二人は指の指す方向を見る。「ゲルがどうかした?」
「ゲル?」沖は繰り返した。
「ゲル。・・・・兄さん、この子どうしちゃったんだろう。」女の子は困った顔で兄を見上げた。
兄は開いている門扉を見る。
「隣から来たっぽいな。」ひょいっと沖を立たせるとパンパンと服を叩いて土を落としてやった。
「馨、この子にミルクでも飲ませてあげて。俺はちょっとお隣さんとこ行ってくる。」
「任せておいて!さぁ、行きましょ。」馨はお姉さん気取りで沖の手を引っぱった。
その頃、お隣さん家では残った3人が青ざめていた。屋敷中をざっと探してみて、やっぱりいないということになり、もうこれは大人に報告して大事にするしかないと腹をくくった。この責任は太宰の地位まで揺るがすだろう。
麟はゆっくりと隣家の本宅を回って、正面入口まで来ると幼馴染の楷と紹を見つけた。
「おーい、楷、紹、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ。うちに小さな子が」
「「「いたー!!!!」」」
「お、おう、それは良かった。」
沖は一際大きなゲルに案内されて中に入る。
床は美しい刺繍の施された布が敷いてあるが、その下はフェルトで歩くとフワフワと柔らかい。
馨は沖を炉端に座らせると「ちょっと待っててね。」と言って、壺を持って外へ出ていった。
ぽつん。沖は一人取り残された。
周囲を見渡すと、室内にあるものは馬具と調理具と食器類くらい。天井を見上げると天窓があり、その周りを沢山の屋根棒が放射線状に円を描いていた。美しかった。
見とれたのも束の間、「みんなどこへ行っちゃったのかなぁ。」沖は呟いた。
危うく探しに出かけるところで、馨は戻ってきた。
「お待たせしました。」馨は器にミルクを注ぐと、「搾りたてのヤギのミルクよ。どうぞ召し上がれ。」お姉さんぶって言った。
にぱっ。「ありがとう。」
沖は色々頑張ったので喉が渇いていた。ミルクはスルスルと喉を通った。馨は沖が美味しそうに飲む様子に満足して隣で自分もミルクを飲んだ。
泓たちがゲルに入ると、小さな子が二人並んでまったりとお茶をしている微笑ましい光景があった。張りつめていた緊張がどっと解けた。
「こら、沖!勝手にいなくなるんじゃない!心配するだろう!」泓が怒った。
「いなくなったのは楷ちゃんだよ。沖は迷子の楷ちゃんを探してたの。」顔を見るなり怒るなんて泓は怒りっぽい。沖は膨れた。
「あーそうだよな、俺が悪かったよな。ほんと見つかってよかったよ。」と楷。
「本当どうしようかと思ったよ、ありがとう馨ちゃん。」紹はそう言うと沖の脇の下から手を入れて抱き抱えると、ずるずると引きずって座る場所を変えさせた。
「皇弟の座る場所はここですよ。」
馨が驚く。「えっ!?女の子じゃなかったの?」言われてみれば男の子の格好をしている。
「そう、お前の一つ下の皇弟様だって。」兄は言った。
馨は皇弟が何かは今一わからなかった。とりあえず誰かの弟らしい。沖を見ると沖はかわいらしく笑っている。ちょっと残念だけど、この際、弟でもいいわ。馨は気を取り直した。
少年たちは親しげに自然な感じで炉端に腰かけた。こうやって並んでみると、麟が一番年長なのがわかる。
紹が言った、「遠征軍が帰ってくるってね。今回も叔父さんは大活躍じゃないか。」
楷も言った、「洛陽を落とすなんて、すごいよ。」
「宝も初陣が勝ち戦ってかっこいいよな。」と紹。
少年たちは大人な話を始めた。
馨はみんなにミルクを配った。こんなに来るとは思わなかったので兄の分が足りなくなってしまった。その様子に、麟は「大丈夫、いらないから。」という仕草をしてみせて、会話を続けた。
「俺が行けば洛陽よりもっと襄陽だって行けたさ。」麟は悔し気に言った。麟は留守を任されている。
「「言うね~。」」
沖には何の話をしているのかさっぱりわからなかった。泓にはぼんやりとわかった。泓は自分の使命を朧気ながら理解している。だから泓は知りたい。
「それは何の話?」
「我が軍が洛陽という都市を手に入れて、領土を広げたっていう話だよ。洛陽は昔、晋の都だったんだ。
で、その軍を率いるのが二人のお父上である垂将軍さ。二人とも会っているはずだよ。僕たちにとっても、君たちにとっても叔父上なんだから。」紹は言った。
「垂将軍!?かっこいい!!」沖も泓も興奮した。麟も馨も誇らしかった。
宮城の後宮にて
沖は、片膝を立てて座っている兄の足の間に座って今日あった出来事を話す。暐は読書の最中だったけれど、嫌ではない。
「あのね、今日ね、楷ちゃんと紹ちゃんの家に行ったんだよ。楷ちゃんと紹ちゃんの家の隣には、白いまぁるいお家がいっぱいあるんだよ。ゲルって言うんだって。」
「私達は、昔はみんなあれに住んでいたんだよ。」暐は穏やかに答えた。
「陛下も?」沖は兄の名前が陛下だと思っている。
「覚えてないけど、そうかもしれないな。あれは畳んで持ち運べるんだ。あれを馬車に積んで草原中を旅するのさ。」
「行きたい!」沖は勢いよく振り返った。
「うん、いつか行きたいね。」
「いつかっていつ?沖は今すぐ行きたいんだけど。」きらきらした瞳で聞いた。
「え?」暐は戸惑った。
「こら、沖。陛下を困らせてはダメよ。陛下はお仕事でお忙しいの。
さあ、寝ましょう。こちらへいらっしゃい。」母は沖を自分の隣に呼んだ。
暐は孫子を閉じて灯を消した。
沖と泓と三人で草原中を流浪するのも悪くない。
視界に母が入った。暐の口の端に冷笑が浮ぶ。
――― そんなことは夢のまた夢だ。
陛下が壊れそう。
孫子は強くなりたいからではなく、戦いに不向きなことを自覚しているので、戦いを避ける方法を勉強しているのです。説明しちゃった。もっと読者を信じなさい。
別の寝室にしようかとも考えたのですが、ゲルでは一緒なわけだし、このお母ちゃんならこれくらいのことはするだろうと思い同じ寝室にしました。
ほんのちょっと時代が下がって北魏に子貴母死制というのがありました。皇太子になるとその母は死を賜るというやつです。遊牧民族はどこも強すぎる母に頭を抱えていたと見えます。遊牧民族において女性が強いのは結婚形態に由来するといわれています。夫婦が独立するときの費用のすべてを妻の家が負担するからだそうですよ。