鶏
随が最後尾から駆け上がりながら叫ぶ、「三手に別れよう。羽、飛、任せた。平陽城で落ち合おう。太守に恥じない行動をせよ。」一行は三方に散っていった。
夜になっていた。
随、玉、沖と四人の従者は、月明りを頼りに蒲阪城近くの田舎道を、一夜の宿を貸してくれそうな家を探してポクポクと馬を進めた。結局誰も追ってこなかった。刺史が何もしていない太守を捜索して誅殺するなど公にできるわけがない。しかし街道に出て宿を探すのはためらわれた。
随たちは七人が泊まれそうな家を見つけた。
桑畑の真ん中に建ち、庭には果樹が植わり、牛や豚、鶏を飼っている家畜小屋があり、離れまである裕福そうな農家だ。
何度か戸口を叩くと沖より幼い少女がそおっと顔を出した。
随は沖を前面に押しだした。
「旅の者です、道に迷ってしまいました。家族が寒さに震えています。一晩泊めていただけませんか。」
沖が随を見上げる。随「家族、家族。」ニコ。
少女は、一行が女子供連れであることに安心して、沖たちを招き入れた。
家に入ると土間があり、竈があり、左手の板の間には厚手の敷物が敷かれ、その上で主人が火鉢を抱いて酒を呑んでいた。灯は火鉢で燃える薪だけで家の中は暗い。貧しく見えるがこれが王侯貴族ではない庶民の普通の暮らしだ。沖には闇の住人のようで気味悪く思えた。
「欣怡、誰が中に入れていいと言った。口の利けないことをいいことに勝手なことをするんじゃねぇ。」
火鉢のチロチロとした火が不愉快そうな中年男を照らしている。欣怡は困ったように笑った。
随は言った。「道に迷ってしまいました。一晩泊めてください。」
男は呂律の怪しい舌で言った。「ただで泊まろうってのかい、厚かましいね。貧乏人には他人様に施してやるような余裕はねぇんだよ。」
男も少女も綿入れを着ており困窮しているようには見えなかった。
「お金なら払います。」随が七人分の宿泊費相当額の銅貨を差し出した。
男はにんまりと笑って受け取った。「官銭だ。あんた話がわかるね。欣怡、飯を喰わせてやんな。後から離れに案内してやるよ。」
男の態度はコロリと変わって饒舌になった。「あんた達どこから来なさったね。毛皮の帽子に毛皮のマントなんて洒落てるじゃねぇか。」
「長安です。」
「やっぱり都ね。都には息子がいるんだ。息子って言っていいのかわからんがね。ちょうど、坊ちゃんくらいの年さね。坊ちゃんでいいんだよな?」男が沖に聞いた。
沖は、この男は評に似ていると思い、目を合わせないように顔を背けた。
「奉公にでも出ていらっしゃるんですか。」随が聞いた。
「そう。欣怡が売り物にならないから、代わりに・・・大事な一人息子の大事なあそこをちょん切って・・・うっ・・うぐ。欣怡、早く火鉢を持って来ないか、この愚図!」男は泣きながら、土間で炊事をしようとしている娘を罵った。
少女は奴婢ではなかった。従者の鴦と雁は火鉢運びの手伝いに走った。
――― 大嫌いな開心の家だ。沖は目を見張った。
「この家も畑もね、みんな慈の給金で買ったのさ。情けないったらありゃしない。」男は酒を煽った。
沖は男の顔をじっと見つめた。目は濁り、顔はむくんでいるが、取り立てて特徴のないところが似ているといえば似ていた。
欣怡の顔も見たいと思ったが、暗くてよく見えなかった。欣怡は外に出ていった。
暫くすると欣怡が何かを下げて戻ってきた。竈の火に照らされて、首のない鶏を足首を掴んで持っているのだとわかった。黒い雫がぽたりぽたりと落ちている。血を滴らせながら欣怡は笑っている。いつも笑っている顔が開心に見えた。沖は開心の持つ鶏に釘付けになった。
玉が土間に駆け下りた。「欣怡ちゃん、お手伝いさせて頂戴。」
雁が言う。「妃にできるんですか?」
玉は振り返って笑う。「私、なんだってできるのよ。極貧生活で色々覚えたの。鶏は捌いたことはないけどね。」
鶏は卵を産むから殺さない。沖以外のみんなが自分の極貧生活を思い出して笑った。
欣怡は、大きな鍋に水を沸かし、鶏を頭から突っ込んだ。何度も鶏を湯から上げたり下げたりして全体が湯に沈むようにした。玉は欣怡の脇で、渡された竹細工の笊を捧げ持っている。
欣怡は鶏を湯から上げようと笊を引きよせた。
「欣怡ちゃん、そっとよそっと。上手にやって頂戴。」玉は騒がしかった。欣怡は声なく笑う。
鶏はザバッと音をたてて笊に揚げられた。ぼたぼたと派手に水滴が落ちる。玉は騒いだが火傷はしなかった。欣怡が上手なのだ。
欣怡は竈の火の近くに笊を引き寄せて羽を毟り始めた。玉も見習う。
「ちょっと、あなたたちも手伝いなさいな。その方が早く美味しいものが食べられるわよ。」
従者の鳶と雲が加わって、一匹の鶏に集った。
「嫌!!!やめて、やめてよ!!!」
突然沖が叫んだ。
随がびっくりして沖の腕を握った。
「触るな!!!」
沖は、随を振り払って勢いよく立ち上がると壁に向かって突進した。皆どうしたことかわからず呆然とした。体当たりして吹っ飛んだ沖は、急いで立ち上がると再び体当たりを繰り返した。
玉は我に返って沖に駆け寄ると倒れた沖を抱きすくめる。
「放せ、放せ、汚らわしい!私に触るな!!!」
呼吸は浅く、目には何も映しておらず、正体をなくしているように見えた。
玉には、太守の妻になったことを喜ぶ気持ちと同時に、やはり段の恨みを晴らしたいという思いがどこかにあった。しかし恨みをぶつける対象はあまりにか弱かった。
「殿下、殿下。小女子は殿下の妻でございます。殿下の苦しみを小女子にも分けてください。」
沖は玉の腕の中で気を失った。
すごい姫っぷり。秦王も虜にできるんだからある意味最強。