苻丕
王猛は関中の胡族に睨みを利かせるために鄴から長安に戻らなければならなくなった。
王猛の異動には時間がかかる。そこで秦王は、司州から河東郡と平陽郡を切り離して雍州とし、蒲阪を治所として、秦王の庶長子、長楽公・苻丕を雍州刺史に任命した。苻丕は後に秦王の帝位を継いだ者である。
王猛の代わりに鄴を治めるのは秦王の弟、陽平公・苻融である。秦王は王族の中で苻融を一番信頼している。
一連の人事異動に伴い官吏の人事も大がかりに異動する。暐はこの機会に燕の王族の異動を王猛に願い出て、年老いた者や望郷の念の強い者を故郷に帰した。評が范陽郡(北京近郊)太守になり、その他も周辺の郡県の守令や長史になった。また暐は、苻融の常侍に紹を推薦した。その他にも、太保だった陽騖の子、陽瑤等燕の有能な者を在野の者を含め王猛に推挙した。
朝臣の授官は秦王の専権であり、王猛が秦王に人物を推挙するが、推挙の理由を説明するのは暐である。暐はするりと秦王の懐に入っていった。
沖の太守人生は最初から散々だった。
長安を出た翌日、沖たち一行は黄河を渡るために蒲阪津まで来た。母なる河は、乾期にも関わらず豊かな水量を湛え向こう岸を遠くに隔てていた。対岸をみれば寒々とした小高い丘が迫り、その向こうに雍州刺史である長楽公・苻丕の治所、蒲阪城が見えた。蒲阪津には関所が置かれ黄河を渡る浮桟橋が架けられている。
沖は橋を渡るために関防役人に太守任命書を見せた。漢人の役人たちは一行を観察する。胡族の集団が見目麗しい子供を太守だという。大胆な関銭の踏み倒しだ。
「野蛮人め、こんな小児が太守なわけあるか!人攫いか盗賊の類だろう?吐くならもっと上手い嘘を吐くんだな。」
沖は、関防人の反応も仕方ないとは思うが、それでは困る。
沖「嘘じゃないよ、ちゃんと確認してくれればわかるから。」
随「見てくれ、新興侯の身元保証書もある!」
玉「無礼者!」
役人たちは一行を問答無用で捕縛し、地面剥き出しの牢に放り込んだ。
牢屋は沖に檻車を思い出させ、自分の犯した罪の重さを思い出させた。その罪を思えば、自分の身に起きた不幸は相応の報いに思えた。
「みんな、御免なさい。」
沖は膝を抱いて蹲った。
しかし任命書も身分保証書も本物なので当然よくできている。関防の西岸長は首を傾げて、念のため蒲阪城に使者を送った。特徴的な本人なので、すぐに本物の太守だと確認がとれた。一行は解放されたが、座ると体の芯まで冷えてくる牢に半日近く留め置かれていた。
沖たちはその足で雍州刺史へ着任の挨拶に行かないわけにいかなくなった。
苻丕は関防から使者が来たと知ると、常侍たちに言った。
「あの女児を始末したい。」
苻丕は二十歳に満たない若者である。父親の特別な少年に心中穏やかではなかった。男と女が番うのは自然の摂理なので、女子であれば年下の寵姫であっても笑っていられただろう。しかし男色には自然の摂理を超える特別な思い入れを感じずにはいられない。
常侍はたしなめた。「天王の子ともあろうお人が小児を討つなどと。世間は殿下が嫉妬したのだと申すでしょう。まるで親の愛に飢えた赤子ではございませんか。」
苻丕の心はそんな単純な言葉で片付けられない。「嫉妬?違う!あれのせいで父の我等兄弟に対する愛情が穢れたもののように思えて仕方がない。父を敬い続けるためにはあの存在を消さなければならない。」
「陛下が寵童をあえて殿下の下にお送りになったのは、殿下のご器量をお試しになっているのでございます。期待に応えて治績をあげれば、苻宏様に代わって太子になることだって夢ではございませんよ。」
苻丕は太子になりたいというよりも、優秀な父の一番になりたかった。寵童になりたいとは微塵も思わないが、どれだけ武功を上げたとしても沖には勝てない何かがあるような気がした。
「鮮卑は敵だ。陛下の過ちを正すのが真の忠義ではないか。」
苻丕は譲らなかった。
沖は苻丕の前に出た。苻丕は上段の間から降りてきて沖の前でしゃがむ。
「ふーん、君が父上の寵姫ね。ほんとだ、かーわいい。」
沖の後ろで随と玉が顔を見合わせた。
苻丕は小声で囁く。「僕のところにも来るかい?」
沖は恐怖して苻丕を見た。
「ハハハハハ、うーそ。そんなことしたら父上に殺されちゃうもんね。
安心して、僕にはそんな趣味、全然無いから。ほんと汚らわしい。」苻丕は吐き捨てた。
やはり他人から見ても汚らわしいのだ。沖は涙を零さないようにするので精一杯だった。苻丕は立ち上がり、唇をかみしめる沖を見下ろした。
「女児には何も期待してない。僕の経歴に傷がつかないように大人しくしていてくれればいいから。
長旅で疲れただろう、今日はここで休んでいくといい。平陽に遣いをやってお迎えを呼んであげよう。」
苻丕は笑って常侍に耳打ちした。
常侍が言った。「城外に馬場がございます。まずは馬をそこで休ませてください。」
沖たちは馬を引いて従った。冬の日は短い。空はすでに黄昏れていた。
馬場は城の風下にあり、山の端まで続いていた。どんなに広くても馬場特有の酸っぱい匂いはするものらしい。その広い馬場には馬泥棒に遭わない程度の高さの柵がぐるっとめぐらされていた。馬場に入ると入口が閉められ、背後で鐸が鳴った。振り返って鐸を振る男を認める、前方の物置の陰からたくさんの伏兵が現れ、その音に驚いて、また前を向く。
「これはどういうことだ?」一行は慌てた。
常侍が叫ぶ。「太守殿は夜盗に襲われたのだ。一人も逃すな!」
剣戟を持った騎馬兵たちは、鬨の声を上げて沖たちに襲い掛かった。
「みんな馬に乗れ!逃げるぞ。」随は叫んだ。各々馬に乗ると散り散りに駆けた。
騎兵は沖に向かって集った。沖は左前から駆けてくる敵から逃げるために右手前方に駆けた。騎兵は椋鳥の群れのように沖について行く。随たちは腰の剣を抜いた。戟を背負ってこなかったことを悔やんだ。随たちは側面から敵に割って入った。牧畜生活を捨てた関中の昔遊牧民に一年前まで牧畜をして暮らしていた鮮卑が馬術で負けるわけがない。しかし数では負けていた。あの柵を越えたい。だが女子供にこの柵を越えられるだろうか。
隋は玉を敵中で玉を探した。玉は玉で敵に追われていた。狙いやすいものから狙う、当然の戦法だ。
随は大声で叫ぶ。
「玉!柵を越えろ!お前にできることは殿下にもできる!」
玉だって鮮卑の女だ、馬くらい操れる。しかしそんな跳躍はしたことがない。だがこのまま走り続けても馬がもたない。
「はい、父上!」
玉は、ためらうことなく馬を激しく鞭し、柵に向かって走り、跳躍した。
玉の馬は綺麗な弧を描き柵の向こう側に着地した。
ヒュー 燕人たちは指笛をならし、遊牧民独特の牧畜を追う時に使う奇声を上げた。
沖に敵兵が纏わりつく。沖が出来なければ、他の者は逃るわけにいかないのだから是が非でも跳ばなければならない。
沖は心を決め急旋回し、柵に向かって一気に加速する。立ちはだかる敵に構わず突き進む。迷ったら飛べない。頭を真っ白にした。
「跳べ!」
ヒュー 歓声が耳に届いて自分が跳べたことを知った。嬉しくなって玉に向かって笑った。沖は振り返り仲間たちに向かって叫ぶ。
「みんな、早く来い、先に行くぞ!」
燕人たちは次々に柵を越えてくる。沖と玉は笑いながら駆けだした。玉は沖が笑ったところを初めて見た。
苻丕と沖の組み合わせは史実。苻丕はこの年の最初に雍州刺史になっているのでそこはちょっと違う。多分秦王が、苻丕にもそろそろ人を治める経験をさせる頃だと考えて司隷州から2郡だけ切り出して勉強させようとしたのだと思う。長安に近く、黄河と山に囲まれて守り易い場所なので子供の修行にはもってこいだと思う。この体制は十年近く続く。思うに、秦王も苻丕も沖のことなんてすぐに忘れてしまったんじゃないかな。上ばっかり見ている人は、踏みつけにした者のことをすぐに忘れる。ただこれは、忘れられるほど沖の治世がよく治まっていたということでもあると思う。




