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燕の子  作者: 鏑木桃音
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少年宦官


事を終えた秦王は背を丸めて震えている雛鳥を抱きしめて頬ずりをした。

「あぁ私の鳳雛。よく頑張った。」

秦王が眠りに就くと、開心が寝台の脇にやってきて小声で言った。

「鳳雛。お風呂に行きましょう。」


 壁に掛けられた灯火が、湯気で乳白色に煙る浴室を仄かに照らし、湯舟に浮かぶ椿の花が赤黒く見える。その点々とした濃紅(こいくれない)でどこからが浴槽か辛うじてわかった。

 開心は鳳雛の後に回って、股間から太ももを汚している春情の残骸を洗い流した。洗いながら宦官とは違う少年の身体にどうしても目が行った。奴才は飼育係として仕事をしているのだから世話する小鳥の身体が目に入るのは不可抗力だ、と自分に言い訳をした。しかし着ている服は盛大に濡れそぼって注意散漫なのは明らかだった。

 鳳雛の一見華奢に見える腕や足は適度に筋肉がついており、いずれ、腕は一振りで大樹をも薙ぎ倒す強靭な翼となり、足は自力で地面にしっかりと降り立つ柱脚に変わる予感がした。白魚のような性器もそのうち侵略する側に回って子孫を残すのだろう。どれも宦官には望むべくもない。性差のない可憐さと破壊神の胎動が微妙な均衡でせめぎ合う一瞬の美に羨望した。秦王もこの煌めきに魅せられたのだとしたら、然もありなんと思うのだった。

鳳雛はずっと泣いている。開心は黙って肛門に軟膏を塗った。


秦王は鳳雛を専寵し、政務所は完全に阿房宮の前殿に移った。

鳳雛は暫くの間は扉に体当たりをしていたが、そのうち暴れることもなくなり御殿の閂は外された。逃げたところで阿房宮から出ることなどできるはずがなかった。

秦王は、毎朝、鳳雛を膝の上にのせ、その愛らしい唇に手づから小指で紅をのせ、ふっくらとした額に蝋梅の花弁を貼った。

寵童の良いところは前殿へ連れていくことができることである。秦王は謁見者に鳳雛を見せびらかすことを好んだ。鳳雛の腰紐に(ぜい)を結び付けて、常に傍らに侍らせた。帨は年頃の娘の腰紐に母親が結び付けるリボンである。鳳雛の帨には龍の刺繍が大きく施されている。この腰紐を解いてよいのは王のみであると言っているのだ。

 鳳雛は人前に晒されるのが一番苦痛だった。阿房宮に来たときの溌剌(はつらつ)とした少年は見る影もなかった。

 宦官たちは寵愛が冷めることを恐れた。扱い易くはなったが、これではただの愛想のない女児である。議論の結果、睡眠不足だということにした。宦官は秦王に鳳雛が死んだら不吉だと進言し、鳳雛の回収に成功する。と同時に、開心に鳳雛を元気づけるように命じた。開心は、そんな無駄なこと馬鹿なんじゃないかと思ったが、そう思う一方で、鳳雛の小さな翼がこのまま折れてしまうのではないかと密かに恐れてもいた。

 開心にできることといえば話しかけるくらいしかない。話しかけると言っても、一方的に話すだけで返事は返ってこない。鳳雛は阿房宮のすべてを憎んでいた。すべての中には飼育係も当然含まれている。開心は仕事だから仕方がないと自分に言い聞かせた。

 その日は、秦王不在の間、宦官たちが呼んだ旅芸人の芸を露台で鑑賞した。

「さっきの芸人のバク転はすごかったですね!」

やっぱり無視。

「鄴人を連れてくるなんて、まったくおっさんたちはセンスがないんだから。懐かしい歌や訛りを聞いたら帰りたくなるに決まっているのにね。奴才だって、蒲坂(ほはん)の言葉を聞いたら、爸爸や欣怡(シンイー)は元気かなって会いたくなるもの。」

鳳雛がピクリと反応したような気がした。

「欣怡は妹。とっても可愛いんだ。・・・でも、口が利けないの。三年前の苻柳様が反乱を起こしたときに、奴才たちは逃げ遅れて媽媽が死んじゃった。それから口が利けなくなっちゃったんだ。人間、すごくショックなことがあるとしゃべれなくなるんだね。」

 開心の家族は蒲坂で古着を売っていた。家族みんなが戦力だった。父と開心は一人で、母は妹をダシに使って、家々を回って古着を集めて修理し、街や村で売って回った。苻柳が反乱を起こした当時、王猛は遠く離れた砦に立てこもり何か月も攻める気配を見せなかった。開心たちは生活のため蒲坂の街に居座った。王猛は、油断した苻柳が長安に出兵すると苻柳を夜襲し、そのまま蒲坂を攻め落とした。あまりに突然のことにか弱い蒲坂の人々は右往左往した。万人の敵、将軍鄧羌は邪魔な雑草たちを容赦なく薙ぎ払った。一家は母と家を失い、妹は言葉を失い、父は生きる気力を失った。

 鳳雛の黒翡翠のような目は何も映していないように見えた。反応したかに思えたのは気のせいだったみたいだ。

「花茶でも飲みますか。」開心は厨房に逃げた。


家を辞し随分遠くまで来たものだ

悠々三千里

京洛、風塵多し

白い衣は黒くなり

心乱、誰がために治まらん。

願わくは帰鴻の翼を()りて

飜飛(ほんぴ)して江の(ほとり)に遊ばん


お盆にお茶を載せて戻ってきた開心は、回廊でその歌声を聴いた。奴才の話を聞いてくれていたのかなと思うと少し嬉しかった。さて第一声はなんと声をかけようかと足を止めた。すると反対側から秦王の声がした。銅鑼が鳴った記憶はないが、演芸でも鳴り物を使っていたから気づかなかったのだろう。

「陸機じゃないか。いい声だ。鄴に帰りたいか?一度連れて行ってやってもいい。」

「・・・・・・・いいえ。帰りたくはありません。」

(何の面目があって故郷の土を踏むことが出来ようか。)

「ハハハハハ、そうか、帰りたくないか。そうだろう、そうだろう。長安は素晴らしいからな。」

開心は飼育係の特殊能力を恨んだ。傍にずっといるせいで言葉にならない言葉がよくわかった。


その夜も鳳雛は風呂場で泣いていた。

「もう、泣かないでくださいよ。奴才は困ってしまいます。

・・・前にも言いましたけど、奴才はあなたが羨ましいですよ。」

ぼそりと、「嘲っているくせに。」

言葉が返ってきて驚いた。この機会を逃してはいけないと思った。

「いいえ、本当に羨ましいんです!鳳雛は望んでないことは知っていますが、いっぱい贈り物をもらって、美味しいごはんを食べて、みんなから大切にされて。その一部でいいから欣怡(シンイー)に分けてあげたい。妹は奴才以外の誰かから贈り物を貰うなんてきっとないだろうなとか思ったりするんです。」

「欣怡も喜悦だ。」

開心は微笑む。

「そう。いい名前でしょ?奴才は妹に恥じないように、辛い時こそ笑顔を作るようにしています。そうすると楽しい気がしてくるし、そのうち本当に嬉しいことが起きるんです。」

鳳雛は戯言は汚物と一緒に排水溝に流したが、飼育係は思っていたのと少し違うと感じた。

妹の名前が現代の名前。だってわかんないもん。

それにしてもこの糞オヤジには早く死んでほしい。沖、絶対殺そうね。

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