龍の恵
王猛は賜爵授官を済ますと、あわただしく長安を離れた。
この頃の秦は、燕を征服して以降も止まることを知らず、正月早々に晋で起きた反乱に加担し、三月には晋の蘭陵郡を攻めた。晋への容喙は桓温により跳ね返されたが、四月には内乱を繰り返している仇池を征服した。その傍らで関東の豪族や異民族を15万戸関中に移民させている。
王猛は秦王のために日夜東奔西走する。
かつて秦王は王猛に語った。「民族や身分に関わらず、すべての人が対等に扱われる世の中を作りたい。中華は一つの家族になるべきだ。」
儒教の否定に見えて儒教の目指す徳治の極である。儒教的精神の染みついた王猛は目から鱗が落ちる思いをし、この一事をもって簒奪者で蛮族の王を主君とすることに決めた。秦王の徳は王猛の徳でできていた。
もしこの時期に王猛が長安にいれば、万余の人の運命が確かに変わったはずである。
―――すべてが灰塵に帰した終末世界で、阿房宮だけが高くそびえていた。
阿房宮にて
沖は、王族たちと共同生活をしていた建物とは別の、美しい庭に面した日当たりのいい建物に移された。客間、食堂、自室、厠、風呂、厨房等生きるために必要なすべてのものを備えている、平屋建ての子供用の御殿である。
世話役に同じ年頃の宦官があてがわれた。少年宦官は可愛いことが仕事であるが、沖と並ぶと取り立てて特徴のない漢人に成り下がった。
「今日から鳳雛のお世話をさせていただきます。宜しくお願いいたします。」少年宦官は拱手をした。
「鳳雛って何?」沖は亡国の皇子なのに鳳凰は万鳥の王である。皮肉にしか聞こえなかった。宦官はご機嫌を取るように言った。
「あなた様は巷ではそう呼ばれております。あなた様は高貴な生まれの方なので、お名前を直接お呼びするのは失礼です。ですので奴才もそうお呼びいたしました。」
沖には何の爵位も官職も与えられず実名以外に呼び方がなかった。
そして鳳凰の翼は燕の翼であり、沖は燕の皇子であり、しかも華やかで美しい容姿をしている。鳳雛と呼ぶにぴったりだった。もと皇子と呼ばれ続けるよりマシに思えた。
「そう、宜しくね。」この宦官以外に話し相手がいなさそうなので仲良くしようと思った。名前を尋ねると開心と呼ばれていると答えた。
「楽しむ?いい名前だね。」
「鳳雛ほどではありませんが、人生楽しまなければ損ですから、奴才は気に入っております。」開心は笑顔を作った。
「さて、鳳雛。主上から服が届いています。旅装はもうお脱ぎください。」そう言って色鮮やかな袍が何枚も積み重ねられている衣装盆を沖の前に置いた。沖が片手で袍をぱらぱらとめくってみると、すべてに鳳凰柄の刺繍がされていた。怖かった秦王のことを思い出して、「綺麗だね。」と言ったか言わなかったか覚えていない。
「本当に。きっとお似合いになるでしょう。着替える前にお風呂に入ってください。」やはり楽し気である。
阿房宮は風呂もまた素敵で、湯舟に椿の花が浮かび、薬種の入った小袋が入っていた。小袋の中身は陳皮、ヨモギ、甘草、当帰、生姜等。沖は随分華美なものだと感心した。
数か月分の垢を洗い落とし、庭に面した露台で日向ぼっこをしながら髪を乾かす。なんだかのんびりしてしまい、自分の境遇を忘れてしまいそうになった。そんな気持ちを知ってか知らずか、開心は髪を梳かしながら言った。
「今日の夜は主上がいらっしゃって、夕餉を共にお召し上がりになるそうです。」
沖は思わず立ち上がった。最悪だ。御飯がまずくなる!
夕方、秦王が建章宮を出ようとすると、どこからともなく、ひどく腰の曲がった老婆が現れた。もう三百年は生きていそうなこの老婆は、秦王お抱えの占い師で王嘉と言った。桃色や青色の紐を編み込んだ白髪の三つ編みを両耳の際から垂らし、鈍色の生地に虹色の縁取りのあるチベット系胡族の衣装を身に着けていた。
王嘉は言った。「王よ王よ、捕らえた雛を放しておやり。その雛は鳳じゃ。」
秦王は笑いながら言った。「鳳が現れるのは瑞祥ぞ。何故手放さねばならぬ。」
王嘉は重ねて言った。「王よ王よ、万鳥の王を怒らせてはならんぞ。」
秦王は不機嫌に言った。「禽獣に龍の恵を垂れてやろうというのだ。何を怒るというのか。」
王嘉は天子の御車を見送って一人になると吐き捨てた。
「蛇が驕っておるわ。」
阿房宮
遠くで銅鑼が鳴り、暫くすると秦王が宦官を引き連れて入ってきた。赤色の袍の秦王とそれをとりまく黄色の宦官たち。どちらも自己主張が激しくて灯火の下でも目がチカチカした。
「やぁ鳳雛、新しい御殿の住心地はどうかね?その袍もよく似合っている。」
沖はもらった雪藍色(藍色に白色を混ぜた色)の袍を身に着けていた。
「ありがとうございます。何もかも大変美しいです。」蚊の鳴くような声で答えた。
「すべて私が選んでやったのだよ。」秦王は満足気に言った。
「さて腹が減った。飯にしよう。」秦王が言うと、隣の部屋の扉が開いた。
部屋の中央にある方卓の上で、豪華な食事が湯気を立てていた。秦王の席はいつでもどこでも決まっている。迷うことなく席に着いた。沖がどこに座ればいいのか悩でいると、宦官が秦王と方卓の角をはさんで隣の席の椅子をひき、座るように促した。
卓の上には、川魚の膾、野菜炒め、野菜と鮑のスープ、干し鮑の混ぜご飯、冬瓜の羊肉詰め、鴨の丸焼き、小籠包、胡麻団子等が並んでいた。
どれくらいぶりのまともな食事だろうか。沖は秦王を忘れて食べた。成長期の少年は大人がびっくりするほどのいい食べっぷりを見せた。
「腹を空かせた雛鳥のようだ。ほら、頬が汚れている。」沖が我に返り手を止めると、秦王は頬に手を伸ばして食べこぼしを指で拭い、その指を舐めてみせた。
ぞわっと怖気が走った。やっぱり怖い。秦王は怖い。
食欲が一気になくなって、早く帰ってくれないかな、何しに来たのかな、そんなことばかり考えた。
夕食が終わるとさらに部屋を移し、沖の私室に入ってきた。
秦王は机の上に一冊の本を広げて読むように言った。沖は本を手にとって淀みなく読んだ。
「意味は?」
「魯の定公が孔子に尋ねました。「君主は家臣をどう扱い、家臣は君主にどう仕えるべきでしょうか。」孔子は答えました。「君主は礼儀をもって家臣を扱い、家臣は忠義をもって君主に仕えるべきです。」」
「燕人は学問もするのだなぁ。」秦王は感心した。
「鄴では学校があり、貴族の子弟はそこで学びました。ですのでこれくらいは読めます。」
沖は心の中で呪った。何が言いたい?お前が読め!
秦王はいつの間にか隣におり、沖の簪を抜き取った。髪がばさりと音をたてて落ち、沖は驚いて秦王を見上げる。秦王は髪を一束握った。
「光沢があって、紫や緑にも見える。顔が映り込みそうなほどだ。
血色のよい頬、睫毛が長く影を落として、蛾眉、切れ長ですっきりとした鳳眼。あぁ、ため息が出そうだ。そのうえ学問までできるなんて完璧じゃないか。」
秦王は沖のまだ線の細い腰に手を回して顎を掴み頬に口づけをした。
沖は、自分の身に起きていることが信じられなくて目を見開いた。
もしこれを陛下がしたらきっと全然平気だと思う。むしろ嬉しいくらいだ。なのに別の人にされるとどうしてこうも虫唾が走るのだろう。我慢の限界だった。気付けば思いっきり秦王を突き飛ばして逃げだしていた。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
扉を思いっきり開け放ち、警護の宦官を突き飛ばし、庭に飛び出てがむしゃらに走った。
宮中は大騒ぎになり、女官に宦官、近衛兵まで加わって沖を探し始めた。
まずい、まずい、どうしよう。どうやったら逃げられる?阿房宮は迷路のようで、ここがどこかもわからない。ただ幸いなことに使われていない御殿が山ほどあった。沖は近くの御殿の端の扉をそおっと押し開けて忍び込み、月明りを頼りに部屋の隅にある螺鈿細工の屏風の後ろに隠れた。
「鳳雛、鳳雛、出ておいで。」随分と遠くから小さな呼び声が聞こえてくる。
沖は安心してそのまま眠りに落ちた。
ね、突っ込みどころがあり過ぎてコメディになりがちでしょ。小題が、変態オヤジとかキモイオヤジとかしか浮かばなくて困りました。
天王は両性愛者。苻堅には子供がたくさんいます。沖と同じくらいの子供もいます。そうなるとちょっと気が知れない。
この話の史実はもっと悲惨で、私には気持ち悪くて書けなかったのですが、本当は沖にはお姉さんがいて、後宮に入れられています。征服する度にそこの公主を後宮に入れる。これはありがちな話でしょう。ですが男もというのは聞いたことがないです。私が知らないだけかもしれませんが。よくあることなのでしょうか。沖が超絶イケメンだったのか、苻堅が見境がないのか。私的には沖の名前もいけなかったんじゃないかと思います。この時はまだ幼名で鳳皇だったはずです。鳳凰は皇后の象徴です。