死屍累々
「・・・申し訳・・・ありません。」沖は震える声を絞り出した。
――― 役立たず。
ずっと心の中で思っていたことなのに、言葉にされると胸をえぐられるように痛い。沖が大司馬なせいで、国が滅びかけている。
母は優しく言った。「気にする必要はないのよ。最初から誰もあなたには期待していないのだから。だってあなたは子供ですもの。」
沖はここで泣いてはいけないと思う。子供だから泣けば許されると思っているなんて思われたくなかった。でも、か細い肩がどうしようもなく震えた。
ガタン。
陛下が慌てて立ち上げり、玉座から駆け下りた。
「母上、私は許可しておりません。私は大司馬の退殿を認めていません!」母が握った沖の手の腕を掴んだ。
「いてもいなくても一緒よ?」母は、物わかりの悪い子でも見るように言った。
「私には沖が必要です。沖がいるから私は立っていられるのです!」
期待されていない大司馬は、期待されていない皇帝と似ている。暐は沖の苦しみが痛いほどわかった。
何かを成し遂げる意思も能力もない自分が、他人様に向かって成したと言えることがあるとすれば、それは唯一、沖を膝の上に抱え続けてきたことである。赤ちゃんの時からずっとずっと、父の代わりに。
沖を手放したら自分には何が残る?自分は何者として生き、誰の記憶に残る?絶対に嫌だ!沖は私が守るのだ。
「陛下もそのような顔をするのですねぇ。」母は、ふふっと笑った。
「沖や、お母さまは、あなたが苦しまないように、あなたのためを思って言っているのです。」敵に捕まった皇子など、碌な目に合わないだろう。
「ですが、陛下も愛する我が子、陛下の我儘も聞いてあげたい気がします。
・・・ですから、あなたが選びなさい。」母は沖の手を放した。
幸せな皇子は自死を知らない。沖は、陛下もお母さまもいつもと何か様子が違うように感じるが、それが何故かはわからなかった。
沖は陛下の言葉に救われた気がした。人は自分を必要としてくれる人のためにこそ強くなれるのだ。
母譲りの小作りな顔の、父譲りのくりくりっとした目に、見る見るうちに意志が宿った。
「沖は役立たずですが、せめて臣下として皆と苦労を共にしたいと思います。」
母は、自分に見えている未来が沖には見えていないのだと思うと、その健気さがかえって不憫になった。しかし、人には自ら経験しなければわからないことがある。
「立派になりましたね。
これから先、どんなに辛いことがあっても、自分が決めたことです。陛下を恨んではなりませんよ。」
沖はこっくりと頷いた。
母は、今度は暐に向かって言った。「陛下は、ご自分の我儘に沖を付き合わせるのです。そのことを忘れてはなりませんよ。」
暐も頷いた。
暐もまた未来が見えていないのだ。母は沖を手放すのです。これ以上、暐にしてあげられることはありません。
母は、大きくため息をつくと、未練を断ち切るよう別れを告げる。「それでは、私はこれでお暇いたします。御機嫌よう。」
母は二度と振り返ることなく立ち去った。
翌日、皇帝は、皇太后府を取り仕切る大長秋から、皇太后が妃と数十人の後宮女官を道連れにして服毒死したとの報告を受けた。
沖は大長秋の言葉の意味が呑み込めず、立ち尽くした。臣下は昨日の酒の意味を悟り、息を吞んだ。
皇帝は一人笑いだす。
「ハハハ、ハハハハハハハ。やっと死んだ。やっと死んだ!」
好き放題やっておいて、国をめちゃくちゃにしておいて、逃げる速さは脱兎の如し。本当に碌でもない女だ。
「ハハハハ、ハハハハハ。」
――― しかし、慈悲深い母であった。
気付けば、涙が頬を伝う。
「沖、母上が最期に選んだのはそなたであったなぁ。」
声が詰まって、もう何を言っているかわからなかった。
潞川にて
秦軍は全く動こうとしない燕軍に痺れを切らし、周囲の山に火を放った。戦場は火の海に包まれ、昼間のように明るい。とうとう両軍の勝敗を決する時が来たのだ。
評の相手は鄧羌と張蚝である。二人とも、一人で万の敵に匹敵する猛将と讃えられている。寡兵の秦軍は山火事に怯んだ燕軍の虚を衝く。
馬上の鄧羌は、手にした瓢箪の酒をガバッとかっ喰らうと投げ捨てて、大きな矛を高らかに掲げた。矛は赤々とした炎に照らされ燦然と輝いている。そして大声で号令をかけた。
「行くぞ、お前ら!」
「「「「ウォー!!!!!」」」」
鬨の声がこだまして軍勢が何倍にも膨れ上がったように感じた。秦軍は一気に燕軍に突っ込んだ。
6万の秦軍は40万の燕軍をものともせず縦横無尽に駆けまわる。秦軍は、燕軍の歩兵騎兵ともに斬って斬って斬りまくり、旗を抜き取り、将軍も斬った。戦の勝敗は日中には決し、打ち取った燕兵は十万に及び、潞川は血に染まった。燕軍の惨敗である。評は単騎落ち延びた。
お母ちゃんは自分のしてきたことを悔いることもなく、自分はいいお母ちゃんだと自己満足して死んでいきました。あー怖いね。