英雄
この急展開はすごいです。
晋軍は黄河北岸で首都攻撃に備えていた。
垂は、鄴直下の北岸で晋軍の西方に兵を展開させた。垂の当初の作戦は長安から南岸に来るであろう秦の援軍を待って、共に晋軍を挟み撃ちにするというものであった。しかし垂の下には敗走した首都防衛軍や各地から集まった自国の援軍が加わり、兵数において晋軍と同等になった。垂は秦の援軍を待たずに晋軍への攻撃を開始した。
垂は強かった。北岸の敵を蹴散らし、南岸の敵も一掃した。
北伐軍が、勢力を挽回した燕の真ん中に居続けることは危険である。晋軍はあっさりと撤退した。
燕は、秦に援軍は不要になったと使者を送った。燕は領土を失うことなく国難を除くことができた。負け続けていた軍が総指揮官が代わった途端に勝利したので、垂の名声は上がった。皇帝も垂に対し最大級の賞賛と労いの言葉を与えた。
この様子が面白くないのは評である。実際の戦況には、援軍による増兵が大きく影響したはずである。それなのに、これではまるで自分が失態を犯したようではないか。歴戦の強者のプライドは傷つけられた。そして、このまま自分が用済みにされるのではないかと恐れた。
皇太后もまた、面白くなかった。
暐が母に背いた。今まで一度もこんなことはなかったのに。これはあの男のせいだ。あの男は、沖を手なづけ暐を誑かし、権力を欲しいままにするつもりなのだ。あの男が権力を握ったら私はどうなる?暐も沖もあんな簒奪者に渡してなるものか。
暐と沖が、垂と親し気に言葉を交わしている様子を母は恐ろしい顔で凝視した。
数日の内に、焦る二人に状況を覆す好機が訪れた。
司州から危急を告げる早馬が宮城に駆け込んだ。使者は御前で秦軍が洛陽を攻めていると報告した。燕が、援軍は不要、領土割譲の約束は取り消すと使者を送ったにもかかわらず、秦は兵を率いて燕領に侵入した。秦の宰相王猛の企みである。
評が、「なぜ攻める。さては本性を現しよったな!秦に援軍を請うなどと言い出したのは誰だ?垂か!」援軍要請が秦の悪心を誘った。評は垂の失点になればそれでよかった。しかし皇太后はそれだけでは足りない。
「我国の兵の総数を考えれば、此度の戦はそもそも我が兵だけで事足りたのです。わざわざ他国の援軍を請うたのは、垂が秦と通じていたからでしょう。垂は裏切り者です。捕らえよ!」
評はこの言いがかりに乗った。
沖は叫んだ。「将軍は秦が来る前に晋を追い払ったではありませんか。そんなはずがありません!」
皇帝も驚く。「そうです。なんの証拠もなしに捕らえるなどと乱暴です。」
皇太后は言った。「いいえ捕らえねばなりません。秦と呼応し垂がここで立ったら我らは皆殺しにされてしまいます。その前に機先を制すのです!」評は首都防衛軍を集め始めた。
「待ってください、お爺様!」沖は評に縋りついた。評はこれを振り払う。
「ならんぞ、沖。情に流されて真実を見誤ってはならん!」
ダメだ。沖の言うことは誰も聞いてくれない。
沖は泓を使って垂に急を知らせた。泓が垂のために動くのは、泓が正々堂々と垂を超えるためである。
評は数千人の兵を引き連れて垂の家に向かった。垂一家は間一髪で鄴を脱した。
救国の英雄が一日にして謀反人にされてしまった。この件について、沖も皇太后も評も、みんな同じ知らせを聞いたはずなのに、導き出した答えはまるで違う。沖は、英雄の急転直下の転落劇をどう受け止めればいいのかわからなかった。
数日後、麟が申し開きのために一人で宮城にやってきた。
「父に謀反の意思はありません。秦と内通もしていません。父の今までの功績に照らし、どうか寛大なご処置をお願いいたします。」やつれた麟が不憫だった。皇帝が何かを言おうとしたが、皇太后が先を越した。
「申すだけなら何とでも申せます。捕らえて垂の居場所を吐かせなさい!」
「待ってください、お母さま!無実だからこうして出てきたのでしょう?」沖は麟に駆け寄ってかばった。
「そうです母上。麟に酷いことをするのは私が許さない!」皇帝は立ち上がった。
「母に向かって、許さないとは何事ですか!」皇太后はけたたましく言った。
皇帝は先手を打った。「麟を幽閉せよ!」
沖は、引き立てられていく麟の背中を呆然と見送った。
お母さまのことがわからない。何をお考えなのか理解できない。
沖は母の隙を見て麟の幽閉されている牢にこっそり行った。もちろん見張りがいる。沖は見張りに自分のお菓子を渡した。沖的賄賂。二人きりになると麟に駆け寄った。
「麟ちゃん、ごめん。絶対ここから出られるようにするから。」沖は涙ながらに謝った。
「お願いがある。」麟は牢の格子に目一杯近づいて言った。沖も麟の口元に耳を近づける。
「このままでは父上の命が危ない。父上は秦に亡命しようとしていたが、俺が思い留まるように説得した。でも俺は何も変えられなかった。父上に逃げるように伝えてほしい。」麟は垂の居場所を教えた。
沖はショックで目を見開いた。燕をめちゃくちゃにした秦に逃げるなんて。これでは、やはり秦に通じていたと言われてしまう。・・・でも。
沖はこっくり頷いた。
沖は急いで自室に帰って手紙を走り書いた。
「皆様のご無事を心より祈っています。いつの日か黄河の畔で再びお会いできますように。沖」
銀簪を髪から抜き取ると封筒に入れた。そして何食わぬ顔で恪の家に出かけて、楷に使いを頼んだ。喪中の楷なら足がつかないと思った。
楷が出発したのを見届けると、沖はいつもの扉を開けた。
羊や山羊はそのままで、ゲルもいつものようにそこにあるのに、垂も馨も農も隆もみんないなくなってしまった。
どうしてこんなことになったのだろう。誰のせい?お母さまのせい?お爺様のせい?秦のせいで晋のせい。大切な人たちなのに沖は何もしてあげられない。沖は声を上げて泣いた。
結局、秦は洛陽を手中に収めた。信じられないが、皇太后と評は洛陽を守ることより、垂を追い落とすことを優先した。一旦は皇帝に移るかに見えた政治の実権は、実力行使により再び皇太后と評に戻ったのだった。
お母ちゃんが怖すぎるよ。陛下ちゃんと沖ちゃんがママの言うことを聞いてくれさえすれば洛陽だろうが一国だろうがどうだっていいわ。
補足ですが、割譲より龍城遷都の方がいいのでは?と思うかもしれませんが、もしそこで講和などと言うことになれば、下手すると龍城以南を手放すことになりかねません。龍城は渤海の上です。そういうことで秦への割譲の提案はまだマシなのです。また、寝返りが出始めていたことも秦への援軍要請の判断につながったものと思われます。
本当に鮮やかな手腕ですよね。惚れ惚れします。内通していないなら戦わせればいいでしょう。
王猛は垂をゲットしたいなどと思っていませんでした。主君に垂が燕の皇族なので殺せと忠告したほどです。完全に言いがかりです。




