笑わない少女
「ねぇドリィ、あの子なんでしょう?柵の所にいた女の子。」
あゆむは辺りをうかがい念の為小声で囁いた。なんだか2人だけの秘密を持った気がして、ちょっと胸が躍った。そんなあゆむにドリィは真っ先に頷いた。
タイミングよくあゆむが注文した料理が運ばれてきた。
「あゆむちゃんお腹空いてるんでしょう?僕の分も用意してくれたみたいだから、一緒に食べよう!」
「うん、私ほんとペコペコでさ。ドリィのも良かったね…って、えぇ!ひょっとして……これ?」
あゆむは自分の目を確かめようとドリィの皿を覗き込んだ。
「そうだよ。あれ?あゆむちゃんもこっちの方が良かった?だったら一緒に食べようよ。半分こする?」
あゆむと好物が一緒だと勘違いしたのか、ドリィは嬉しそうにスプーンでそれをすくい、あゆむに差し出す。
「いいよ、い〜いい!ドリィの好きな物なんでしょう?きっと……。少なくなっちゃうし、私は自分のあるからさ。」
あゆむは急いでかぶりを振った。
「美味しそう!私ミートソースのパスタ大好きなの!さ、ドリィ私のこと気にしないで食べちゃって。」
「なんだ、あゆむちゃん遠慮して。そんなの気にすることないのにさ。それにしても、本当に美味しそうだよなぁ…!あゆむちゃん早くいただこう!」
「うん…。」
2人は揃って〝いただきます!“を言いそれぞれの好物にありついた。
ドリィの分……。スープ皿の上にこんもりと盛られたそれは、とてもつややかなどんぐりだった。茶色いコロコロした実を、今まさにリスのごとく口一杯にほうばり、ドリィはカリコリ、カリコリ言わせていた。本当に美味しそうに食べている。あゆむが見つめているとドリィがすぐにどんぐり入りスプーンを差し出してきた。
きっと食用のどんぐりなのだろう。あゆむは自分までついそそられるようなドリィの食べっぷりを見つめながら、そう思うことにした。
「ねぇドリィ。あの子に決めたんでしょう?それにしてもよく見つけたねぇ。」
「うん、宙返りをしている時に見つけたんだ。ちゃんとあの子に笑ってもらうように頑張らないと!」
ドリィはガッツポーズをした。
あの女の子はすごい顔してドリィを見つめていたなぁ。大丈夫なんだろうかドリィは。一体どうやってあの女の子を笑わせるんだろう。あゆむはそう思いながら、少女がいた場所に目をやった。
「ねぇドリィ。あれサンドラさんじゃないの?」
少女はまだ同じ場所に立っていた。やはり2人の方を見ている。そばにいたサンドラ夫人が少女の目線に気付いたのか、ドリィとあゆむに手を振った。
やがてサンドラ夫人に連れられながら、少女が2人の前にやって来た。少女は近くで見るとまるで人形の様だった。ドリィをなおも見つめるその瞳は、ガラス玉みたくさまざまな光を放っている。
「お2人に紹介するわ。この子は私の娘でソフィアというの。」
サンドラ夫人の紹介に合わせて、ソフィアは2人に軽く会釈をした。
「こちらはドリィ君にあゆむちゃん。ねぇ、お2人がよろしかったら家にいらっしゃいな。ドリィ君、まだ泊まる所決まっていないのでしょう?」
ソフィアがゆっくりとドリィとあゆむを交互に見つめる。レースがあちらこちらに付いた水色のドレスを着ているその姿は、街の入り口にあった銅像そっくりだった。この子がモデルなのか、あゆむは思った。
「うん、そうなんだ。ねぇ、あゆむちゃんお泊まりさせてもらおうよ!」
あゆむもすぐに頷き、
「それでは、すみませんがお世話になります。」
と丁寧に礼を言った。
「良かったわ。それでは早速行きましょう。ねっ、ソフィアも。」
サンドラ夫人がソフィアの背中を優しく促した。ドリィとあゆむは互いを見合うと、静かに気合を入れたのだった。
カルロ邸の中は天井が吹き抜けになっており、幾つもの窓からは月の光が差し込んでいた。中央に大きな階段があり、その正面にはステンドグラスが飾られている。差し込んだ光と合わさってとても綺麗だ。
「ママ、私もう部屋に行くわ。」
ソフィアはサンドラ夫人にそう言うと、ドリィとあゆむの方を向き、
「それではお2人ともどうぞごゆっくり。」
と足早に去って行ったのだった。
あゆむはソフィアの後ろ姿を目で追った。本当は少しでも話が出来ると思っていたのにな…。ドリィも同じくソフィアの背中を見つめていた。
それからドリィとあゆむはサンドラ夫人に客間へと案内された。そこにはベッドが2つ並べており、あゆむには嬉しい大きな鏡の付いたドレッサーが置かれてあった。
「うっわぁ!僕ちょっとそこから外見てくるよ!」
部屋の中央にはバルコニーへと続くガラス張りの扉があり、ドリィは一目散に外を目指した。サンドラ夫人はそんなドリィの姿を見てニッコリすると、
「ゆっくりくつろいでちょうだいね。私は応接間にいるから何かあったら言ってね。」
と言い残し、客間を後にした。
あゆむは鞄を下ろすとベッドに飛び込んだ。朝から歩き通しだったあゆむはくたくたに疲れていた。体がほどよくベッドに沈んでいくと、それと同時に一気に眠気が襲ってくる。
駄目だ……もう一歩も動けない…。あゆむはそのまま深い眠りに落ちたのであった。
う、う〜ん…あれ?私あのまま眠っちゃったんだ。どの位眠っていたのだろう。
外はまだ夜だ。そんなに時間が経っていないのか。なんせこの部屋には時計がないので、今何時かさえもわからないのだ。
ドリィのベッドを見ると、ドリィはそこにはいなかった。
何処に行ったんだろう…?あゆむは大きく伸びをすると鞄からくしを取り出し髪型を整え、応接間へと向かった。
なかなか広い家だ。応接間が何処にあるのかわからない。かといってあちこち覗いて見て回る訳にもいかないだろう。
あゆむがうろうろしながら廊下を進んでいると、奥の部屋からサンドラ夫人の笑い声が聞こえてきた。
ドアをノックすると、「どうぞ!」とサンドラ夫人の声が答えた。中に入るとドリィの姿もあった。
「あゆむちゃん、ぐっすり寝てたから僕起こさなかったんだ。」
ドリィはまたどんぐりを食べている。
「今日は主人が出かけていないので、1人で寂しくしていたの。だからドリィ君に話し相手になってもらっていたのよ。あゆむちゃんもどうぞお座りになってちょうだいな。今、紅茶入れるわね。」
そう言うとサンドラ夫人は、あゆむにも紅茶とチョコチップ入りのクッキーを用意してくれた。サンドラ夫人の手作りだという。とっても美味しそうだ。サンドラ夫人に礼を言うとあゆむもドリィの隣に腰を下ろした。
この部屋は今は使われていないが暖炉があり、その上には肖像画が掛けられていた。その顔はまだ若い女性で、とても色白で目が大きく美しい人だった。ソフィアが大きくなったらきっとこんな感じだろう。
「この方はね、主人のご先祖様なのよ。そしてこの街を創った方でもあるの。」
あゆむの視線に気付き、サンドラ夫人は微笑んだ。
「ほら、街の入り口に女の子の銅像があっただろう?小さい頃のこの女の人がモデルになってるんだって。」
ドリィもあゆむと同じだ。きっとすぐに目に入り聞いたのだろう。
この肖像画の女性はペティーといい、そのまま街の名前に使われたそうだ。ペティーは本当に美しい女性で、よく笑いよくしゃべり、そして何よりも皆の厚い信頼を得ていたそうだ。たくさんの人が行き交い、華やかだが心が安らぎ、暖かい街作りをいつも心がけていて、そして今でもこの街はそんな彼女の想いを受け継いでいた。
ソフィアはサンドラ夫人にももちろん似ているのだが、何よりもペティーに瓜二つと言っていい程似ているのだ。
「私と主人は、この方にソフィアが似ているのをとても光栄なことだと思っていたの。きっと、笑顔の可愛い女の子になるわ、そうも思っていたの。赤ん坊の頃のあの子はそれはもう可愛くて、本当によく笑う子だったわ。今でももちろん可愛いのだけれど…。でも、何故か大きくなるにつれ全く笑わなくなってしまったの。」
サンドラ夫人はとても悲しい顔で話を続けた。
「何か原因があるんじゃないかと主人とも相談して、街の広場に手品師や、楽隊を招いてたくさんのショーをあの子に見てもらったわ。そして楽しんでもらって、少しでもあの子に笑顔が戻ればいいと思っていたのね。」
サンドラ夫人はドリィの顔を見つめた。
「ドリィ君、あなたのショーは本当に素晴らしかったわ。ソフィアのことはどうか、気を悪くしないでね。」
とても優しい口調でそう言った。サンドラ夫人もソフィアの顔に笑顔が浮かばなかったのをちゃんと見ていたのだろう。
ドリィは首を大きく振った。
「僕そんなの気にしないよ。ただ、ソフィアちゃんとお友達になりたいなぁ。そしてソフィアちゃんの笑顔が見たい。サンドラさんいいでしょう?」
とサンドラ夫人に言った。
「私も。あの…サンドラさん、私もいいでしょうか?」
ドリィの言葉に反応してあゆむもサンドラ夫人に言った。最近は人に興味を持つことなど無かったあゆむに、こんな思いは久し振りだった。
サンドラ夫人は2人の言葉に心を打たれたのか、涙で目をにじませている。
「ドリィ君、あゆむちゃん…。ありがとう!ソフィアもきっと喜ぶわ。」
そう言うと涙を拭った。
カラン コロンっと軽やかな音が屋敷内に響き渡った。
「主人が帰って来たわ。お2人のこと紹介するから一緒に来てちょうだい。」
サンドラ夫人の軽やかな歩みに連れられ、2人も玄関へと向かった。玄関口は賑やかな声に包まれている。ダン•カルロ以外人がいるらしく、その中にはソフィアの声も混ざっていた。
「あなた、お帰りなさい。疲れたでしょう?」
ダン•カルロは「ただいま。」とサンドラ夫人の頬に優しくキスをした。そして後ろから顔を見せたドリィとあゆむに気付くと、
「ん?ソフィアの新しいお友達かい?」
ニッコリ微笑んだ。
ダン•カルロは口髭に髪をオールバックにしており、とても凛々しい顔立ちの男性だ。ダン•カルロのお付きの人なのか、他の2人の男性もにこやかな顔でこちらを見ている。
「えぇそうなのよ、あなた。ドリィ君にあゆむちゃん。ドリィ君は先程とても素敵なショーを見せてくれたのよ。」
サンドラ夫人は声を弾ませた。
ソフィアを見ると何も言わずに黙っている。あゆむは自分達を友達として紹介されたことをソフィアに否定されると思っていたが、どうやらソフィアにはそのつもりはないらしい。
「そうか、それは私もぜひ見てみたかったな。さぁこんな所で立ち話もなんだから、部屋に行かないか?ショーの話を聞かせてくれ。」
そう言うとダン•カルロはドリィの肩を軽く叩いた。
「それでは、私共はこれで失礼致します。カルロ様本日もお疲れ様でございました。」
お付きの2人がダン•カルロにそう言うと、サンドラ夫人とソフィアにも丁寧にお辞儀をし、出て行った。
そしてドリィとあゆむは、ダン•カルロとソフィアも交えて再び応接間へと向かうことにしたのだった。
部屋ではドリィのショーの話で持ちきりになった。ドリィは照れているのか、もじもじしている。ダン•カルロとサンドラ夫人はそんなドリィを見て、ニッコリ微笑んだ。
カルロ夫妻は朗らかで優しく本当に良い人だ。あゆむは心が温かくなるのを感じた。ソフィアはというと、ずっとおだやかな表情で話を聞いている。でもドリィがどんなに面白い話をしたとしても、その顔に笑顔が浮かぶことはない。
ソフィアを見ていると特に寂しそうな感じではないし、何か不満を抱いている風にも見えない。どうしてソフィアはこんなにも笑わないのだろう…。
最近はあまり笑うことのなかったあゆむにも、何故なのかまだわからないでいた。
客間へと戻ってきたドリィとあゆむは一緒にバルコニーへ向かった。応接間ではカルロ夫妻がまだ仕事の話をしているのだろう。ソフィアが部屋へと戻って行ったので、2人も応接間を後にしたのである。
今夜はソフィアとは結局大した話も出来ず、
「おやすみなさい。」の挨拶で終わってしまった。
どうしたらソフィアと仲良くなれるのだろうか…。あゆむは何度も考えていた。まぁ焦ることはない。まだ日もあるし、ダン•カルロもサンドラ夫人もここに何日でもいていいと言ってくれたのだから。
バルコニーからの眺めは最高だった。街が一望できる。目の前には月が浮かんでおり、手が届きそうなほどだった。雲の上だからか、細かった三日月は満月にほど近い形をしていた。
こんなに素敵な街で、あんなに優しい両親がいて、そしてお金持ち。ソフィアは今何を思っているのかな…。あゆむは再びソフィアのことを考えていた。
あゆむも周りから気が付かれない気持ちをいつでも抱えていた。あゆむが今何を考えているのか、何がしたいのか、それを伝えたい人も、わかってくれる人もいなかった。ソフィアも同じ様な悩みを抱いているのだろうか。そう考えると、ソフィアのことを思わずにはいられなかったのだった。
「ねぇドリィ。ソフィアはどうして笑わないんだと思う?」
ドリィはさっきからぼんやり月を見ている。
「あゆむちゃん見て!もうすぐで朝がやって来るみたいだよ。」
あゆむはドリィに言われるがまま空に目を向けた。
遠くの方から雲が近づいて来るのが見えた。そのムクムクと移動している雲に、今にもこの街全体が覆われてしまいそうだ。それに反応して街の明かりが次々に消えていく。
店が閉められていき、子供達の姿はもう何処にもなかった。何本かの街灯の明かりだけが残されている。
「ドリィ!この街が雲に隠れるよ!」
あゆむは息をのんだ。ドリィも目を逸らさず頷く。
やがて日の光が差し込もうとした時、それを遮る様に雲が街全体を包むと、それと同時に全ての街灯の明かりまでもが姿を消していった。
街は夜とうって変わって、とても静かになった。
すごいものを見てしまった……。あゆむは体中が熱くなるのを感じた。少し興奮しているせいもあるのだろう。今では空はすっかり見えなくなり、白い煙の様な雲が上一面に浮いていた。
「すごかったねぇ、あゆむちゃん!僕息をすることも忘れていたよ。」
ドリィは無邪気に騒いでいる。そう、確かにすごかったのだ。
「あっ!ドリィ見て!月見草がしぼんでいく。」
あゆむは広場にある花壇を指差した。
「本当だ!きっとあのお花達もこの街と一緒に寝るんだね。あゆむちゃんの言った通りだ。」
ドリィとあゆむは嬉しそうに顔を見合わせた。
2人はしばらくその場から動けないでいた。フワフワと浮かんでいる雲を見ていると、まるで夢の中にでもいる様な、そんな錯覚に陥った。
横でドリィが大あくびをした。元気いっぱいのドリィもさすがに眠くなったのだろう。
ドリィを見ていると、カルロ夫妻がニッコリと微笑んでしまう気持ちが、あゆむにもわかる気がした。
「ドリィ、そろそろ寝ようか。」
あゆむが話しかけると、ドリィは瞼が半分閉じている顔で頷いた。
「あゆむちゃん、ソフィアちゃんのことだけど、明日僕ソフィアちゃんにいっぱい話しかけてみようと思うんだ。あと、サンドラさんにあゆむちゃんもソフィアちゃんとお友達になりたいって言った時、僕まで嬉しくなったんだ。だから、ありがとう。」
ドリィはベッドに入るなり眠そうな声で言った。
あゆむが返事をしようとしたら、ドリィはもうスースーと寝息をたてていた。きっと言い終わって安心したのだろう。
ありがとうだなんて…。あゆむはまた少し恥ずかしくなった。なんだか自分じゃないみたいだ。とても心がポカポカしている。
この街の人達はあゆむのことをじろじろ見ない。あゆむは何よりもそれが嬉しかった。こんな街なら何日でもいてもいいとさえ思った。
あゆむは自分の鞄を広げた。そしてあゆむの宝物を手に取ると、あゆむの心に新たなポカポカと温かな気持ちが広がってゆくのを感じた。
今は楽しいことだけを考えよう。そう、こんな不思議な場所で自分が想像することのなかった経験を、今私はしているのだから。だから良い夢を見ることを考えよう。
あゆむはドリィの方に寝返りを打った。明日が楽しみだなぁ。私もソフィアといっぱい話が出来ればいいのにな…。
ドリィって寝てても笑っている風に見える。一体何歳なんだろう、いつか聞いてみよう。あゆむはそんなことを思いながら、いつしか夢の中へと入っていった。その手にな優奈からの手紙と、あの本が抱きしめられていた。
「あゆむちゃん起きて!もうすぐで夜が来るよ。」
ドリィがあゆむの体をゆさゆさ揺らしている。
夜?あぁ、そうか、この街は朝と夜が反対だったんだ。あゆむが目を開けると、ドリィのニィっとした顔が飛び込んできた。
「ねぇ、あゆむちゃん。サンドラさんが一緒にご飯食べようって言ってくれたんだ。ソフィアちゃんもいるんだよ。」
ドリィはよほど待ちきれなかったのか、起きるなりカルロ夫妻の所へと挨拶に行って来たらしい。
あゆむは起き上がるとドリィを後ろに向かせ、着替えを済ませた。
客間を出た途端、なんとも美味しそうな香ばしい匂いがあゆむのお腹を鳴らせた。パンを焼く匂いだ。ダイニングキッチンへと着くと、サンドラ夫人と家政婦が1人いて、せわしく食事の用意をしていた。
ダン•カルロは眼鏡を掛け新聞を読んでいる。ソフィアの姿が見当たらないと思ったら、危なっかしい足取りで皿を運んでいた。あゆむも急いでソフィアの手伝いをしにそばに行く。
「半分ずつ運ぼうよ。」
ソフィアはあゆむの言葉に大きな瞳をパチパチならし、黙って頷いた。
ドリィも手伝いたいのか2人の姿を嬉しそうに追い回している。
「ドリィ、少しは落ち着いてよ。危ないでしょう?」
「ごめんよ。僕、決して邪魔するつもりはないんだけどなぁ…。」
あゆむにとうとう注意を受けたドリィは、小さく肩をつぼめダン•カルロの隣へと大人しく座っていった。そんなドリィの様子を見てあゆむとサンドラ夫人は顔を見合わせ笑った。ソフィアはまた静かな目でドリィを見ていた。
それからの食事の時間はずっと笑いが絶えないでいた。雑貨屋の息子の話題になったり、宝石屋のご主人の話題になったり。
あゆむは家での食事ではいつも1人で食べていたので、なんて楽しいひと時なのだろう、そう思った。
「ねぇ、ソフィアちゃん。ご飯食べ終わったら一緒に遊ぼうよ。」
ドリィの突然の誘いにソフィアは少し面食らっている。何も答えないでドリィを見つめていた。
ソフィアはさっきからずっとドリィのことばかり見ていた。
「ん?いいんじゃないか?ソフィア。先生がいらっしゃるまでまだしばらく時間があるしな。」
ダン•カルロがそう言うと、ようやくソフィアが口を開いた。
「えぇ、そうね。私もお2人と少し話がしたかったし…。先生がいらっしゃるまで遊びましょう。」
ソフィアはちらっとあゆむを見た。ドリィはよっぽど嬉しいらしく、あゆむに満面の笑みを見せた。嫌がられるんじゃないかと思っていたあゆむも、ホッと胸を撫で下ろしたのである。
それから2人はソフィアの部屋へと向かっていた。あゆむはまさかソフィアの部屋に誘われると思っていなかったので、ちょっと緊張した。
「どうぞ。」ソフィアが中へと促した。
室内に入ると、鮮やかなピンクや赤の薔薇模様が散りばめられた部屋が2人を迎えた。
「わぁ!可愛いお部屋なんだねぇ。それにとっても良い匂いがするよ。」
所々に置いてあるポプリからさまざまな花の香りが漂う。
ドリィが一つ一つくんくんと鼻をならしながら、
「あゆむちゃん、僕女の子のお部屋入るの初めてなんだ。」
あゆむにそっと耳打ちした。
「さっ、バルコニーに出ましょう。」
ソフィアがドリィを無視するかの様に言った。さっきまで穏やかな表情をしていたのに、今のソフィアは別人の様だ。
「ほらドリィ、行くよ。」
あゆむはソフィアの変貌に戸惑いつつもバルコニーへと足を運ばせた。すでにベンチに腰掛けているソフィアが2人を見つめる。
「ここは静かだね。今日は風がとっても気持ち良いや。」
ドリィは自分に注がれているソフィアの冷たい視線を、知ってか知らずか、のん気な声を出した。
ソフィアの部屋からは客間とは反対に街が一切見えないが、その代わり限りなく続く夜空が広がっていた。
今夜は満月だ。昨日よりも何倍もの星が散りばめられていた。雲が一つもないこの夜空からあゆむは目を離さないでいた。
「綺麗な満月だねぇ、あゆむちゃん。」
ドリィもソフィアには構わず手すりに頬杖をついている。
こら、ドリィ!何してんの?ソフィアに話しかけなさいよ!あゆむは心の中で叫んだ。
全くもう!私何を話したらいいのかわからないんだから!
「あなた達には、やっぱりこの夜空が綺麗に見えるのね。」
いつの間にかソフィアもあゆむの横に立っていた。じっと前を見つめているその横顔には、穏やかさが戻っている。
「ソフィアちゃんは綺麗だと思わないの?」
ドリィが言った。
「えぇ、ちっとも。こんなの見飽きたわ。」
ドリィに対しソフィアがまた冷たく言い放った。さっきからソフィアはドリィにとても冷たい。あゆむにはわざとそうしている様にも見えた。
「私の住んでいる場所では、こんなに綺麗な星空は見えないの。とても空気が汚れていて、見えたとしてもこことは比べものにならない程。だから初めて見た時、あまりのすごさに声が出なくなるくらい、感動したんだよ。」
あゆむの言葉を聞くと、ソフィアは何も言わずしばらく下を向いていた。何かまずい事でも言っただろうか?あゆむは思わずドリィのお尻をつねった。
「あいた!」
小さな悲鳴と共に跳ね上がったドリィだったが、あゆむの目配せに急いで人差し指を口に当て、シーのサインを返した。
しばらく3人とも黙ったままその場に立っていた。街の人の笑い声や音楽が徐々に聞こえてくる。気まずい重たい時がゆっくりと流れていた。
「ねぇ、お2人とも。私のことどう思う?」
ようやくソフィアが長い沈黙を破った。
「どうして笑わないのかなぁって、僕思うよ。」
すぐさま、ドリィが答えた。
「じゃあ、どうして皆あんなにも笑ったりするの?」
「楽しい時とか、嬉しい時とか自然に笑顔になっちゃうんだと思うよ。僕にだってよくわからないけど、きっと、そうさ。」
ドリィはソフィアにニィっと笑いかけた。それにソフィアが目をしばだててすぐに言い返す。
「今あなたはどうして笑ったの?何も嬉しいようなこと無い風に見えるけど。」
「そんなの決まってるじゃないか。だってずうっと話しかけてくれなかったソフィアちゃんが、やっと話してくれたんだもん。僕嬉しくなっちゃったんだ。」
ソフィアはそんなドリィをしげしげと見ていたが、やがて肩をすくめるとゆっくり話し出した。
「私ね、別に意識して笑わない訳じゃないの。この街は確かに素晴らしいのかもしれない。パパやママだってとても優しいし、嫌いなんかでもないわ。ただ、この街を創ったペティーの様な笑顔を見せてあげることは出来ないけど…。皆が嬉しい時とか、楽しい時とか、そういった気持ち……、私には良くわからないんだもの。自分でも変わっているのかもしれないって時々思ったりするけど、仕方ないのよ。本当にわからないんだから。」
ソフィアはそう言うと、ドリィから目を離した。
ソフィアの言葉はとても寂しい言葉なのだが、ソフィアからそういった感情が読み取れない。この子はまるでロボットだ。あゆむは思った。嬉しいとか、楽しいとかの感情を知らないから、まして寂しいなんて思わないんだ。だとしたら、感動するなんてもってのほかだろう。
ふいにソフィアが口を歪めた。
「ねぇあなた、私のことどうにかして笑わそうとしているみたいだけど、あきらめた方がいいわ。悪いんだけど、あなたには無理よ。」
まるで他人事みたく言い放ったソフィアは、ふんっと鼻を鳴らすと、
「私ずっと嫌だったのよ、あなたのこと。だっていつでもへらへらしてて、なんだか気持ち悪いもの。」
またふんっと鼻を鳴らした。
「気持ち悪いって…ちょっと!ねぇっ!」
「あゆむちゃん、いいんだ。いいから……。」
ドリィ?ドリィがあゆむの腕を強く握って止めさせた。ゆっくりと首を振りうつむいている。
ソフィアの意地の悪い視線が嫌でも伝わってくる。胸がカッと熱くなり頭に血が上る。ソフィアはドリィのショーを見た時からそう思っていたのだろう。だからあんなにも冷たい顔をしてドリィを見ていたんだ。
「さ、2人とも。もう出てってちょうだい。もうすぐで家庭教師の先生がお見えになるから。」
ソフィアの顔があゆむには勝ち誇って見えた。
「そんな……!」
あゆむはつい言い返してしまいそうになり、慌てて口をつぐんだ。ずっとドリィがあゆむの腕を掴んでいるものだから。
「ドリィ、先生が来るんだって。さっさと行こうよ。」
こう言うのがやっとだった。ドリィを前にして変な事を言ってしまわないように、努めて冷静に。
「ドリィ?」
突然ドリィがうずくまったのである。まさか泣き出すんではないだろうか。ドリィ⁉︎辛いのはわかるけど駄目だよ今泣いちゃ!あゆむも慌ててしゃがみ込む…。
「あゆむちゃんの靴って…ずいぶん汚れてるねぇ。」
ドリィがあゆむを見つめた。
「へ?」あゆむの声が裏返る。
「本当だわ、私のと全然違う。どうしたらこんなに汚くなるのかしら。それに、こんな汚れた靴、私見るの初めてよ。」
ソフィアまでもがドリィと同じことを言ってくる。
「泥がいっぱい付いてるね。」とドリィ。
「えぇ、こんなんじゃ部屋にも泥が付いてしまうわ。」とソフィア。
「ソフィアちゃん、この泥、森を歩いて付いたんだよ。」
「森って、下にあるあの森?こんなにも汚れるの?」
ふぅ〜んとソフィアは大きく頷いた。
「ちょっと!2人とも失礼ね!家に上がる前に靴底の泥はちゃんと取ったわよ!こう見えても、裏は綺麗なんだから!」
とうとう大声を張り上げたあゆむを、なんの騒ぎだとソフィアが驚いて見上げる。しまった!……と思っても、もう後の祭りである。
まだなお、食い入る様に見ているソフィアに何か言おうと口を開きかけた時、誰かがドアをノックした。
「あ、先生がいらっしゃったわ。」
ソフィアは立ち上がると、ドレスの裾をヒラヒラなびかせながら、ドアの方へと走って行ってしまった。
あゆむは腕組みをし、ドリィを睨んだ。ドリィはあゆむに引っ叩かれると思ったのか、両手を後ろに回し目をぎゅっと瞑って待機している。
あゆむはそんなドリィの姿を見て怒る気をなくしたが、それでもドリィが薄目を開けたのと同時に、左右の頬っぺたを思いっきりつねった。
「いぇだい!いぇだいいぇだいだいだいだい!」
あゆむがパッと手を離すと、ドリィの頬は見事に真っ赤になった。
「ごめんよ、あゆむちゃん。僕の事嫌いになった?」
頬をさするのを必死に堪え、ドリィは小さく呟いた。
「嫌いになんかなってないけど、ひどいよドリィ!私だってわざと汚した訳じゃないのに…。それにドリィがショックを受けちゃったんだって思って、心配したんだからね。」
「うん…ごめんなさい。嫌な事言っちゃった…。でもね僕わかったんだ。あゆむちゃんの靴に泥が付いてて良かったんだよ。…だからごめんね。」
「また、何を訳わかんないこと言って。」
部屋ではすでに家庭教師の先生がソファーに腰を下ろしていた。サンドラ夫人も一緒だ。
ドリィはソフィアに、
「お勉強頑張ってね。ソフィアちゃん、また後でね。」
と元気良く声援を送った。
あゆむもサンドラ夫人に軽く会釈をし、急いで部屋を後にする。なんだかソフィアの顔を見ることが出来なかった。ソフィアの目線が痛い程、自分の靴に注がれていたからだ。あゆむがドアを閉めるまでソフィアは靴を見つめていた。
「ドリィ、ねぇ!どういう事?何がわかったのか教えてくれる?」
あゆむはソフィアの部屋を出るなりドリィに問いただした。
ドリィはというと、そんなあゆむを焦らすかの様にキョロキョロ周りを窺っている。そして、もともと低い背をさらに低くし、こそこそと話し出した。
「あのねあゆむちゃん。ソフィアちゃんはこの街以外の事を全く知らないんだと思うんだ。だから僕見せてあげたいんだ。この街の中では絶対に味わえないことを、ソフィアちゃんにも知ってほしい。そしたらきっと笑ってくれるよ。」
「まさか!ドリィ、ひょっとしてソフィアも旅に連れて行く気なの?そんなことしたらサンドラさん達絶対反対するに決まってるよ!」
あゆむが興奮のあまりつい大きな声を出してしまった為、ドリィはすかさずシーのサインをして、
「ううん、違うよ。そうじゃなくって、あゆむちゃんの靴の泥を見てわかったんだ。」
またまたわからないことを言うのである。
「ちょっとドリィったら。そんなんじゃわかんないよ。ちゃんとはっきり言ってったら。」
その時、ガチャっとソフィアの部屋が開き、中からサンドラ夫人が出てきた。
「あら?お2人とも。どうしたの?こんな所で立ち話?」
ドリィは待ってましたとでもいう様に笑いかけると、
「サンドラさん、サンドラさんもちょっとこっち来て、一緒にしてもらいたいことがあるんだ。」
声を落としたままサンドラ夫人とあゆむの手を引き、ドリィはこれから何をするのかようやく話し始めた。
こうして階段の踊り場では3人の奇妙な会議が続けられていったのであった。