新たなる場所
ガッ…タンッ!
電車がずいぶんと乱暴な音を立てスピードを落とし始めた。それと同時にあゆむの体も大きく揺れ、手すりにおでこを思いっきりぶつけてしまった。あゆむはどうやら眠っていたようである。
何が起きたのか訳もわからず、それでもまだ強い眠気に誘われたので瞼を半分落とそうとした……⁉︎
あゆむは急いで目を開けた。目の前の眺めに一瞬にしてあゆむの体は固まった。……車内がさっきまでとはまるっきり違うではないか!
木の手すりに、木の椅子。木の扉に木の壁、木の床…。全てが木で出来ていた。しかも、このおんぼろようときたら、ひどいみすぼらしさで、とても雑な作りだ。何本もの釘で打ち付けてあるだけの窓の無い壁。何とも座り心地の悪い椅子。さすがに釘は出てないが、キノコが所々に生えていた。
床には隙間が空いていて、足元からはぴゅんぴゅんと生ぬるい風が吹き付けてくる。
「……何なの…これ……?」
あゆむはかすかな息と共に声を絞り出した。
そうだ!私まだ夢の中にいるんだ。あゆむは小刻みに震える体を抱きしめた。なんとかして冷静さを取り戻す。もう一度目をしっかりと閉じるが、もう夢ではないことはわかっていた。
無駄だと思いながらも自分の頬を強くねじってもみる。やっぱり痛い…!どうしてこんなことに?
あゆむはパニックに陥りそうになるのを必死にこらえるしかなかった。
電車は相変わらず走り続けている。
私を何処へ連れて行く気なのだろう…。何せ、窓が無いので外が見えないのだ。なんとかして壁の隙間から外を見ようとしたがよく見ることが出来ない。
扉らしき箇所を叩いたり、蹴ったりもしてみたがびくともしない。おんぼろそうなこの電車は意外にも頑丈な作りだった。
あゆむがあきらめて座席に戻ろうとしたその時!電車がまた大きな音を立て止まった。急に止まったものだから、あゆむの体は勢いよく前に飛ばされそうになった。
大急ぎですぐそばの手すりにしがみつく。どうやら何処かに到着したらしい。あゆむは扉がガタガタと不器用な音を立てながら開くさまを、ひたと見据えた。
そこに飛び込んできたのは、なんという見事な……。あゆむがこれまで一度も目にしたことのない、大きな大きな森だった。
「降りてください。」
「ぎゃぁぁぁ!」と悲鳴を上げたあゆむの体は、少なくとも30cm以上は飛び上がっただろう。あゆむの他に人がいたのだ。だか、周りをどんなに見回しても人の姿が見当たらない。
「早く降りてください!」
もう一度その正体不明の声が車内に響き渡った。
背筋から寒気が襲ってきて、あゆむは鞄を手に取り震える足がもつれそうになるのをなんとか防ぎながら、恐る恐る電車を降りた。その瞬間、ピシャリッ!とさっきとは違う機敏な音を立て、扉が閉まった。
外から見るとなんとも奇妙な木箱の様な電車は、ガッタンゴットン………森の奥へと消えて行った。
さぁ…どうする。あゆむはとうとう本当の一人ぼっちになってしまったのだ。ここは本当に駅なのだろうか。降ろされたその場所には、プラットホームも線路さえもなかったのである。
絶対に降りるべきじゃなかったんじゃないかしら……。あゆむは成すすべもなく、その場に立ち尽くしていた。
かなりの深さのある森だが思いのほか明るく感じる。きっと天気が良いのだろう。何処からともなく暖かい日差しが舞い込んでいる。木の葉がそれに反応して、キラキラ光って見えた。上の方からは鳥のさえずりも聞こえてくる。
どのくらいの高さなのかな。上を見上げながらあゆむは思った。空が小さく見える。その空を雲がのんびりと泳いでいるのが目に入った。
あゆむが深呼吸をすると、緑の香りが飛び込んできた。
なんて良い匂いなんだろう…。そう思うとあゆむは何度も何度も深呼吸を繰り返した。時折吹く冷たく心地の良い風が、そんなあゆむの頬を優しく撫でていった。
さて、これからどうしようか…。終点なので、始発があるかもしれない。いくら線路が無くたってあの木の電車は走って来たのだから。だがあゆむの期待も虚しく、どんなに待っても一向に電車は姿を現しそうになかった。
今度は時刻を知ろうと腕時計を見たが、時計の針は6時を示したところで止まっていた。不安で胸が張り裂けそうになる。後悔の思いがあゆむの心によぎったが、あゆむは慌てて息を吸い込んだ。
「後悔しても、もう遅いんだ!」
あゆむの声が森中に響き渡った。涙が出そうになったが、何かに負けてしまいそうな気がして必死にそれを押し込んだ。
とにかく前へ進むしかない。前へ進もう。このままここにいても何も始まらない。あゆむはそう思うと鞄の中にある口紅を手に取った。道に迷ってしまわぬように木に印を付ける為にだ。
慎重に印を付けていく。ふと後ろを振り返ると、さっきまであゆむが居た場所が何処なのか、全くわからなくなっていた。同じような景色が永遠と続いている。
こんな所、印が無かったら即座に迷ってしまうだろう。口紅がこんな形で役に立つとは思わなかったな。
「そう!大丈夫!印をを付けてるんだもん。迷うことなんかない!」
あゆむは自分で自分を励まし、また前へと進んで行った。
どのくらい歩いたのか、口紅はかなりの量を減らしていた。
あゆむはもうへとへとだった。相変わらず何処を見ても果てしなく森が続いている。たった今印を付けた木に身を寄せると、あゆむはその場に座り込んでしまった。
駄目だ…もう一歩も歩けない。それにお腹が空いた。お菓子くらい持ってくれば良かったな。もしかしたら私はここで死んでしまうのかもしれない。誰にも知られずに一人ぼっちで…きっと死ぬんだ。
私が死んだら皆悲しむかな。両親や姉はどう思うだろう。いや、きっとせいせいするに違いない。そうだ、優奈はどうだろう。悲しんでくれるだろうか。
あゆむの視界がほんやりとぼやけ始めた。
「泣いてたまるもんか!」
あゆむはそう叫ぶと強く強く唇を噛み締めた。
いつの間にか鳥のさえずりが止んでいる。とても静かに感じた。どうしたんだろう……何かさっきと違う?あゆむは辺りを見回した。その瞬間!強い風が吹き木立がザワザワと音を立て揺れ出した。
怖い!あゆむは急いで立ち上がり鞄を胸に抱き寄せた。何かがやって来る、そんな気がしたのだ。
ザワザワザワザワザワザワザワザワ……
木立はまだ風に揺れている。ザワザワザワザワ……
あゆむはかたずを飲んで見守った。大きくてとても深い森の、何処までも続く木々達の揺れを、じっと身を構えて静かに見守った。
すると、歌声が何処からか風に誘われて、あゆむの耳に飛び込んで来たのだった。
どうか僕の姿を見て笑っておくれ
どうか僕の姿を見て楽しそうに笑っておくれ
お腹を抱えてどんどん笑っておくれ
僕はそんな君の笑顔が見たいんだ
早く見せておくれ 僕を笑っておくれ
この歌は…?一体誰が何処で歌っているのだろうか。あゆむの足は自然に歌の聞こえて来る方向へと向いていた。何か見えない糸で引っ張られる様に、あゆむの足はその方向を目指して動き始めた。
僕の姿を見た君はどんな思いだい?
きっと楽しくてもっと見たくなるに決まっている
だから僕は力をこめて頑張るのさ
僕は君の笑顔がもっと見たいんだ
早く見せておくれ 僕を笑っておくれ
歌声がとても近くに感じた。ずいぶん奥へと進んでしまったようだが、その歌声の主に会えるのならば、あゆむの気持ちは迷うことなく進んで行った。
出口へと近づいているのだろうか、うっそうと生い茂っていた木々が段々道を空け始めたのだ。
光が一気に舞い込んだ。あゆむはあまりの眩しさに我慢出来ず、両手を目の上にかざした。
あれ?歌声が……消えた?
その場所は出口ではなかった。森がぽっかり口を開けた様な、円形状の空き地だった。中央にある大きな切り株以外は、一面にまるで柔らかい絨毯の様に、あゆむの足首辺りまでくる草が生えていた。
鳥達が何処からかやって来て切り株の上に止まると、楽しそうにおしゃべりを始めた。とても綺麗で、とてものどかな光景だった。
あの声の主は一体何処へ行ってしまったのだろう。声が聞こえたのは確かにここのはずなのに…。
あゆむは肩をすくめ力なく切り株の上に腰を下ろした。
無我夢中で進んで来てしまったので、もちろん木に印を付けることなど忘れていた。口紅は無惨にもあゆむの手の中でべっちゃりと潰れている。これであゆむの命綱は切れてしまったのだ。
もうどうでもよくなってきた。そう思うとあゆむは鞄からティッシュを取り出し、手のひらを拭いた。
せっかく誰かに会えたと思っていたのにな…。
ふうっと肩の力を抜く。そして先程の歌を口ずさみ始めた。小さな声で足でテンポを取りながら歌った。
あゆむは歌うのが大好きだった。よく皆でカラオケに行き得意としている曲を熱唱したもんだ。我ながら上手いと自賛していた。
あゆむが段々大きな声でそして自己流で歌い続けていると、すぐ背後からあゆむに合わせるように、先程の歌声が聞こえてきたのだった。
「えっ……⁉︎」
驚きあゆむはすぐさま振り返った。
そこには一人の少年が立っていた。少年はあゆむを見て顔をニヤニヤさせた。
その少年はあゆむと同じくらいの身長で、あごの辺りまであるフリル付きの襟の白い半袖のブラウスを着ていた。サスペンダーを両肩に引っ掛け、紺色の半ズボンを履いている。その下は白タイツに赤色のくるぶし辺りまでのブーツ。つま先はとんがって上を向いていて、その先には黄色のぼんぼりが乗っかっていた。
襟元には赤くて細いリボンがちょうちょ結びに巻かれており、耳まで掛かる長さのいかにも柔らかそうな癖っ毛は、見事なブロンドだった。
嬉しそうにニィっと笑っているその顔は、ペンキでも塗ってあるかの様に真っ白で、左目の下には水色で涙の形が描かれてある。真っ赤な色をした唇がとても印象的なその少年は……まるでピエロの様だった。
「僕の歌、気に入ってくれたの?」
驚きのあまり硬直しているあゆむに、その少年はますますニタニタ笑いを繰り返した。少年の声はまだ若い。あゆむと同じくらいだろうか。
あゆむは一人じゃなくなったという安堵と、この少年があまりにも普通じゃないという不安で胸がいっぱいになり、力なくまた切り株へと腰を下ろした。
少年はそんなあゆむを見つめ、ピョンっと飛び上がると切り株の上に着地し、あゆむのすぐ横に座った。顔を赤らめているのか白くてわからないが、はにかんでいる。
マリンブルーの色の瞳をしたまん丸の目がとても可愛らしい。よく見ると、鼻や頬の上には幾つものそばかすがのっかっていて、髪の毛と同じブロンドの眉毛が生えていた。そして、白い肌には全くといってムラがない。あゆむは何かで変装をした子供と思っていたが、そうではないことを悟ったのである。
少年に聞きたいことは山ほどあった。ここは一体何処なのか。一体今は何時で、一体少年は何者なのか。いくつの歳で、ここで何をしているのか。どうやったら森を抜けれて、そして森を抜けた先は一体どの場所に辿り着くのか……。
だがそれらの質問はどれもこれも喉に引っかかったまま出てこなかった。あゆむはこの奇妙な少年を前にして、ただただ見つめることしか出来なかったのだ。
少年も少年で、足をぶらつかせながらあゆむの様子をうかがっている。あゆむが目を逸らすと覗き込み、あゆむと目が合うと恥ずかしそうに目を逸らした。そんな時間がしばしの間流れたのち、ようやく2人の会話が始まったのである。
「やぁ!僕はピエロのトンプソン。まぁピエロといってもまだ半人前なんだけどね。」
少年はそういうと肩をすくめた。
「トンプソン?それあなたの名前なの?」
少年の突然の自己紹介に驚いて、あゆむは反射的にに聞き返した。
「そうだよ。どう?笑える名前かい?」
あゆむが口をきいてくれたので、少年はとても嬉しそうだ。
「聞きなれない名前だとは思うけど、別に笑えはしないわ。」
不意をつかれ、少し戸惑いながらそう答えたあゆむは、少年の次の言葉を待った。少年は何やら考え込んでいる様子だ。
「そうかぁ…。じゃあ、どういう名前だったら笑えるんだい?」
と、少年。
「そんな、急に聞かれたって…。ねぇ、トンプソンだっけ?笑える名前が欲しいの?」
そう聞いたあゆむに少年が元気よく頷いた。
「そうさ!どうしても笑える名前が僕には必要なのさ。でも、突然じゃ困らせちゃったよね。ごめんよ、君と話をしたくって僕つい慌てちゃったんだ。」
少年は申し訳なさそうにあゆむを見つめた。
「いいよ、別に。そうだなぁ…、ねぇ!ぶたっぱな、あおっぱな…は?あなただったらどっちが良い?」
あゆむは人見知りで普段なら黙り込んでしまうのだったが、不思議とこの少年に対しては平気だった。
「ぶたっぱなはわかるけど、あおっぱなってなんだい?」
少年は楽しそうに顔を近づける。
「緑色の鼻水を垂らしてる子を見たことない?」
少年が首を傾げているのであゆむは話を続けた。
「とってもねばっこそうなやつよ。気持ち悪いったらありゃしない。風邪をひいたり、ひどい時にそんなのが出やすいかもね。」
あゆむの説明を聞くと、少年は人差し指で下唇を上に上げ少し考えながら、
「緑色のねばっこいやつか…。じゃあ僕はあおっぱながいいや。」
そう言った。どうしてかとあゆむが聞くと、
「だって、なんだか笑えるだろう?」
少年はそう答えた。
なんでこの男の子は笑える名前がそんなにもして欲しいんだろう。きっとトンプソンっていう名前でもないんだろうな。
あゆむが不思議そうな顔で少年を見ていると、少年はそんなあゆむの問いに答える様に話し始めた。
「さっきも言ったように、僕はまだ一人前のピエロじゃないんだ。だから、なんとかして一人前のピエロに近づく為に、まずは名前から笑わせたいのさ。もちろん、ピエロみんなの名前が面白い訳じゃないんだけど、ほら、自己紹介の時に相手が笑ってくれたらどんなに良いだろうって思ってね。」
そう言うと少年はまたニィっと笑った。
「ねぇ、ひよっとしてさっきの名前はあなたの名前じゃないの?」
今度はあゆむが顔を近づける。トンプソンってこの男の子、きっと一生懸命考えたんだろうな。あゆむはその様子をちょっと想像した。
「うん、そうだよ。でも僕の名前ってばいたって普通だからあんまり言いたくないんだ。」そして、
「だからこれから僕の名前はあおっぱなさ。君に付けてもらったんだ。どうだい?良いだろう?」
少年は弾けた声を出した。なんだかとてもノリノリの様である。
あゆむはそれには困ってしまった。あおっぱなだなんて…。私は漫画に出てきそうなキャラクターを想像して言っただけなのに。この男の子、本当にあおっぱなを名前にするつもりなのかしら。まさか!
あゆむがどうしようかと悩んでいたら、ノリノリのあおっぱな少年が聞いてきた。
「ねぇ、そういえば僕君の名前を聞いてなかった。教えてくれる?」
「え?私の名前?私はあゆ……、そうだ!」
あゆむはちょっと意地悪く眉を上げた。少年が不思議そうな顔で見つめる。
「あなたの本当の名前を教えてくれたら、私も言う。それにやめてくれる?あなたに選ばせたのは確かだけど、あなたにあおっぱなは似合わないわ。」
今度は少年が困る番だった。え〜っと言わんばかりの顔をしている。落ち着きがなくもじもじした。
その姿がなんとも愛らしい。あゆむを横目でチラッと見ると、
「じゃあ言うけど、僕の名前はドリィっていうんだ。普通の名前だろう?あおっぱなは気に入ったけど、仕方ない。あきらめるよ。」
ドリィというこの少年は、よっぽど名前を変えたかったのだろう。本当に残念そうな顔で、肩を落とした。
「ふぅーん、ドリィっていうんだ。素敵な名前じゃないの。あおっぱななんかよりずっとあなたに合っているよ。」
そんなあゆむの言葉に、ドリィはまたチラッと横目であゆむを見た。
「私の名前はあゆむっていうの。笑える名前かどうかはわからないけど。ねぇドリィ、私も自分の名前はあまり好きじゃないけど、生まれた時から付いている名前だもの。きっとそれが自分に合っているのよ。それにいくらピエロで笑わせたいからってそうコロコロ替えるものではないと思うけ…ど…。」
あゆむは話を止めた。あゆむが話している最中、ドリィに自分の顔を食い入る様に見つめられているのが、なんとも恥ずかしくなって急いで体を横へとずらした。確かに励ますつもりで言ったけど、そんなにも夢中にならなくても…。
ドリィは自分から離れたあゆむを不思議そうに見つめていたが、あゆむと目が合うとたちまちニィっと笑った。
「そうかぁ、僕に合っているのか。それに素敵だなんて言われたのは初めてだ。うん、これから僕はドリィに戻るんだ。あゆむっていう名前も僕は好きだなぁ。ありがとう!あゆむちゃんっ。」
そしてドリィはまたニィっと笑った。
ドリィは不思議な少年だった。ピエロだからなのか、あゆむの心をほぐしてくれる。初めはあまりにも現実的じゃないので、自分の頭がどうかしたのか、そう思っていたがそんな思いは吹き飛んでいった。
あゆむはドリィとの会話をますます楽しんだ。
ドリィに頷くとあゆむは微笑んだ。それを見てドリィはますます嬉しそうに、ニィっとした。まるでその顔はあゆむの笑みを待っていたかの様である。構えていないあゆむの顔を、ドリィははにかみながら見つめた。
あゆむはまた少し恥ずかしくなったが、それと同時に心が温かくなり、そんなドリィにいつしか打ち解けていった。
それからもっとドリィのことを知りたいと思ったあゆむは、さまざまな質問をし始めた。
どうやら一人前のピエロになる為には、修行が必要らしい。あゆむはピエロといえばサーカスにいて、あらゆる道具を使い、観客を笑わせる者と思っていたが、
「手品や一輪車、それにバルーンなどを使って芸をするのはわかるけど、サーカスって一体なんだい?」
ドリィが瞳をまん丸くして、あゆむに聞いた。
「大きなテントを張ってその中に大勢の観客を入れるの。そこでは色々な芸を見せるんだけど、ピエロの主な役目はとにかく観客の心をほぐし盛り上げていくことなの。でも私も本物のサーカスを見たことがあるわけじゃないから、良くわからないけど。」
「へぇー!そんなのがあるんだぁ。いいなぁ……。あぁ僕サーカに出てみたい。一人前のピエロになった僕がそこに立って、皆を一斉に笑わせるんだ。たくさんの人達の笑い声がテントの中で響くんだろう?一体どんなだろう。僕、聞いてみたいなぁ。」
ドリィは大きく息をついた。そう言ったドリィの目はとても輝いている。
ドリィはそんなにもして人を笑わせたいんだ。あゆむはピエロなんてただの脇役だと思っていたし、それに少し気味の悪いものだと思っていたが、なんとかしてその思いを押し殺した。
私なんてほんの少しでも笑われたり、馬鹿にされたりしたらたまらないけどなぁ…。
「ねぇ、ドリィ。一人前のピエロ達は一体何処で笑わせているの?」
あゆむが思いに更けだしたドリィに聞いた。
「街の広場だよ。でも一人前のピエロになったら他にもすることがあるらしいんだ。僕にはまだわからないけどね。」
そう答えるとドリィは、
「あぁ……サーカスがあったらいいのに。そうだ僕が一人前のピエロになってサーカスを作っちゃおうかな。そして僕は耳が壊れてしまう程の笑い声で包まれるんだ。」
そう言うと、自分の膝に頬杖をついた。どうやらサーカスのことで頭がいっぱいらしい。
「ねぇ、さっき修行って言ったけど、どんなことをするの?」
あゆむはまた尋ねた。
修行といっても芸を練習するのではなく旅に出るそうだ。一人前のピエロにならないと、芸を覚えることも、また例え覚えたとしてもすることが出来ないらしい。ただ、歌や踊りなら許されるそうだ。
旅をしながらポイントを稼ぎ、そのポイントが貯まったらようやく一人前のピエロになることが出来るみたいだ。
「誰かを笑わせるだろう。そしたら、1ポイント入るんだ。その場に何人かがいたとしても関係ない。それで1ポイント。僕が選んだ人だけ笑ってくれたらそれでいいんだ。」
とドリィは言った。ポイント制か、なんだか変なの。あゆむは思った。
「ねぇ、ドリィ。そのポイントの判定は一体誰がするの?それにドリィが人を選んでいいだなんて、ちょっと簡単すぎない?」
そんなあゆむの問いにドリィは相変わらずニタニタしている。
「見せてあげるよ。」
そう言うと、ドリィはズボンのポケットから何かを取り出した。
それは1本のクレヨンだった。だが、普通のクレヨンではない。赤•黄•青•緑•橙、それら5色の色が付いていた。その周りを金と銀の粉の様な光がキラキラと取り巻いている。
「うっわぁ…!」
あゆむは息を漏らした。なんて綺麗なクレヨンなんだろう。まるで虹みたいだ。
「ただ、笑わせるだけじゃ駄目なんだ。心から笑ってくれなきゃ。そして僕が本当にその人の役に立てたかどうかを判断し、ポイントを与えてくれるのが、このクレヨンってわけさ。」
ドリィは言った。そのポイントというのは点数のことではなく、ドリィの顔や、洋服に、色や模様が付いていくことらしい。1ポイント貰えるごとにドリィの姿が変わっていく。そう教えてもらったのだが、あゆむにはまだなんとも理解することが出来なかった。
「とはいっても、みんなそれぞれなんだ。姿が変わるのに、うんと時間がかかる子もいれば、すぐに集まる子もいるんだ。例えば1ポイントで靴と何かが変わる時もあれば、靴だけしか変わらない時もある。全ては運次第って訳さ。僕が何よりも楽しみにしているのは、ここに星マークが付くことなんだ。でもそれは一番最後のポイントと決まっているから、まだまだなんだけどね。」
そう言うとドリィは右目の周りを星型になぞった。
「でもたいていは三日月マークからなのさ。それがその内星に変わっていく。きっと僕もそうかなぁ…。だから僕はまず三日月を目指さないと駄目なわけ。なんとも遠い話だよ。」
ドリィは首を振った。
ドリィはこれから修行の旅に出かけるとこらしい。あゆむはぜひともドリィが変わっていく様子を見たいと思った。そして何よりも一人になりたくない。私がついて行きたいと言ったらドリィはどう思うだろう。あゆむはドリィに断られると思うと素直に言葉が出てこないでいた。
「ねぇ、あゆむちゃんはこれからどうするんだい?何処か行くの?」
あゆむにドリィが尋ねた。
あゆむはとても不安だった。ついて行きたい!…そう思うのだが、
「ねぇ、ドリィ。私そろそろ行かないと。この森の出口を教えてくれる?私わからなくて。」
と、ついこんなあまのじゃくな言葉が口からこぼれ落ちた。
「出口?簡単さ。そこの道をしばらく真っ直ぐ行けば、森の外に出られるよ。」
ドリィはあゆむの気持ちを探る訳でもなく、そう答えた。
ドリィが指差す方向を見ると、何処にも道など無くやっぱり永遠と森が続いている。
「わかった、真っ直ぐ行くのね。…じゃあ、ドリィ元気でね。」
あゆむはやっぱり人見知りの自分を隠せなかった。とうとう、この不思議な少年ドリィとの短い付き合いも終わってしまうんだ。
ドリィがまたあゆむを食い入る様に見つめている。あゆむが横目で見ると、ドリィがニィっと笑った。
「ねぇあゆむちゃん、一緒に行こうよ。行ってくれるのかと思ったのに。」
ドリィの無邪気な声があゆむを繋ぎ止める。
「え?でもドリィ、だって……。」
あゆむは口ごもった。
「ねっ、一緒に行こうよ。いいだろう?」
「うん……。いいけど…別に。」
重ねて誘うドリィの言葉にとても小さな声でそう答えるのがやっとだった。
あゆむは心の中で何度も自分をなじった。
全く本当に素直じゃないの!いいじゃない、だってこんな森に来ると思ってなかったんだもん、1人より2人の方がずっと心強いし……本当に素直じゃないんだから!きっとドリィがいなかったら、自分の頬を思いっきり叩いていたことだろう。
ドリィがまたあゆむを覗き込むものだから、慌ててあゆむは横を向いた。
こうして、ドリィという不思議な少年とのあゆむの旅も、始まったのであった。