ちっぽけな自分
「そうですか…。私はあの子がちゃんと学校へ行っているものだと思っておりましたので……。」
彼女はとても悲しそうな顔で、今にも泣き出しそうだった。
まだバレていないだろうと思いこんな時間に家に帰って来たのが間違いだったな。おかげで私はこんな場所で立ち往生をくらっている。
彼女は本当に困った時に、大きなため息をつきながら手のひらで顔を拭うのが癖だ。私はその癖を見るのが大嫌いだった。やり切れなくなり、とても自信を失ってしまうからだ。
今また彼女はそれをしている。
「本当にわざわざ申し訳ありませんでした。あの子にはよく言っておきます。……はい、そうですか。先生、本当にありがとうございます。それと、あの…まさかいじめとかには……、あ、そうですか。わかりました。はい、失礼致します。」
…カチャン…
彼女はそっと受話器を置くとその手を離さずにその場に立っていた。とても背中が小さく見えて少しぽっちゃりしている彼女の体型が、今は痩せて見えた。
私はその姿を見終わると、静かに靴を脱ぎ自分の部屋に行こうとした。
「あ…おかえり。」彼女の声が背後から聞こえた。
いつもの様に作り笑顔で、無理に出した明るい声だ。私は何も言わず階段を上り急いで自分の部屋へと滑り込んだ。
彼女のその後の行動は嫌でも想像出来る。とても暗い顔をし、音も立てず廊下を歩き、リビングにあるソファーへと腰を下ろす。そしてまるで生気を失ったかの様なやつれ顔でうつむく。時々大きなため息をつき、手のひらで顔を拭う。
その姿が嫌でも浮かぶ。
「もう……うんざり!!私のことなんかほっといてよ!大きなお世話なんだよ!」
私は声を荒げ持っていた鞄をベッドに放り投げた。
そろそろ夕方の5時半をまわる時間だ。季節は7月に入ったばかりで外はまだ明るい。梅雨も明け、これからは1年で最も暑い日々がやってくる。
早く用意しないと待ち合わせの時間に遅れちゃう。
私がこの時間に家に帰って来た理由は他でもない。友達と街で遊ぶ為の洋服を取りに来たのだ。私は彼女が部屋にやって来る前に家を出ようと、大急ぎで荷造りを始めた。そして綺麗に掃除された部屋をぐるり見回した。帰るといつも見事に整頓されている。彼女がしているのだ。
「ふんっ!馬鹿みたい…。」
そう独り言を言うと、ついさっきまで鞄に入っていた荷物をわざと汚く床に散りばめた。
その時ドアを叩く音が耳に入った。
うっとうしい……。そう思った私だったが、それでも仕方なしにドアを開けた。ドアの向こうに彼女の姿があった。その顔はとてもやつれており、少し涙のにじんだ目で私を見つめていた。
「何か用?」
私は彼女の目を見ずに言葉を投げかけた。
「あゆむちゃん、さっきあなたの担任の先生から連絡があったの。お母さんてっきり学校に行っているものだと思っていたから、とても驚いたわ。それも何日もって……。」
「話はそれだけ?悪いんだけど急いでるから。」
私は彼女の話を遮った。彼女の言い方はまるで私の機嫌を伺っているかの様だった。
「それだけって!あゆむちゃん、学校嫌いなの?それとも何かあったの?」
「何もないから別に。私用事あるから。」
私は何故だか彼女と向き合うだけでイライラしていた。彼女の悲しそうな顔を尻目に階段を降り家を出ようとした私を、彼女の悲しそうな声が勢いよく追いかけた。
「もっとちゃんと話してちょうだい!どうして何も話してくれないのよ、お母さんあなたが心配なの……。」
だんだん声が小さくなる。
「あゆむちゃん、あなたはまだ13歳なのよ!」
そこまで言うと彼女はもう泣いていた。彼女は泣き虫だ。自分の娘に怒鳴ることも出来ず、注意さえもままならない。何か言いかけたと思ったらこれだ。情けなくてなんだか頭にくる。
私は必要以上に大きな音を出しドアを閉めた。弾けるようなその音が閑静な住宅街に響き渡った。
色気も何もない肌を出し、下手くそで似合いもしない化粧をべったり顔にくっつけている。大人びた格好をしているがそれでもやはりどこから見ても子供の姿をした少女は、底の高いヒールを履き颯爽とアスファルトを蹴り続けた。その姿は嫌でも目立つ。近所の人が執拗に少女を振り返る。わざとらしい程の囁き声にも動じず、少女は駅へと急いだ。
少女の名前は神崎あゆむ。留学中の姉が1人。父親は仕事の忙しさかあまり家に帰って来ない。だからこの少女、あゆむは、あゆむが彼女と呼ぶ母親との二人暮らしの様なものだった。
待ち合わせ場所までおよそ30分かかる。あゆむはこの途方にも長く感じられる時間が苦痛で仕方なかった。ガムを口の中に放り込み両手はポケットに突っ込み、周りを睨みつけた。チラチラあゆむを見る者、顔をあからさまにしかめる者、あゆむを上から下まで舐めまわす様に見る者、見たまま視線を逸らさぬ者…。
いつも通りの光景だった。
うんざりだこんな所!!
あゆむは思った。そして周りの大人達を馬鹿にした。とことん馬鹿にし、そうすることであゆむの心が、ほんの少し癒される気がするのだった。
待ち合わせ場所には3人の少女達があゆむを待っていた。汚れているアスファルトの上にあぐらをかき、荷物を広げ異様に大きな声で楽しそうにお喋りをしている。
この少女達も奇抜なファッションに身を固め、似合わない化粧をし、道行く人の注目を浴びていた。
3人共同じ学校の少女達だ。その少女達は人混みを掻き分けやって来るあゆむを見つけ、一斉に声を上げた。
「遅い、あゆむ!何やってたんだよ。」
「ごめんごめんー!」
あゆむの顔が笑顔に変わった。あゆむは苦痛から解放された気分になり、仲間の元へと駆け寄った。
こうしていつも通りのあゆむの生活が再開されたのだ。
誰もがあゆむ達を見て思うかもしれない。この子達は一体何を考えているのだろう、と。
少なくともあゆむ以外の3人はこの生活を楽しんでいた。子供だが、大人以上の化粧をし、着飾ることを知り、注目を浴びることでより一層楽しさが増す。仲間と一緒に居るのが楽しい。早く大人になりたいのか、それとも単純にこの若さだから良いのか。
あゆむは気分こそは解放されたが、決して楽しくはなかった。というよりも楽しいとは何なのかさえもわからずにいた。
よく大人達に言われた。子供らしくないと…。子供には子供にしか味わえない楽しみ方があるのだと。それが一体何であるのか今のあゆむにはわからなかったが、例えわかったとしても、そんなことを言われるのが大嫌いだった。父親が嫌いだった。母親とも少しも思うことの出来ない彼女も嫌いだった。近所の大人、その他全ての大人も、いや、今一緒に楽しそうにおしゃべりをしているこの仲間だってそうだ…。だが何よりも、自分のことが大嫌いだった。
あゆむは時々ふと思う。なんでこんなに楽しくないのだろう。どうして、私はこんなに楽しくない世界で生きているのだろう。何処か遠くへ行きたい…。
そしてこれが13歳の子供が考えて良いことなのだろうか……そう、他人事の様に考えてもいた。
夏の暑さが急速にやってきて、いよいよ日差しも強くなってきた。もうすぐ夏休みが始まるのだ。学校にはろくに行っていない自分達にはあまり関係のないことなのに、それでも周りの仲間は、夏休みに何をしようかと計画を練っている最中だった。いつもの様に街の汚いアスファルトにあぐらをかき、先程買った服やヘアピンなどを広げ楽しそうに見比べあっている。
この暑い中毎日毎日こうして外で会っているので、皆肌がよく焼けていた。あゆむは自分の肌に視線を移した。あゆむの肌も同じ様によく焼けていた。その肌には、まるで雫の様にポツポツと幾つもの汗の塊が毛穴からわき出ていた。もっと焼けてしまったらその内皮が剥けだし、色もまばらになっていくのだろう。
なんだか肌がかわいそうだな…。
あゆむはそう思うと少しやり切れなくなり肩をすくめた。元々あゆむの肌はとても白く、例え日焼けしたとしても赤く腫れるだけで終わってしまう、そんな肌質だった。あゆむはそういった自分の肌質を気に入っていた。本当は焼けたくなどないのだ。だったら日焼け止めなど塗れば良いのだろうが、そうしたら自分だけ仲間と違ってしまう。あゆむにはその選択は出来ないでいた。あゆむはちょっとしたことでも気にするような、そんな少女だった。
「ねぇねぇ、そういえば知ってる?2組の愛子の話。」
突然仲間の1人があゆむに話しかけた。
愛子というのは背が高くてとても美人で2組の男子の的であり、時々見かけるその姿はひときわ目立ち、あゆむと同じ歳にはとうてい見えない、そういった存在の少女だった。
仲間の1人はあゆむの返答を待たず話を続けた。
「あいつ、噂なんだけど援交やってるらしいよ。」
それを聞いた瞬間あゆむの胸がざわついた。
苦手だなぁ、こういう話って。そう思ったあゆむとは裏腹に、それを聞いた残りの2人の顔が輝いた。
「知ってる!それにあいつの持ってる物ってさ、ほとんど高そうなブランド物ばっかっていうじゃん。」
仲間の会話はテンポ良く続く。
「そうそう、いい金入るんでしょう?私もやろうかなぁ。」
「何言ってんだよ、まずおまえじゃ無理だから!」
そう言うと3人は楽しそうに笑い声を上げた。
逃げ出したい……!だがあゆむの顔は自分の意思とは逆に作り笑いに変わっていた。
「ていうかさ、愛子って小学校の時すっごいいじめられてたんでしょう?まさかあんな風に変わるとはねぇ。」
そう言ったあゆむの心は一段と重くなった。
「そうそう、超ダサかったっていうじゃん。ウケるよねぇ、それが今はあれだよ、ありえなくない?」
仲間の3人は一斉に笑い声を上げた。
「ねぇ、ていうかさぁもっとやばいのいるじゃん。あれ何つったっけ?ほら、あいつの名前…。」
続けて言った仲間の言葉に反応しあゆむの背中を何かが走っていく。
「確か、坂上優奈っていうんじゃなかったっけ。」
仲間の1人が声を弾ませた。
失敗した…あゆむは思った。話題を変えたかっただけなのに、どうやら墓穴を掘ったようだ。
「そうそう!そいつ!」
瞬間3人は口々に優奈のことを馬鹿にし始めた。
あゆむはますます必死に笑顔を作り3人の話を聞いていた。
優奈とあゆむは幼稚園の頃からの付き合いだ。とてもおとなしく内気な性格で、背が低く痩せ気味な体格をしていた。
時折見せる笑顔がとても可愛く、あゆむのことをいつも親身に思ってくれる優しい少女で、あゆむはそんな優奈のことが本当に大好きだったのだ。
だがその優奈は中学に入り環境が変わったせいか、ますます内気になり今ではクラスのいじめの対象となっていた。クラスの違うあゆむは初めはそのことを知らず、大好きな優奈の所へと通っていたが、だんだん状況が掴めてくると自分まで巻き添えをくらうかもしれないと思い、優奈の元から逃げ出したのだった。
優奈はいじめられていることをあゆむに一度も話したことがなかった。どうせすぐに知られてしまうのにあゆむに隠しておきたかったのか、それとも優奈自身いじめを気にしていないのか、あゆむにはわからない。
優奈の優しい笑顔が目について離れない時がある。いじめで自殺をしてしまう子もいるみたいだ。優奈は大丈夫だろうか。学校にはちゃんと行っているだろうか。心配でたまらなくなり胸が締め付けられ苦しくなるが、今のあゆむには優奈を助ける勇気など少しもなかったのだ。
ここで否定することが出来たら、どんなに楽だろう。本当は優奈が好きで、優奈の良いところを伝えることが出来たらどんなに良いだろう。だけどそんなこと私には言えない。言ったら私まできっといじめられるだろう。
あゆむの心の中でそんな思いがぐるぐるぐるぐる回っていた。
「あっ!でもさぁ、あゆむって優奈と仲良くなかったっけ。」
そう言われたあゆむの顔は赤くなっただろう。喉が一瞬に渇く。そばに置いてある、すっかりぬるくなってしまったジュースを喉に通しながら、必死に顔をしかめた。
「あぁ、昔はねぇ…だけどもうあんなの嫌だもん。こっちまで同レベルで見られちゃうじゃん。」
そう答えた。その瞬間、あゆむはとてつもない罪悪感にさいなまれた。また言ってしまった…バカ!後悔してももう遅いんだ!あゆむは心の中で叫んだ。あゆむの胸に冷たい凍える様な風が吹き抜けた。
そんなあゆむの気持ちを知る由もない少女達は、いっそう盛り上がり優奈話はしばらく続いていった。
日もようやく暮れ始めた頃、今日からしばらくそれぞれの家に帰ろうと、仲間の1人が話を切り出した。いつもはその仲間の1人の家に集まり夜を過ごしているのだ。
その家は母子家庭であゆむと同じく姉が1人いる。母親は水商売をしており、夜はほとんど姿を見せない。姉もよく友人を連れて来てはあゆむ達を混ぜて騒いでいるので、例え母親が何か言ってきたとしてもいつも肩をもってくれていた。だから決してあゆむの家に、あゆむが何処に泊まっているのかが伝わることは無かったのだ。
だがどうやら状況が変わってきたらしい。母親が再婚するのか、新しい恋人を姉妹に紹介したいと言ったのだ。きっとこれからは母親がうるさくなるだろうと、その仲間の1人は文句を言い出した。
その話を聞きながらあゆむは思った。こういう時って嬉しいのかなぁ。それとも母親を取られた気がして悲しいのかなぁ。いや、きっとわくわくしているのだろう。そうじゃなきゃ私達に帰れとは言わないだろうから…。
仲間にさよならを言い家に帰ったあゆむに待っていたのは、母親の驚き戸惑った顔だった。娘が珍しくすぐに帰って来たからだろうか。
何か聞かれるだろうと思い、返事を考えていたあゆむだったが、それも虚しく、
「お帰り。」の一言で終わってしまった。
あゆむは自分の部屋へ行くと、鞄をベッドに放り投げあゆむもまたベッドへと飛び込んだ。
あゆむはしばらくボーッと天井を眺めていたが、そのうち伸ばしていた足を何度も何度もベッドへと叩きつけ始めた。
私は自分がどうしたいのかよくわからない。一体どうしてほしいのかも…よくわからない。少しでも何か聞かれるとうるさいと思い、何も聞かれないと何故だか悲しくなってくる。私の心はバラバラだ。周りの皆も同じ様なことを考えたことがあるのかな。もしあるとしたら、何故こんな気持ちになるのか教えてほしい。この思いを誰かに伝えることが出来たら、どんなに楽になるだろう。
そう思ったあゆむの目は涙の幕に包まれ始めた。あゆむはそれを振り切るかの様に寝返りをうった。
ふと机の上に目が止まる。いつもと違う、見慣れぬ物が置いてあるからだ。何だろうと思い、急いでベッドから起き上がると、そこには可愛らしい絵柄の付いたノートと、あゆむ宛ての一通の手紙が置かれてあった。胸がドキっと大きな音を立てた。
手紙には綺麗な字でこう書かれてあった。
—あゆむちゃんへ
お節介かもしれないけど、授業の内容まとめたので
どうか参考にしてください。
それとあゆむちゃんは元気でいるのかな?
学校で見かけないからどうしたのかなと思って。
あゆむちゃんのことだから大丈夫だと思うけど、
ちょっぴり心配です。
じゃあね。
優奈より—
ノートにはあゆむが出ていない授業の内容が科目ごとに整理されてあった。この思いがけない差し入れは、あゆむの胸に強く強く突き刺さった。
ごめんっっ優奈!
とめどない涙が後から後からあゆむの目に溢れ出てきた。
私は一体いつからこんな風になってしまったのだろう。きっと優奈は私の行動にとても傷ついたろう。でも優奈は優しい子だ。私のことを今でも気にかけてくれているのだ。
本当にどうしたらいいんだろう…本当に!こんなんじゃ駄目だ…駄目に決まっている!
あゆむはノートと手紙を強く胸に抱き寄せた。そしてそのまま布団の中に潜り込み、声を押し殺し泣いた。
こんなに切ない気持ちになったのは、あゆむは生まれて初めてだった。
あゆむは顔を洗い洗面所へとそっと足を忍ばせた。
まだ朝の4時をまわるかまわらないかの時間だろう。新聞配達のバイク音が道路から時折聞こえてくる。
夜通し泣き続け、腫れ上がったあゆむの顔が鏡越しに見えた。化粧も落とさずにいたものだから、口紅、マスカラ、アイシャドウ…全てがよれて崩れていた。
みにくい。あゆむはそう思った。まるで私の心の中の様だ。顔を洗い、部屋に戻ったあゆむは鞄にありとあらゆる物を詰め始めた。服に下着、ハンカチにティッシュ、くし、財布にあゆむ専用の通帳。わずかながらだが、少しは役に立つだろう。
次に優奈からの手紙を手に取ると、とても大事そうに鞄にしまった。あとは…どうしよう。あゆむはポーチからお気に入りの口紅だけ手に取りそのまま鞄に落とした。
そうだ!あの本を持って行こう。
そう思ったあゆむが手に取った一冊の本。昔両親からプレゼントされた物だった。その本は少し古びていたが、あゆむの宝物だった。
淡いピンク色の空に水色の満月。そして色とりどりの花々が描かれている。その花畑の真ん中には1人の少女が背中を向けて立っていた。あゆむはそんな表紙に一目惚れをしたのだった。
最初にその少女の後ろ姿を見た時は、淋しそうな背中だなぁと思ったが、最後まで読み終えた時は、あぁこの少女は淋しそうなんかじゃない、とても楽しそうに笑っているのだろう。こんな想像をあゆむはよくしていた。
本の内容は主人公が繰り広げるいわゆる冒険物語だった。あゆむは冒険物が大好きだった。そして、この本に対しても何度も何度も空想にふけることがあった。
最近は読むことも手に取ることさえなかったな。内容は覚えているが、今のあゆむにはその少女の背中がとても淋しそうに見えた。楽しそうになんか見えやしなかった。
本を最後に鞄を閉め、次にあゆむは母親宛の手紙を書き始めた。あまり会話を交わすことのないあゆむは、何か用事があると手紙で母親に伝えていた。
—しばらく家を出ます
あゆむ—
他に何か付け加えようとも思ったが余計なことだと思い直し、それを机の上に置くと鞄を持ち部屋を後にした。
階段を下り、スニーカーを履き外に出ると、夏の朝の生ぬるい空気があゆむを迎えた。
もうこんなに明るいんだ。時刻は5時をまわる。電車の音が遠くで聞こえた。こんな時間に家を出たことのないあゆむには、全てが新鮮に感じた。
家出なんて、まさか自分がすると思ってもみなかったな。あゆむは苦笑した。そして自分のしようとしていることが、とんでもないことかもしれないと思うと、一瞬不安がよぎり、足が何かに捕られる感覚がした。あゆむはそれを振り切り、いつもより大股にそして早歩きで、一歩一歩しっかりと歩いて行った。
彼女はあの手紙を見てどう思うのだろう。心配するだろうか。すぐに警察に言い私を探させるかな。
いや、違う。きっといつものことだと思うんだろうな。なんせ私はちゃんと家にいないのだから。手紙を見たらどうせあの癖を出しうつむくのだろう。
あゆむはまた涙が溢れ出そうになるのを必死にこらえ、前へと進んで行った。時折吹く追い風がだんだん強くなっている。
今日も暑い一日になりそうだった。
駅に着いたあゆむは、まず何処に向かおうかと路線マップを眺めた。だがやがてそれも面倒になり、半分いい加減に一番長い線の、一番最後の駅、終着駅を目的として選んだ。
プラットホームで電車を待ちながら辺りを見渡した。途切れ途切れに人がいる。皆とても眠そうだ。いつもは騒々しい場所のはずなのに何だか今はとても心地が良かった。この途切れ途切れに立つ人達は、あゆむのことなど無関心で、それぞれの時間を過ごしていた。少しの間ただ何も考えずあゆむはそれらを眺めていた。
やがてアナウンスが聞こえ出し、この心地の良い空気を切り裂くかの様に、電車がけたたましい音を立てながらやって来た。
車内は空いていた。朝のラッシュにはまだ早いようだ。あゆむは嬉しくなり、意気揚々と扉のすぐ横に座った。
扉が閉まり、電車が動き出すのを見届けると、あゆむは持っていた鞄を下ろし、それを足で挟み体を半分よじり窓からの景色を眺めた。勢いよく、家やら畑やら何かの工場なのだろう、それらが去って行った。あゆむは電車に乗ると、あゆむのことをじろじろ見る大人達や下ばかり見ていたので、この景色はとても新鮮だった。
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
電車が揺れながら音を立てている。その音と窓に映る景色はあゆむの心を和ませ、安心させた。
あぁ…私は急行列車に乗ってしまったんだな。アナウンスで男の人が鼻にかけた声で教えてくれている。ちゃんと調べるべきだったかなぁ。まぁ、いい。どうせ終点まで行くのだから。
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
窓の隙間から心地良い風が吹き出してくる。それがあゆむの顔を優しく撫でる。
あゆむは今までのことを思い返していた。優奈の顔が思い浮かぶ。いつからだったろう、優奈に変化が訪れたのは…。ちょっと前までは当たり前の様に、優奈のそばに自分はいた。いつも楽しく笑って、そして優奈も笑っていた。そんな彼女の顔が思い出される。そんな彼女の顔から悲しげな顔などは、あゆむには想像がつかなかった。
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
あゆむの頭に母親の顔が浮かんだ。とても悲しくなり、下に置いていた鞄を抱き寄せぎゅっと目をつぶった。
いつからだったろう、いつから私は母親とも思えなくなったのだろうか。あゆむはかぶりを振って景色に没頭した。
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
ガッタンゴットン ガッタンゴットン
あゆむを乗せたその電車は、まるであゆむを未知の世界へと、優しくいざなってくれているかの様だった。