混線
サトルの妹には婚約者、みたいなのがいるようです
特急スーパーあずさを降りた三浦芙華は、駅のホームで「やっぱり空気が違う!」と小躍りした。
「そこまで違うか?」
タケルは姪の荷物を持ち、先に階段を上った。確かに、東京より海抜が高く湿度も低いのだから、彼女にとっては快適なのだろう。住み慣れると忘れてしまうことも多い。というより、身体が楽な環境に慣れるのだ。
駅を出て、タクシー乗り場へ向かう。
「タケにぃ、歩かないの?」
「俺は歩きたくない」
駅前の夜は、半端な賑わいを醸していた。
「せっかくだもん、ぶらぶらしよ」
「自分の荷物持つを、自分で持つなら歩いてやる」
タケルが言うそばから、芙華はタクシー乗り場に並んだ。
「おまえって、そういう奴だよなぁ」
タクシー乗り場には一組しかいなかった。ふたりはすんなりタクシーに乗り込んだ。
「マジで、サトルに連絡しないのか?」
新宿からの電車内で、タケルは同じことを何度訪ねたことか。芙華は「来るなって言われるもん」の一点張りだ。
「そういえば、明日はフライトだったな」
タケルは、今になってサトルがアルバイトに出ることを思い出した。ヘリコプターで、上高地から山小屋へ食料などを運搬する補助だ。
「別に。私はあの家でのんびりしたいだけだから」
「友だちや彼氏と、別荘に行けばいいだろ」
「ご飯作りたくないもん」
「作れないだけだろっ…ぅ」 芙華の容赦ない肘打ちを、脇腹に食らった。と、タクシーは家より手前の通りで停車した。道が細いので、タケルは気遣いを兼ね、いつもそうしている。
「客人に、失礼な発言だけはするなよ」
降りるなり、タケルは芙華に釘を刺す。彼女は好奇心の塊なのだ。
「何回言うの!?」
芙華は唇を尖らせる。
「おまえ次第」
結局、タケルは姪の荷物を最後まで持たされた。
*
「今夜も月がきれいね」
雅子はスイカをかじる手を休め、何度目かのため息をこぼした。
「明るいですよね」
ユヅは四切れめのスイカを口にしながら、月を見やった。
見浦家の井戸にスイカを放ったのは、雅子だった。今朝、職場へ向かう途中に立ち寄ったら、仔猫に出迎えられた、と驚いていた。
「きれいって罪だわ」
「満月って、きれい過ぎて少し怖いです」
二十時近いというのに、サトルはまだ戻らない。ユヅは雅子といながらも、思考が不安定で心細かった。
「シロ?」
先程まで足元にいた仔猫の姿が消えていた。ユヅは立ち上がり、井戸水で手を洗って家の中へ入った。自分の部屋に行ったのなら、問題はないのだが。
「ただいま」
玄関からの声に、ユヅは縁側から慌てて廊下を抜けた。
「あ、タケルさん、お帰りなさい」
今朝とは違う、スーツ姿の家主が帰宅した。
「スイカ食べてたのか?」
「はい、雅子さんからの差し入れです。冷えててシャリっシャリで、甘くて美味しいですよ」
笑顔でタケルに話す唇を、彼は親指の腹でぬぐう。
「スイカ、ついてる」
タケルは微笑み、そのまま親指をペロッと舐めた。
「タケにぃ、変態!!」
タケルの背後から現れた女性に、ユヅは思わず背筋をただした。
「お客様って、こんなに若い女子だったの!?」
彼女はタケルの背中をバシバシ叩き、左手で乱れた黒髪をかきあげた。
唖然とするユヅに、タケルは、「サトルの妹だ」と苦笑してみせ、「彼女はサトルの客人だ」と芙華に紹介した。
「うそぉ~!!」
ユヅは、脳天を揺るがすような甲高い声に驚き、瞬間、目をつむった。
「芙華、玄関で失礼だろ」
言いながら、タケルは靴を脱ぎユヅの頭をなでる。
「タケにぃ、セクハラ!」
芙華は靴のまま上がり込み、ユヅを抱き寄せてタケルから遠ざけた。
「セクハラじゃないし、土足で人んちに踏み込むなよ」
「少女が襲われてるのに、ほっとけないでしょ!」
「あのなぁ、ユヅはおまえと同い年だ」
「ええぇぇ~!?未成年じゃないのぉ~!?」
「一旦荷物置いてこい」
タケルは、廊下で騒ぐ姪のボストンバックを置き、右手でネクタイを緩めながら階段を上って行った。
「あ、あの…」
ユヅは押し付けられた胸に、圧迫されていた。ヒールの高さも相まって、ユヅよりかなり背がある。
「やだぁ~、顔ちっちゃぃ!色白ぉ~!目がおっきぃ~!睫毛ながっ!サトちゃんと同期なの?出身は?」
豊乳から解放されるや否や、ガシッと両肩を掴まれ、興奮気味に捲し立てられた。逃げ場のないユヅの素足を、長い尻尾がなぜた。
「何してんだ!」
突然の声に、仔猫が階段を駆け上がった。
「サトちゃん!」
「ぅぐっ!」
芙華はサトルの首に抱きついた。
「またおっきくなった?筋トレしてるんでしょ!?」
「離せ変態!」
帰宅したサトルは、妹の強硬なハグを振り払い、立ち尽くすユヅを見やった。
ユヅは、サトルの切な気な眼差しに見つめられ、鼻の奥から目頭が熱くなった。
「遅いよ…」
「悪かった」
サトルはリュックを置き、そっとユヅを抱きしめる。
ふたりの抱擁を前に、芙華の思考は停止した。
「遅かったんだな」
浴衣に着替えたタケルが、ゆったりと階段を降りてくる。そして芙華のバックを持ち、「部屋は二階の右奥だ」と告げて、彼女をふたりから引き離した。
「サトル君、どうしたの?」
ユヅはサトルの胸で涙をぬぐった。彼は何も言わず、ユヅの温もりを確かめるように、抱きしめた腕に力を込めた。
「ごめん…」
サトルは深く息を吐き、やおら腕を解いた。
「何が、あったの?」
ユヅはサトルの瞳を見据え、唾を飲んだ。と、目を逸らされた。
「俺の部屋で話そう」
*
サトルは部屋の電気を点けようとしなかった。カーテンが開いたままの窓からは、月の光が射し込んでいる。簡易なソファーとテーブル、フラットなデスク、本棚、ベッド、クローゼットがあるだけの、シンプルな部屋だ。
サトルは何も言わずベッドに腰掛け、背中を丸めてうつむいた。
ユヅはソファーに座り、苦し気な彼を見据え、大きく息を吸って吐いてを繰り返す。
「あのね」思いきって口を開いた。「私、七海を少しだけ思い出したの」心臓が喉元でバクバクしている。
サトルは、予想もしていなかったセリフに顔をあげた。
「事故の直前、だったと思う」
ユヅは笑みを浮かべ、泣きそうな声で続ける。
「七海が、怒鳴ったんだ…。オマエには関係ないだろ、って」
サトルは膝の上に両肘を預けて、顎の下で指を組み彼女を見つめた。月明かりを浴びた姿は、青い輪郭が白く浮かんで、手を伸ばせば消えてしまいそうな色を纏っていた。
「家族になったのに、七海は僕を『兄だと思えるわけがないって』言うんだ…」
白磁のような頬を、大粒の涙がつたう。
「でも…、だからって、知らない男と援交してるなんて、ありえないよ…」
「っ!?」
哀しそうに唇を引き結ぶユヅに、サトルは目を見開いた。
「あいつが…?」
「ん、あの日もシティーホテルから出てきた」
「あの日って、オマエが交通事故にあった…三日前、か」
サトルは、まだユヅに七海と会ったことを話していなかった。
「同性と、そういうことできる?信じられないよ!」
ユヅは苛立たしげに、昨日抱きしめて眠ったクッションを拳で叩く。
サトルはそんなユヅを眺めながら、数時間前の光景に意識を移行していた。
七海に連れられ、枚方弦の病室を訪ねた。規則正しい電子音。眠っているのか死んでいるのかわからない、体温の気配がとぼしい寝顔。「独りにしてごめん」と七海は呟き、兄である弦の輪郭を両手でじっくり確かめた。やおら椅子に座ると、当たり前のように彼の手を握った。
サトルは知った。七海の想いを。だからといって、他人の自分が安易なことを言うわけにもいかない。
「性別とか年とか、そこらの常識で測るな」
ようやく、サトルは低い声音で呟いた。ユヅは大きな瞳を揺らめかせ、裏切られたと言わんばかりに彼を見やる。彼は下唇を噛んだリ、小さく息を吐いたりして、ためらいがちに口を開いた。
「雅子さ、姓同一性障害なんだ」
「…え?」
「叔父きから聞いたんだ。本人は何十年も悩み苦しんで、女になった、って」
手術は海外でしか出来なかったという。ホルモン系の注射やメンテナンスのため、都内の病院と美容外科へ毎月通っている。女性として、看護師の仕事をさせてくれる今の職場や、受け入れてくれた親に感謝しているーと泣いたらしい。
「本気なら、いいんじゃないか?」
「………………」
「だいたい、普通ってなんだよ?そんなもんに、自分の基準を置くことないだろ」
少なくとも、七海は本気だ。
両親同士が再婚し、戸籍上、兄弟となった二人だった。弦にとっては新しい弟でも、七海にとっては家族以外の存在なのだ。
ユヅは目頭を押さえ、涙をこらえた。自分だけが不幸の渦中にいるーと思い込み、周囲を見ていなかったー見えていなかったことを、今、恥ずかしいと思った。母親を失ったとき、大切な感情も欠落してしまったのかもしれない。
「戻れる…かな」
「自分次第、じゃね?」
サトルは立ち上がり、ユヅの頭を無雑作に撫でた。
窓の下へ目をやると、タケルと雅子が、芙華の話を聞きながらスイカを食べていた。
サトルに「明日早いから、掃除とか頼むな」と言われたユヅは、後ろ髪を引かれながらも彼の部屋を後にした。
ユヅは、自分の部屋で丸くなっていた仔猫を抱き抱え、中庭へ戻った。いつの間にかスイカは片付けられ、変わりに多様なアルコールと山賊焼きが並んでいた。
「ユヅちゃん、ナイアガラのスパークリングと紅玉のシードル、どっちがいい?」
出迎えた雅子に座らされ、答えるより早くシードルを注がれた。
「さっきはゴメンね。ってことでカンパーイ!」
「あ、いえ、か、乾杯」
芙華とユヅの乾杯を見ながら、タケルは雅子と新しく開けたクラフトビールの小瓶をカチンと合わせた。
「ねぇねぇ、明日ヒマ?」
「…!?」
芙華の質問に、ユヅは言葉が出なかった。
明日…
自分は、明日を迎えられるのだろうか?
タケルはグラスを持ったまま動かないユヅに気づき、芙華の半開きの口へ山賊揚げを押し込んだ。
「ねぇユヅちゃん、天気がよかったら、上高地まで行ってみない?サトルも荷あげに何度か戻るだろうし」
「サトル君のバイトって、北アルプスなんですか!?」
ユヅは身を乗りだし、タケルの視線を支配した。彼は瞬間怯んだ。でも気づかれないよう、左の口端をにやりと上げ、ユヅの唇を掠め取った。
雅子の
性同一性障害については、ここでは深堀致しません