遠吠えはもう聞こえない
しんしんと落ちる雪の静けさに、邪魔が入る。
ザッザッザッと、狼が走れば、新雪には真っ赤な血が流れた。
しばらく走った後、狼は立ち止まり空を見上げた。その堂々たる立ち振舞いは、彼が確かに群れの長であったことを窺わせた。
けれど、今、其処にいたのは只の負け犬だった。
人間に仲間を殺され、故郷を追われ、一体自分はどこへ行くというのか。
行くあてなどない。遂に独りぼっちになってしまった。
激情のままに、狼は大きな遠吠えを一つ響かせた。
どうか、願いが叶うならば━━
山彦となった遠吠えが聞こえなくなったとき、狼の姿はどこにもなかった。
ο
小鳥の鳴き声が辺りに響く。
鬱陶しいくらいに自己主張する双子の太陽が、傷だらけの狼を照らしていた。
狼は座っていた。ジンジンと痛む傷を誤魔化すように、傷を舐めた。
ようやく落ち着いてきた頃に、狼は辺りを見回して首をかしげる。先程まで辺りは冷たかったのに、今は温かい風が吹いている。
何が起きた? 狼には分からない。
けれど、狼は考えた。考えれば腹が減る。腹が減れば狩りをした。警戒の「け」の字も知らないウサギは、手負いの狼一匹でも十分に捕まえられたし、沢山いたので見つけるのも簡単だった。
そんなこんなで毎日考えていた狼に、いつもと違うことが起こった。
「あなたはだあれ?」
狼はビクッと飛び上がり、考えるのを一端止めた。
「お前こそ誰だ?」
「私は妖精よ」
「妖精?」
「妖精を知らないの?」
「知らない」
ぶっきらぼうに答えて、狼は警戒を続ける。彼は愚かなウサギではなかった。
妖精と名乗ったのはとても小さな少女。狼の耳よりちょっと大きくて、4枚の羽がパタパタと音をたてていた。
「あなた、ケガをしているじゃない!」
「こんなものはなんでもない」
嘘だ。狼は日々増していく痛みを気にしていた。獲物にも水にも困らなければ、競争者も敵もいない。けれど、あの雪の日に轟音と共に飛んできた牙は、未だに癒えぬ傷を狼に負わせたのだ。
「ケガ、いたいでしょ」
「痛くない」
「嘘ね。妖精に嘘は通じないのよっ!」
じゃじゃーん、と自慢気に鼻を鳴らす妖精はその懐から小さなビンを取り出した。小さい妖精から見ても小さいビンだ。狼はその動作に身構えるが、なんでもないと考えて座り直した。
「何をするつもりだ?」
「まあ黙って見ていなさいっ」
「ちょっといたいけどね」
気になることを呟いて、妖精はビンのふたを開けた。ビンの中に入っていたのは綺麗な蜜だ。それを少し手にとって狼の傷に染み込ませた。
妖精に敵意がないことを読み取った狼はされるがままだった。狼がまだ小さな子供だった頃もこんな風にされるがままだった。あの頃は、母が舐めてくるのがこそばゆくて、よく抵抗していた。狼が昔を思い出していると、妖精は狼から手を離す。心地よい時間はもうおしまい。
「終わったわよ」
「そうか」
「あら、照れてるの?」
「照れてない」
「へえ、そっかあ、照れてるんだあ」
「照れてなどいない!」
「へえ、へええ」
久しぶりに大きな声を出した狼は、孤独ではなかった。
ο
それから一度目の雪の季節のことだ。
その雪の日はとても暖かい雪の日だった。
狼の背中の上でうたた寝する小さな少女。
「おい、風邪をひくぞ」
「大丈夫よ。私は風邪をひかないわ」
「そうか」
「そうよ」
両者の間で交わされる言葉は少なかった。けれど、そこに吹く風は穏やかだった。
狼の傷はすっかり癒えたが、何故か妖精と共に暮らすようになっていた。
「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわ」
「名前?そんなもの必要ないだろう?」
「じゃあ、あなたには名前がないのね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、私が名前を付けてあげる!」
「いらん」
妙にウキウキしている妖精を他所に、狼は冷たい対応だ。雪の日だから仕方ないだろう。
そもそも狼には名前というものはなかった。仲間を知るのに、名前は要らなかった。協力して狩りをするのに、名前は要らなかった。そして、仲間を愛するのにも、名前は要らなかった。故に答える。
「そんなもの、我の中にはなかった」
「じゃあなんで『名前』を知っているのよ」
この妖精は間抜けそうに見えて、よく核心を突いてくるのだった。
狼は知っていた。人間が彼ら自身に名前を付けることを。そして、彼らに従う「猟犬」という存在にも名前があることをだ。狼は人間を嫌っていた。憎んでいた。恐れていた。だから、人間の持つ「名前」を好きにはなれなかった。
「誰かが使っているのを聞いたからだ。ほら、もうこの話はいいだろう?」
「何よ。そんなこと言って本当は欲しいんでしょ?」
「欲しいわけあるか」
「じゃあいらない?」
「……」
狼は黙ってしまった。狼は「名前」を嫌っていた。それを思い出す度に、あの恐怖を思い出してしまう。
しかし、他でもない妖精が言うのだ。故に、狼が「名前」に興味を持ったのも確かである。
「聞くだけ聞いてやろう」
「『ポチ』」
「断る」
「待って!嘘よ!嘘!ちゃんと考えたんだから!」
「……じゃあなんだ?」
「『ウルーズ』よ」
「そうか。長いな」
一体これのどこが長いのかと、妖精が騒いでいるが、狼は無視をする。
狼は、身震いして、降り積もった雪と妖精を振り落とした。
「ちょっと!何するのよ!」
「ほら、もういくぞ。雪が強くなってきた」
「……はーい」
渋々と先を行く妖精の後ろ姿を見ていると、胸のどこかが苦しくなる。
「……ル」
「ん?何よ?」
「『ウル』ならいいぞ」
「……!」
「ねえ、ウル!」
「なんだ?」
「なんでもない!」
「……おい」
ルンルンと前を征く妖精の後ろ姿は、鈍感なウルから見ても、上機嫌だった。
━━このときのことは、ウルも一生忘れないであろう。常のウルならば、絶対に口にしないことだ。なんて馬鹿だったのだろうと今でも思うほどに。
「おい、待て。お前の名前は何だ?」
妖精は振り返った。
真っ白な雪と真っ赤な妖精。
「その、あれよ。ええと、『エリー』よ」
エリーにしては珍しく歯切れが悪い。要は、照れているのだ。ウルも、エリーも、照れていたのだ。
その日から、毎日が過ぎるのがとても早かった。
ο
『その事』が起こったのは、落ち葉の季節の終わりのことだ。
「悪いな」
「いいのよ。さすがに同じ場所でずっと暮らすのは退屈だもの」
「そうだな」
二人は少し遠くまで歩いて来ていた。勿論、歩いているのはウルだけで、エリーはウルの背中の上だ。
愚かなウサギと言えども、何度も狩りをしていれば、数を減らし、警戒するものだ。つまり、ウルの食事のために、二人は遠出しているのだ。
「……ねえ」
「なんだ?」
「私とウルで、旅をしない?」
「旅?」
「そう、旅。色んな場所を見て、色んな誰かと出会うの。」
「旅、か」
「別に今すぐじゃないわよ。」
「まあそうだな。いつか、できたらいいな。旅を」
「珍しく乗り気ね。……逆に恐いくらいだわ」
「なんだと?」
━━エリーの言い出すことはいつも唐突だった。ウルはこの小さな妖精に何度も救われていたのかもしれない。そんなことを考えながら歩いたせいだろうか。
普段なら絶対にしない失敗を、ウルとエリーはしてしまったのだ。
辺りに耳をつんざくような声が響く。
狼が未だ忘れない声だ。
雪のように冷たい声だ。
「妖精……?……!妖精だ!」
その声はそう言っていた。
人間の声だ。人間の声だ!
ウルは反射的に逃げた。背中に感じる熱を何度も確かめながら、ウルは全速力で逃げ出した。
ウルは人間というおぞましい存在を知っていた。奴らは仲間を殺した。そして、喰らわずにその皮だけ剥ぎ取り、肉を棄てた。
狼は忘れない。あの日抱いた全ての感情を。
O
「……」
「……」
無言だ。あれほど心地よかった無言は、今や嵐のように吹き荒れていた。
「━━ねえ」
「━━なんだ?」
「あのね。私達、ここでお別れよ」
「━━え?」
「どういうことだ?」
「あのね、私は妖精なの」
「ああ、知っている」
「妖精の蜜はね、どんなケガでも治しちゃうの」
「ああ、知っている」
「人間はね、それを欲しがるの」
「……ああ、そうか」
鈍感なウルにも、直ぐにわかることくらいあるのだ。できれば、わからないままでいたかったのに。
「だからね、私と、ウルは、ここで、お別れなの」
エリーにしては、歯切れが悪い。
いつかの雪の日のように、真っ赤になって俯いているエリーは、泣いていた。
それから、エリーは去っていった。とても速かった。本気の妖精の飛行速度は竜にだって追い付けない。
ウルは、エリーを追いかけた。しかし、その後ろ姿は小さくなるばかりだった。
小さな少女がどんどん小さくなっていった。
ο
妖精は泣いていた。
仲間を失ったこと。
人間にまた会ったこと。
ウルと別れたこと。
涙を頬に流しながら、妖精は飛んでいた。どこかもわからぬまま、飛んでいた。
エリーは元々孤独を知らなかった。
毎日楽しく仲間と過ごし、馬鹿みたいに悪戯をしかけて、怒られるのだ。
しかし、今はもう誰もいない。
人間が妖精の里を襲ったのは雪の日だった。妖精の血も赤いのかと、大笑いしていた男の顔は忘れられない。嬉々として仲間の羽を回収していた女の後ろ姿も、妖精から奪い取った蜜のビンを奪い合う人間達の姿も、エリーは決して忘れないのだ。
妖精は寛大な種族だ。他種族が急に来訪し、どんな嘘を言っても歓迎の態度を崩さなかった。それが致命的な弱点となり、仲間は眠りに落ちた。
彼らが苦痛を感じずに死んだことだけが、エリーの唯一の救いであった。
エリーが助かったのは、たまたま外に出掛けていたからに他ならない。せめて、仲間と一緒に出掛けていたら、と夜の数だけ考えたものだ。
そして、暗い雪が降る中、エリーはさまよい続けた。
それは、雪が解けた頃のことだった。
木陰に見慣れぬ姿を見かけたのだ。何故だか其れは、とても小さい存在に見えた。
エリーは、妖精だ。悪戯とお話が大好きな妖精だ。
だから、彼を驚かせてやろうと羽音を立てずに慎重に近付き、話しかけた。結果は大成功。彼の驚きようといったら今でも忘れられないくらいだ。
しかし、エリーは気付いてしまった。彼がケガをしていることを。
エリーは己を恥じた。
あの雪の日から、幾度の夜を越え、朝を迎えたのに、未だに自分は、駄目なのか。ケガをした者に悪戯をしてしまうほど追い詰められているというのか。
それで、エリーは急いで宝物を取り出して彼の傷を癒したのだ。
エリーは彼と一緒にいることにした。
彼には色々なことを聞いたが、その度にぶっきらぼうな返事をされた。
彼と一緒にいると、色々なことを知れる。ウサギを殺すのは可哀想だったが、しばらくすればその意味を理解した。吹雪から身を守る手段も知った。妖精はそんなことを気にしなくても生きていけるので、今まで知らなかったのだ。
そして、もっと大きな収穫と言えば、彼が結構の照れ屋で、素直じゃないことだ。妖精にはお見通しなのである。
そういえば、彼の名前を聞き忘れた。まるで、名前というものを知らないような振る舞いだったのだから、仕方ない。しかし、一度タイミングを逃すと切りだしにくい話題であり、お話を好む妖精は、初めてお話について悩んだ。
ああ、そうだ。もし、彼に名前がなかったら自分が考えてあげてもいい。
『ウルーズ』はどうだろうか。遠いどこかの言葉で、「幸せ」を意味するらしい。ずっと昔、妖精の里を訪れた旅人さんが言っていた。
うん、彼にぴったりの名前だろう。喜んでくれるだろうか。
ο
あの明るい雪の日、ウルから名前を聞かれて、初めて自分が名乗っていないことに気が付いた。
ウルは照れ屋で、私の名前を知っていようと知らなかろうと呼んでくれないから、そんなこと気付けないのだ。全く、しょうがないウルである。
ウルは、私に沢山のものをくれた。
そう。思い返してみれば、私に生きる意味をくれたのはウルなのだ。ウルと会ってから、夜が怖くなくなった。あの暖かい毛皮にくるまるのは、私だけの特権だ。誰にも譲るつもりはない。
だから、私とウルは一緒にいたらいけないのだ。
「━━ウル」
人間の恐ろしさを知るのは、私一人で十分なのだ。
ο
狼は考えた。
気付けばエリーと出会ってから、ウルは考えることを止めていた。エリーといるときは、考えることが要らなかった。
考えなくても、ウルはウルで居られたのだ。
雪が降り始めた。
とても冷たい雪だ。
それでもウルは考え続けた。
ウルには分かった。。エリーがどうして自分から離れたのか。
けれども、どうしてウルが考えているのか、ウルには分からなかった。
エリーは知らないだろう。人間の真の恐ろしさを。それは狡猾さであり、強欲さであり、執念であった。きっと、どれだけ逃げても追いかけてくるのだろう。ウルは、誰よりも人間の恐ろしさを知っているのだ。
ウルは思い出した。
自分を置いていけと懇願する老いた仲間のこと。
自分が囮になるから、と命を棄てた仲間のこと。
背後から聞こえる轟音と仲間の断末魔。
そして、その最期の顔。
それは、エリーの浮かべた顔と同じだった。とても優しくて、胸が苦しくなるような笑顔。
ああ、このときを以て、狼は考えることを止めた。
狼は気付いた。
そもそも考える必要などなかったのだ。
O
ウルは走った。とても速く走った。小さな小さな少女の匂いが消えないように。狼の鼻は、とても良いのだ。
小さな小さな少女を見つけた。
ウルはもっと速く走った。
小さな少女が振り向いた。
ウルはもっともっと速く走った。
少女は泣き崩れてしまった。
ウルは止まって、少女を自分の背中に乗せた。
「━━ねえ、どうして来たの?」
「お前を、守るために」
「……っ!」
照れ屋で、素直じゃない狼は言い切った。とても強い言葉だった。
妖精はわんわん泣いた。妖精には分かったのだ。その言葉が真実であることも、その意味も、覚悟も。
「泣き止んだか?」
「泣いてない」
「いやでも…」
「泣いてなんかない!」
「そうか」
二人はいつかのやり取りを思い出す。
どれだけ無言だっただろうか。とても心地よい時間だったが、そう長くはいられない。
「ねえ、感傷に浸る余裕はないわ」
「ああ、そうだな」
それから二人は話し合った。
何故だろう。二人なら何も怖くなかった。
その日の雪は冷たかったが、とても暖かい風が吹いていた。
ο
人間は実に強欲だ。故に、妖精の蜜を独り占めしてしまおうと考えるのは当然だろう。
人間は実に臆病だ。故に、森の奥深くへ行くのに、己を護衛する狩人を雇おうとするのも当然だろう。
「本当に妖精がいたのか?」
「ああ、本当だ。この目で見たんだからな」
「……アレの生き残りってことか」
「……おい、てめえ。何を考えてるかは知らねえが、分け前は九対一だ。いいな?俺が九だ。」
「ああ、分かっているとも」
そう冷めた言葉を返し、狩人は小さくため息をついた。先日の妖精狩りのせいで崩れていく森のバランスを思うと、やるせない気分になる。狩人を生業にする者は皆、森の調停者である妖精に敬意を払って接しているのだから。
ひょろひょろの男は、雪を踏みしめて進んでいく狩人の後ろを、こそこそと追うばかりだ。しかし、その傲慢な態度は、狩人の遥か先を行っていた。
「おい、……止まれ。」
「なんだ?見つけたか?」
「いや、妙だ。ウサギが居ない」
「ああ?ウサギ程度放っておけ!俺は妖精の蜜を探しに来たんだ!」
これだから放浪の狩人は宛てにならねえ、と悪態をつきながら男は先に進んだ。大きな油断は、命をも奪うことがあるというのに。
そして、狩人も男を止めようとはしなかった。
男が足を踏み出した途端、影が走り、激熱に襲われた。
牙が首を貫いたのだ。
男の命はそこで途絶えた。
━━見たこともない獣だ。愚かな男の残骸を尻目に、狩人は冷静に身構えていた。数多の獣を知り、幾度も死闘を繰り広げた狩人でも名すら知らない。その上、人間を一瞬で屠れる獣なのだ。それは、最大限の警戒に値する。
しんしんと降る雪の中、狼と狩人はみつめあう。
今ここに、狼と狩人の闘いが始まった。
O
ウルは硬直してしまった。これは、ウルにとって予想外の事態だった。
妖精の蜜を狙いに来た人間はたった二人。たった二人なのだ。
そして、一人は警戒の「け」の字も知らないウサギのような愚か者。
それが油断となった。
匂いもなく、音も立てない研ぎ澄まされた一撃を、下らないことに使ってしまった。
そう、ウルは歴戦の狩人を前に、無防備な姿を晒してしまったのだ。
本能が警鐘を鳴らす、圧倒的な強者との邂逅。
そんな中、ウルは自分で自分を可笑しく思った。
臆病風に吹かれ今にも逃げ出そうとする四本の足。
それとは裏腹に、胸を焼くほど燃え上がっている狼の中の何か。
狼の周りには、嵐があった。とても熱い、火の嵐だ。
━━勝てない。 狼の直感がそう告げる。
故に、ウルは咆哮した。
駆けて、駆けて、骨肉の限りを尽くして戦った。
今まで逃げ続けた狼は、ここで初めて逃げなかった。
鈍い音が森に響いた。
そして、音が途絶えた。
━━永遠に続くかと思われた命のやり取りは、ここに終わったのだ。
狼の敗北だ。それも圧倒的な敗北。
辺りの赤は、狼の血だ。
狩人は刃を突きつける。敗者に死を与えるために。
そして、刃は振りおろされ━━
「まってええええええ!!!!」
━━ない。
Ο
「宝物は、妖精の蜜は、全てお渡しします。だから、これ以上ウルを傷付けないでください」
実際はもっとたどたどしかったが、そんなことを妖精は言った。
そして、狩人は顔をしかめた。
当然だ。あの妖精が蜜を全て差し出すと宣言したのだから。
妖精にとって蜜は命と同じ価値を持つ宝物なのだ。妖精がそれを少し施すことはあれど、全てを捧げることなど有り得ない。
蜜を全て失ってしまえば、妖精はもう他の妖精と話すことはできないのだ。妖精がどんな種族とも会話できるとは聞いたことがある。だが、狩人は妖精がどれだけ仲間を大切にするのかも知っている。
お話好きの妖精にとって、孤独は誰よりもつらいはずだ。
狩人の頭を、あり得ない考えがよぎる。
━━まさかこの妖精は、この獣のために全てを捧げるつもりなのか?
「……はは」
幾多の死線をくぐっても、狩人はこれほどの感情を抱いたことはなかった。
「……ははは」
狩人は久しぶりに笑った。
愚かな男に護衛を頼まれたときは、こんなことが起こるなんて想像もできなかった。
「あっはっはっはっは」
大きな笑いだ。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか!
狩人は、笑いながら山を降りた。
ο
雪が降っていた。とても暖かい雪だ。
嵐の後は、暖かいものなのだ。
あの雪の日、ウルが吼え、妖精が叫んだあの日を、随分昔に感じる。
強くなってきた雪から逃げるために、二人は今、洞窟にいた。
暗い暗い洞窟に、熱が二つ。それは寄り添って並んでいた。
「━━ねえ」
「なんだ」
「私、ウルに会えて良かったわ」
「そうか。俺もだ。」
ウルの傷は、もう癒えていた。わんわん泣きながら妖精の蜜を使うエリーの姿は、今でもウルの眼に焼き付いている。
結局あの狩人は蜜を持っていかなかったのだ。妖精の蜜が一滴あれば一生遊んで暮らせるというのに、不思議なこともあるものだ。
二人の中に、「孤独」はなかった。
O
それは、草木が湧き立ち、命が芽吹く季節のことだ。
「……おい」
「何よ?」
「雪が解けたら、二人で旅をしないか?」
「……!あなた、覚えていたの?」
「なんだ?嫌か?」
「いっ、嫌なんて言ってないわよ!」
「そうか」
顔をリンゴのように赤くした妖精は、照れ屋になっていた。
すまし顔で赤い妖精を見つめる狼は、素直になっていた。
季節は春。春なのだから、仕方ない。
二人を包み込む静寂は、とても優しい風に乗った。
遠吠えはもう聞こえない
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