第5話 開演
「え……?」
部屋の空気が元に戻ったかのように軽くなった。
ティーカップを手に取った春霞さんは、その中を覗きこむ。
そしてそれを迷いなく彼誰時さんに差し出した。
「ん」
「せめて名前を呼べ」
「余力を使いたくない」
「働けなめくじ」
「貴様らの100倍は稼いでるわアホ」
言葉を投げ合いながら、彼誰時さんは今までとは別のポットを手に取った。
そうだよね、これだけ書いてればかなり稼いでいるよね。
春霞さんは、おいくつなんだろうか。
「お前だけコーヒーなのだるいんだけど」
「お茶飲めるようになれば」
「飲めるけどコーヒーじゃないと寝る」
「ならせめて自分で淹れろ」
「だるい」
春霞さんのカップに黒い液体が注がれる。
彼女達の会話だけ聞いていれば、学生の様に見えてくる。
さっきまでの雰囲気と違い過ぎて風邪ひきそう。
「それで、紐解いた、って……」
会話を続ける春霞さん達に、遠慮がちに質問を投げた。
彼女の言葉は、確かに過去形だったのだ。
「ん? 言葉通りだ」
コーヒーを飲みながら、春霞さんは私に視線を投げる。
当然の様に、淡々とした口調で、彼女は答えた。
「それって、もう、分かったってことなんですか……?」
「あぁ」
「じゃあ!」
私もまた、当然のことを確認する。
返された言葉に、私は昂る気持ちを抑えきれなかった。
しかし、続いた春霞さんの言葉が、私を現実に戻す。
「だが、答え合わせの前に1つお願いがある」
「お願い、というと……?」
恐る恐る、私は疑問を口にする。
契約書自体は、ここに来る前に書いている。
莫大な追加料金とかだったらどうしよう。
せめて、私が用意できるものならいいのだけれど。
「情報だ」
「情報?」
今日何度目かのキョトン顔。
私が気構え過ぎなのかもしれない。
「まず、私はネタが欲しい。あまり出歩く方ではないから、ネタから来てくれると嬉しい」
背凭れに寄り掛かったまま、淡々と春霞さんは続ける。
彼女は潮ヶ波留さんへと手を伸ばし、その手にファイルが乗せられた。
あ、これ阿吽の呼吸ってやつだ。
「つまり、今回の依頼内容を脚本にする許可が欲しい。もちろん個人情報は厳守するし名前も条件も大幅に変更する」
「それは、構いませんが……」
「有難い」
ファイルから1枚の紙を取り出し、春霞さんは何かを書き込んだ。
それを潮ヶ波留さんへと手渡し、彼が私の前へ差し出してきた。
「それが契約書だ。眼を通してほしい」
「はい」
一度、全ての文字に眼を通す。
誰も私を急かさず、とても静かな時間だった。
眼を向けてくる春霞さんに、私はサインした笑いながら契約書を差し出した。
「ありがとう」
春霞さんは、そんな私を見て、同じように微笑み返してくる。
とても柔らかい笑みだった。
私から契約書を受け取った潮ヶ波留さんはそれを彼女へ渡す。
「確かに」
私のサインを確認した春霞さんは、パソコンに視線を移す。
契約書を打ち込んでいたわけでないのなら、何を書いていたんだろう。
脚本だったりして?
……まさか、ね。
「答え合わせの前に、2つ確認したい」
「はい」
先程とは打って変わって、春霞さんは声に力を込める。
私もまた、自然と背を伸ばした。
「君の執筆中、猫はいつもどこにいる? 貴方の近くにいたのでは?」
「え? はい。私の後ろか、足元に」
春霞さんの質問に、私は頷き返す。
思い返せば、確かに猫はいつも私の傍にいた。
全く意識してはいなかったけれど。
「もう1つ。……庭芝 櫻」
「はい!?」
ビクリ、と背を震わせる。
普通にびっくりした。
ここに来て初めて名前を呼ばれたのだもの。
それも、フルネームで。
そんな私を見、春霞さんは眼を細めた。
「君の家の庭か、どこか近場の公園か、はたまた貴方と猫との思い出の場所に、桜が咲いている場所は無いか?」
「……え?」
その質問に、私は頭の中で検索をかける。
自分の家の庭に、桜は咲いていない。
近くに公園もないし、あっても本当に小さいものだ。
大学のキャンパスにも、目立つ桜は無い。
そもそも、思いつく場所は探し尽して……。
いや、違った。
確かに、ある、気がした。
「芝、桜……」
「思い当たるものが、あるようだな」
「でも、あの場所は、本当に1回行っただけで……」
そう、何も木だけが桜じゃない。
芝桜だって立派な桜だ。
一度だけ、うんと昔に一度だけ猫と行った場所がある。
とても綺麗な、芝桜が咲いている場所だった。
「猫は、本当に賢い生き物だ。人の言葉が分かる様になるほどにね。自分と同じように年を重ねてきた君に、家族の中でも特別な感情を抱いていても不思議ではない」
春霞さんは、答え合わせを始める。
ゆっくりと、紐解く様に。
「貴方の執筆中は、傍にいたのだろう? ずっと、見ていたはずだ。君がどれだけ情熱を注いでそれを創り上げているのかを」
目頭が、熱くなるのがわかる。
「隣にいたのなら、話しかけることもあっただろう。その内容に、締切についてが含まれていても何もおかしくはない。君の頭の中は、それでいっぱいだっただろうからね」
そうだ、話していた。
でも、余りにも。
現実離れした推理なのに、何故こんなにも胸が熱くなるのだろう。
何故こんなにも、突き動かされるのだろう。
「人の言葉が分かるなら、曜日感覚があってもおかしくないのでは? 自分の大切な人が、大切に持ち歩くそれを、自分も守りたいと思ったのなら?」
私は、いてもたってもいられなかった。
ガタン、と机が揺れた。
ぶつけた足の痛みさえ気にならない。
振り返ることも、お礼を言うこともせず、私はそこを飛びだした。
「きっと待っているよ。君との思い出の場所で、ずっと」
今すぐ、あの子に会いたかった。
***
数日後、1つの封筒が届いた。
今時珍しい、封蝋で閉じられた真っ黒な封筒が。
その封筒には、ご丁寧にも、この子の分まで招待状が入っていた。
日時の記載はない。
その代わり、折り返し用の葉書が同封されていた。
私の都合のいい日を指定しろ、ということだろう。
あの劇団らしいやり方だ。
私は、すぐにスケジュールを確認する。
勿論、観に行こう。
この子と一緒に。
あの団長さんと、雑談もしなければ。
きっと、一生忘れられない思い出になるのだから。
「ご来場いただき、誠にありがとうございます。貴方の為の舞台を、心行くまでお楽しみください」
スポットライトに照らされた彼女は、宝石のように輝いていた。
あぁ、本当に、変態だ。
やっぱり、あの時、脚本を書いていたんじゃないか。
肩を揺らして笑う私の隣で、姉が嬉しそうに、にゃあと鳴いた。
『櫻の上には猫が座っている』終劇