【40】春蘭の異邦人:chapitre deux
暁月高校の文化祭初日。
1年D組のクラス演劇の第一回公演を観劇した後、私、遠見咲乃は疲れ切ってしまい、騒がしい校舎から逃れて人気のない中庭へ移動して休憩することにした。
自動販売機でアイスティーを買ってから涼しい木陰のベンチに座り一息つく。アイスティーがいつでも気軽に飲めるのは日本の良い所だと思う。
期せずして観ることになったD組の舞台「Round Bound Wound」は思いもかけない熱気を帯び、演者たちの渾身の芝居に感銘を受けた。自然と涙が出た。
その後、この素晴らしい作品の公演に携わることが出来なかった我が身を呪い、憤懣と悲哀、悔恨と嫉妬、それらが混ぜ合わさった激しい感情が心の中にふつふつと沸き起こり、感動とは別の意味合いの涙が溢れそうになった。なんとか我を失わずに会場から出ることが出来たのが自分のことながら奇跡としか思えなかった。私はそれほど心を乱していた。
写真係の女子生徒は、終演後に私が落涙しているのを見つけて
「大丈夫ですか?」
と声をかけてくれた。彼女はとても優しい人なのだろう。しかしながら、私はともすれば崩れ落ちそうな自分の心を必死に支えるので精一杯であったので
「大丈夫です。ありがとうございます」
とだけ素っ気なく礼を伝えて足早にその場を去った。
あの態度は随分と失礼極まりないものであったと反省している。
次にD組の舞台を観に行った際に彼女には必ず非礼を詫びようと思っている。
冷たい紅茶を何口か飲むと、ようやく私は冷静さを取り戻した。
もう9月だというのに青い空に太陽は燦然と輝き、湿度もかなり高い。
この夏の蒸し暑さだけはどうしても好きになれない。
うちの学校には幸いなことに教室にはちゃんと空調設備がついているが、それ以外の室内、例えば廊下や昇降口などは窓を開けて空気の入れ替えをしているだけなので当然ながら蒸し暑い。
中学3年生の時にはこの暁月高校への進学を真剣に考えていたので、学校の様子を見に行こうと昨年の文化祭の一般公開の日に初めてこの学校を訪れた。その際には蒸し暑い廊下に1年生のクラス演劇や3年生のクラス展示の入場を待っているたくさんの来客が充満していてとても不快だった。
私は人混みがとても苦手なのだ。
あの時は暑さと人の多さのため気分が悪くなり、たまたまそばを通りかかった親切な方に助けていただいた。当然ながら今日は学内の生徒のみでの開催であり一般の来客者であったあの人はいない。だから自分の身は自分で守らないといけない。そのためにこうして休憩を取っている。
今年もあの人は文化祭に現れるのだろうか?万が一、再会したら改めてお礼を伝えたいと思っている。あれだけの美貌だ、校内ですれ違えば見落とす訳はない。
私は心を落ち着かせ、満員の会場で1時間以上のお芝居を観た疲労を回復させるために、しばらく木陰のベンチでひとり静かに佇んだ。
こんな騒がしい文化祭なんて何が楽しいのか?とつい先ほどまでは疑問に思っていたが、偶然入った1年D組の教室で思わぬ収穫を得たのでこの3日間は楽しくなりそうだ。
そういえば、文化祭の2日目と3日目は体育館で2年生の演劇公演が行われるのも思い出した。
流石に体育館の中は1年生や3年生の教室周辺の大混雑ほどには至らないだろう、と予想できる。
人混みに疲れたら体育館に避難して2年生の演劇を観てみるのも良いかも知れない。恐らく1年生の時の文化祭のクラス演劇で経験を積んだ2年生はより質の高い舞台を観せてくれるだろう。期待しても良いと思う。
この学校で私にはたったふたりの友人がいる。ひかりと稜子。
ひかりは文化祭の期間中はD組の舞台にずっと出演し続けるので忙しいだろう。
稜子には文芸部の活動があり、文集の販売ブースの当番があったり、クイズ大会に出場したりと忙しそうだ。文芸部の部員同士の付き合いで他の生徒のクラス演劇やクラス展示を観に行ったりするので自由時間はあまりないだろう、とさも申し訳なさそうに私に文化祭中の予定を告げていた。
ふたりとも私と違って大切な役割があり、それぞれに友達付き合いがあるのだから仕方ない。
文化祭3日目のお昼に合唱部の発表に出演するだけの私とは違うのだ。
私はひとりで気の向くままに自由時間を過ごせば良い。
そうだ。それこそ私にふさわしい文化祭の過ごし方だ。やや自嘲気味にそう自分を納得させた。
そういえば稜子のいる文芸部のブースにそろそろ顔を出しておいても良かろう。稜子にも会いたいが、早く文集も欲しいのだ。
とはいえ、私はそもそも文芸部の文集販売がどこで行われているかを知らない。昨日は体育祭だったから疲れていたので事前に調べる余裕がなかったのだ。
まずは自分のロッカーの中に納めた鞄に入れたままの文化祭パンフレットを取りに行かねばならない。
次にD組の舞台を観劇した時にはテアトル大賞への投票も忘れずにしなければならない。
またあの混み合って蒸し暑く騒がしい1年生の教室周辺へ戻らねばならないかと思うと気が重いが、かといってだらだらと後回しにする訳にもいかないので半分ほど飲み終わったアイスティーのペットボトルの蓋を閉めて小脇に抱えると1年A組の教室へと向かった。
タイミング的にほとんどのクラスが2回目の公演をしている最中であった。午前中に3回の公演を行うクラスの教室の前には次の3回目の公演を待つ生徒たちが並んで待っていた。
ほとんどのクラスは1公演の所要時間を1時間弱に設定しているので午前中に3公演行うようだ。
ただし、D組の教室の前には行列が出来ていない。
それもその筈、あの「Round Bound Wound」という舞台は1公演に1時間20分くらいかかっていた。初演だから時間が押したのもあると思うが、この先上演を重ねたとしてもあの内容ならば絶対に1時間以内には収まらないと思う。
その証拠に、そこだけ閑散としたD組の教室の壁の看板の下には、「第三回公演は午後からです」と大きく張り紙がしてあった。
いくらなんでも午後の公演を観るために午前中から並ぶ者はいない。
朝方とは逆にD組以外の教室の前の廊下に行列が出来ていて通過するのに苦労したが、何とかA組の生徒のロッカーのある場所まで来て、自分のロッカーから鞄を取り出し、文化祭パンフレットとボールペンを取り出した。
ちなみにうちのA組の演劇の人気はどうだろうか?とこっそり教室の様子を伺うといつの間にかクラスで作られていたTシャツを着た会場係たちが廊下に並んだたくさんの生徒たちに対応していた。Tシャツのデザインはシンプルで胸に「氷の城」という演劇の題名、背中に「1-A」というクラス名のロゴが入っていた。
クラスでお揃いのTシャツを作るなんていつの間に決めたのだろう。
私は今に至るまで一切知らされていないので驚いた。
Tシャツの色は球技大会や体育祭でも共に戦ったA組ブロックのチームカラーであるロイヤルブルーのつもりなのだと思う。実際のTシャツの生地の色が厳密にロイヤルブルーなのかと問われれば少し違うと思うが、ロイヤルブルーだと言い張ればそう見えなくもない微妙な色合いだった。
青は寒色系なのでちょうど「氷の城」というタイトルにはぴったりの色だと思う。暖色系だったら作品のイメージにも合わなかっただろう。既に私にとって1年A組のクラス演劇は完全に他人事となってしまっているとはいえこの偶然の色調の合致を喜んだ。
そもそも私はロイヤルブルーという色を好きじゃないので、もしも私にもあのTシャツを注文する機会があったとしても私は頼まなかっただろうと思う。だが、そもそも誰からも尋ねられてもいないので要らぬ心配だ。概ね夏休みの準備期間中にクラスの中心メンバーだけで決めて作ったのだろう。私には元より関係のない話だ。
そんなことを考えながら私はまた混み合った廊下を何とか通り抜け、比較的人気の少ない階段の踊り場まで到達した。
その場で黄緑色の表紙の文化祭のパンフレットを開き、文芸部の文集が販売されているブースの設置場所を調べる。
文芸部は図書館の隣にある会議室を部室として普段は活動しているようだが、文化祭中には別の場所に販売所が設けられるということだけは稜子から聞いていた。
実は初めて目を通したのだが、流石は公式のパンフレットだ。
「校内案内」のページには学校全体の見取り図が描かれていて、初めて本校を訪れた来客者でも迷わないように工夫されている。去年は私がこの学校の文化祭を訪れた時にはパンフレットは既に売り切れていて買えなかったから校舎のどこに何があるかがさっぱり分からずとても苦労したのを思い出した。
文芸部の販売ブースは学生棟の2階の中央部の渡り廊下と繋がっている通り道に設営されているらしい。
暁月高校の校舎は大きく分けて三つある。
東西方向に伸びる横長の三階建ての校舎が南北方向に三つ並んでいる。
一番南側、体育館やグラウンドに近いのが教員棟である。
校長室、職員室、来客用応接室などの教員専用の部屋に加えて学生も使う会議室や進路指導室、それ以外に図書室や音楽室・美術室・和室などの一部の特殊教室も教育棟にある。
私の所属する合唱部は吹奏楽部と交代で音楽室を使って練習を行っている。私は選択制の芸術の授業で音楽を履修しているので授業でも音楽室をよく利用する。一方、美術室へ行ったことはない。
校長室や来客用対応室は入学式の日に訪れたことがある。
和室は茶華道部の活動や、留学生向けの文化行事で使うようだが、私には縁のない部屋だ。稜子は文化祭期間中に一緒に茶華道部主催のお茶会に行きたがっていたが私はどうしても正座ができないのでお断りした。稜子は残念そうにしていたがこればかりは無理が効かないので許してもらえたと思う。文芸部の友人を誘ってみると言ってくれたのでホッとした。
教員棟の北側の隣、三つの校舎の真ん中にあるのが、私たちの教室がある学生棟である。
1階に1年生、2階に2年生、3階に3年生の教室がある。
文化祭期間中は、特に一般公開の2日目と3日目は2年生が体育館での演劇発表のために教室を空けることが多いので防犯のために2階部分にはバリケードを築いて自治会が警備を行う、と聞いた。実際に目で見た訳ではないが、2年生の教室には赤い腕章をつけた自治委員か入り口の検問所にいる自治委員に自分の学生証を見せて身元を証明した2年生の生徒以外は中に入れないそうだ。
普段は自由奔放な学校でも盗難や悪戯のような犯罪を防止するために厳重にすべき時には然るべき対応を取る、という判断は正しいと私は思う。
文化祭中には1階で1年生のクラス演劇、3階で3年生のクラス展示があるので来客は階段を使ってどうしても2階を通過せざるを得ないので苦肉の策としての物理的封鎖なのだと思う。
学生棟のさらに反対隣、一番北側にある校舎が特殊教室棟である。
生物室、化学室、物理室、地学室、多目的教室、視聴覚室などがある。
特殊教育棟は理科の実験の授業のために何度も訪れたことがある。
部活動においては、理科系の特殊教室は科学部が適宜用途にあった部屋を使用し、映画研究部は視聴覚室を利用しており、この高校の女子生徒に人気のある英語部は多目的教室を利用しているそうだ。
教員棟と学生棟と特殊教室棟という3つの校舎は東側の端と中央部の2箇所に1階・2階・3階をそれぞれ繋ぐ渡り廊下があり繋がっている。それそれの校舎の階段もその渡り廊下に直結するように東端と中央部にある。古い校舎なのでエレベーターはない。
どの階の教室も中央の通路で東側と西側へ分けられている。
文化祭中に学生棟の2階の東側の教室に入るための検問所は東側の渡り廊下側にあり、中央部の通路から東側へ向かう廊下はすでに自治会によりバリケードが築かれて物理的に封鎖されており通れない。一方、西側の教室に入るための検問所は中央の部分にある。
両方の検問所を中央部に置かないのは一見不便にも思えるが、2階の中央部に二箇所の検問所があればそこが混雑して人の往来に問題が生じてしまうから敢えてそう分けているのだろう。あくまでも私の推測であるが。
文芸部はこのバリケードのそばの一区画で「文芸・東雲」を販売しているようだ。
ようやく目標地点が定まったので私はそのまま学生棟の中央部の階段を上がり2階へ出た。
1階の喧騒とは大違いでそこには静けさに包まれていた。
1階と3階からそこに集う生徒たちの声は響いているが2階の中央部にはほとんど人がいなかった。
静かでいい。ここは不快じゃない。空調のついてない通路ではあるが風通しがいいためか蒸し暑くない。
やはり目を引くのは東側の廊下を封鎖している「封鎖中」と書かれた大きな板張り。
ただの薄い木の板にしか見えないが、その向かい側に西側の教室に入るための検問所があるので、自治委員の目の前でこの封鎖を破る者は流石にいないだろう。この心理的な障壁の設定も上手い方策だと感心した。
その西側の検問所にも同様の板張りがしてあるが、人が一人通れるだけの狭い通路があり、その両側に赤い腕章をつけた自治委員ふたりが居て見張りをしている。誰も通過する者がいない時には椅子に座っているし、流石に武装はしていなかったが、ふたりの自治委員の組み合わせは男子生徒と女子生徒のコンビで、いざという時にはどの生徒に対しても身体検査が行えるようにしているのだろう。念の入れように思わず唸る。日本の高校で文化祭のためにここまでするのか。
さて、文芸部はどこにいるのだろうと見回すが、出張店舗や屋台のようなものは目に入らない。
そこにいたのはバリケードの横の壁際に教室の机を2つ並べて座っているふたりの男子生徒だけである。
彼らは何のためにあんなところにいるのだろう?
自治委員とは別の案内係か何かなのだろうか?
机の上には冊子が積まれているから、文化祭パンフレットとは別の案内用の配布物でも配っているのだろう、と予想した。
仕方がない、彼らが文芸部の販売所の場所を知らないかどうか尋ねてみることにしよう。
近づく前にもう一度観察してみた。
ふたりの男子生徒はただ黙って座っていた。
ひとりは何となく全体的にくたびれた印象のある眼鏡をかけた生徒。もうひとりは眼鏡の生徒よりも小柄な茶髪の生徒。何故か見覚えがある気がするが、クラスメイトでもないし合唱部員でもないので気のせいであろう。
私は彼らに近づき、なんとなく見覚えのある茶髪の生徒の方に声をかけてみた。
「すみません。文芸部の文集を売っている場所を探しているのですが、もし知っていましたら教えてくれませんか?」
すると茶髪の生徒は満面の笑みでこう答えた。
「いらっしゃいませ。我が文芸部のブースへようこそ」
私は一瞬戸惑った。
この人たちは文化祭の案内係などではなく文集を販売している文芸部員だったのか!
1年生のクラス演劇や3年生のクラス展示ではプラカードを持った、クラスで揃えたTシャツを着た宣伝係が声高に広報活動をする、そういう積極的な姿勢がこの文化祭の全ての参加者の流儀だとばかり私は思っていたのだ。先入観を持ってしまっていたのが悪かった。文芸部のブースにも派手な看板や元気に声をかけてくれる売り子がいるとばかり思っていたのだ。
当の本人に文芸部の販売所の場所を訊くなどという失礼を働いてしまい、私は己を恥じて赤面した。
ついつい下を俯いてしまうと、目に入った文字がある。
「文芸部」
「文芸・東雲 定価300円」
ふたりの生徒の座っているそれぞれの机の前には紙が貼られており、そこに確かに書かれてあった。
さらに確認できたことがある。机の上に積まれていた冊子は商品である「文芸・東雲」であった。暗赤色の表紙には確かにそう題字が印刷されていた。
私は裸眼でも視力は良いのに、先入観に囚われてしまっていてちゃんと事象を観察していなかったことを反省した。
「大変失礼しました。この貼り紙に気づかなかったので」
と私が謝ると、眼鏡の方の生徒が
「いやいや、毎年こんな感じですので、慣れてますよ。
うちは代々、こうして静かに文集を販売するのが伝統ですから。
全然気にしないで下さい」
と笑顔で答えてくれた。
「毎年こんな感じ」と言っているのだから、この眼鏡の生徒は2年生か3年生の先輩なのだろう。
そこで1つの疑問が頭をよぎる。
ここが文芸部の販売所だとすれば、稜子はどうしたのだ?
確か文芸部のブースにいるはずだと聞いていたのだが。
私が黙り込んで戸惑っているのを見越してか、茶髪の生徒が
「1年A組の遠見さんだよね」
と私の名前を口にした。
なんでこの人は顔見知りでも同じクラスでもないのに私のことなんて知ってるのだろう?そう疑問に思ったので、私は答えて
「はい、A組の遠見です。よく私のことなんて知ってましたね」
と尋ねた。すると茶髪の生徒はきょとんとした表情でさも不思議そうに
「だって、今年の新入生代表でしょ?有名人だよ」
と答えた。
私は有名だったのか?そんなことは初めて知った。
私は稜子の不在が気になったので
「稜子、ええと、筑間さんは?」
と茶髪の生徒に尋ねた。
ここまで来てようやく思い出した。この生徒のことは春の球技大会で稜子と一緒に観に行った男子のバレーボールの決勝戦で見ていた。F組のチームで守備の中心選手として頑張っていた稜子の友人だった。試合中はかなり険しい表情だったのだが、今は実に人懐っこい柔和な表情をしているので印象がまるで異なる。同一人物だと気付くのに時間がかかった。名前は何と言ったかな?
私がどうにかして彼の名前を思い出そうとしている間に
「筑間さんなら今は中野先輩と1年D組の舞台を観に行ってますよ」
と答えてくれた。
中野先輩って誰なの?私の知らない人だ。
稜子が何故1年D組の演劇を観に行ったのか理由は分からないがきっと稜子の知り合いの誰かかその中野先輩という人が関わっているのだろう。
何にせよ、稜子がD組の舞台を観に行っているなら良かった。
私が文芸部のブースまで稜子に会いに来たのは「1年D組の舞台は素晴らしいから絶対に観に行って欲しい」と早めに伝えるためなのだ。
すれ違ってしまったとは言え、目的は達することが出来たので良しとしよう。
こうして親切に接してくれるのにこのふたりの文芸部員は一向に売り込みをしないので、仕方なく私の方から
「この文集は販売しているのですか?」
と尋ねてみた。するとまた眼鏡の生徒が
「はい。一部300円です」
と答えた。
元より稜子の作品も掲載されているこの文集は買うつもりでいた。どうせなら稜子の手から文集を買ってあげたいと思ったが、ここまで丁寧に接客してもらって彼らから買わないのは間違っている。私は今この場で購入することに決めた。
「じゃあ、一冊買います」
と伝えると、眼鏡の先輩は途端に笑顔になって
「ありがとうございます。やっと一冊売れた」
と喜んでくれた。
文化祭が始まってからもうかれこれ数時間が経とうとしている。
しかもこの場所は人通りの多い「校内の交通の要所」である。
それにも関わらず、私の前にこの文集を買った生徒が今までひとりもいなかったのか。
私がD組のお芝居を見ている間、稜子はここに座って、通り過ぎていく生徒たちからただただ無視され続けていたのか。
いくら心の強い稜子だとしてもさぞや辛かったろうに。
私は自分の遅参を悔いた。
後で必ず謝ろう、と心に決めた。
代金を眼鏡の生徒に渡し、茶髪の生徒から文集を受け取った。
よく見ると机の上に積まれた2つの文集の山のうちの一方の一番上に一冊だけビニールのカバーの被せられた本がある。恐らく試し読みできるように用意されていたのだろう。文集の山の上に綺麗に揃えて置かれてあり、カバーをされた表紙も綺麗なままで生憎と手を触れられた形跡は全くない。
数時間もこんな仕打ちに遭いながらも、ふたりはめげることはなく、この瞬間に文集が1冊売れたことを心から喜んでくれている。
人はどうしたらここまで強くなれるのだろうか?
稜子にではなく、このふたりにも是非とも尋ねてみたいと思ったが、私のような部外者がそんなデリケートな問題に踏み込んではいけないと思い、口を噤んだ。
自分が購入した文集をその場でパラパラとめくる。
その様子を見ているふたりの生徒は嬉しそうである。
自分たちのやっている活動がやっと人に届いた、と喜んでくれているのだろう。
私は別に彼らを喜ばせることを目的にこの行為をした訳ではないが、文集の中身を確認する、という所作をこの場で即座に行って良かったと痛感した。
私はこの高校に入学してからずっとこの時を楽しみにしていて、1年D組の教室の前で捕捉されていなければ文芸部の販売ブースに直行してたはずなのだ。
私は期待を胸に目次を確認した。
<文芸・東雲>
ー目次ー
・サカスコータ「Five and Tongues」
・佐藤美禰子「傲慢な知性と千里眼」
・信濃涼子「残心」
・サカスコータ「我が桎梏」
・左京小紅「鴨川荘の六変人」
・三田真咲「内戦と迫害~シリアのキリスト教徒たち~」
・忠野潮「謝恩会の収斂~医学生・忠野潮の事件簿・最終回」
・高田茜「慰藉」
・あとがき:文芸部部長・飯山朱音
残念だ。
今年の文集には”あの作品”を書いた作者の名前がない。
もう卒業してしまったのだろうか。
私は内心、そのことに心の底から失望していた。
しかし、「あの作者の新作が読めるかも知れない」という一縷の望みは私が勝手に期待していただけの一種の盲信である。
この絶望とも呼べる失望をここにいるふたりの文芸部員に悟られてはいけない。私の心中を満たしている感情を彼らに伝えてしまうことはこの文集の作成に心血を注ぎ厳しい状況下でも販売を続けている彼らにとってはあまりに残酷な仕打ちであるからだ。
私はただ黙って目次を眺め続けた。
目次のどこを見渡しても筑間稜子の名前はない。
それに何なのだ?このサカスコータというふざけた名前は。
一瞬間を置いて、私は「文芸部員はペンネームを使っているのだろう」と推察した。
もしかしたら”あの作品”を書いた作者も別名義で書いている可能性がある。ああ、確かにその可能性は完全には否定できない。プロの作家でも作品のジャンルによってペンネームを変えることがある。文芸部員も同じことをしている可能性があると信じたい。前回は戯曲だったけど今回は小説もしくは論説なのでペンネームを変えている。その僅かな可能性にかけてみることに決めた。
とにかく私はこの文集をしっかり読んで、あの作者の作品がないかどうかを確認しなければならない。あれだけの文才のある人ならばたとえジャンルが違ったとしても作品を読めばあの作者の著作だと判別できるはずだ。
それに加えて、この文集のどこかに稜子の作品もあるのだ。本人がペンネームで投稿しているのだから、どの著者が稜子なのかを尋ねるのはマナー違反だろう。作品を読めば稜子の作品はどれかなのかは分かると思う。
そして、引っかかった文字列がある。
「サカス」。稜子から教えてもらったこのF組のバレーボールの得意な茶髪の生徒の名前は確かそんなような語感ではなかっただろうか?聞き慣れない苗字だったので記憶が定かではない。
私は文集を閉じると「とりあえず文集も買えたしこれ以上の長居は無用だから文芸部の販売の邪魔にならないようにこの場を去ろう」と決心し、ふたりの文芸部員に別れを告げようと手を振ろうとしたその刹那、後ろから声をかけられた。
「あ、遠見さん、ちょうど良かった。この辺りに文芸部の販売ブースってなかった?」
私は声のする方を振り返って声の主を確認した。
そこにいたのは意外な人物だった。
気が強そうな印象を与える目尻の上がった眼に整った顔立ち。髪型はボブで髪の色はダークブラウン。背も高くてモデルのようなスタイルの良さ。おっとりした雰囲気のある大和撫子の稜子と双璧をなす、A組の女子生徒の中では男子生徒から最も人気のあるふたりの女子生徒のうちのひとり、下条さんだった。
D組の舞台を一緒に観に来ていた友達ふたりも一緒にいる。
先ほど見かけたクラス演劇の中心メンバーはロイヤルブルーのクラスTシャツを着ていたが、私と同様に下条さんたちもクラスTシャツを着ていない。
なんで下条さんのようなどちらかというと派手で目立つ女子生徒が文芸部に用事があるのだろう。私には全く見当が付かなかった。
同じクラスにいても普段は全く会話をしない相手から不意に声をかけられて驚き、私は内心穏やかではなかったのだが、なんとか相手の質問の意味を反芻して
「ここですよ」
と簡潔に答えた。
すると下条さんはホッとした表情になって
「ちょうど良かった。ありがとう。遠見さんがいなかったら通り過ぎてた、っていうか、さっきも一度ここを通ったんだけど気がつかなくて迷っちゃった。よく見ると確かに『文芸部』って張り紙がしてあるわね。うっかりしてた」
と状況を説明してくれた。
下条さんも私と同じ境遇だったのね。しかも一回通り過ぎてしまったとは気の毒な。
お役に立てて何よりだ。
入学してから随分と時間が経っているが今回初めて下条さんとまともに言葉を交わした。
普段ほとんど話をしないクラスの人気者の下条さんの話ぶりが意外にも気さくで驚いた。もっとプライドが高く言葉尻の強い人かと勝手に想像していたからだ。
すると下条の連れの友達ふたりは
「見つかってよかったね」
「じゃあ、杏奈、また後で」
とだけ告げて何処かへ去って行った。彼女たちも一緒に文芸部の販売所を探してくれていたのだろう。良い友達ではないか。
おそらくサカスコータさんの正体であろうと思われる茶髪の生徒は下条さんに対しても笑顔で応対する。
「はい。文芸部です。文集は一部300円で販売しております」
彼は見た通りの人懐っこい性格なのだろう。一種近付き難いオーラを発している端麗な下条さんに対しても私のような者に対しても同じように柔らかく接している。こういう人はどこに行ってもうまくやっていけそうな気がする。
下条さんは
「1年A組の下条と言います。実は姉が文芸部のOGで、その姉から『今年の文化祭には来られないから文集を買っておいて欲しい』と頼まれたので買いに来ました」
と切り出した。だが茶髪の生徒は
「下条さん?お姉さんがOGですか?」
と全く理解できていないようだ。
この1年F組の男子生徒は何故一度も話したことすらないA組の私のことなんかを知っていて同じA組にいる人気者の下条さんのことを知らないのだ?普通の男子生徒なら下条さんの名前と顔を知っていることこそがむしろ優先されるべきでしょう?実に不思議な人だ。
一方、眼鏡の先輩の方は下条さんの言葉の意味を理解できていたようで嬉しそうに答えた。
「じゃあ、もしかして、去年の卒業生の下条加奈子先輩の妹さんですか?」
下条さんも嬉しそうに答える。
「はい。下条加奈子は私の姉です」
私は文集も買えたので今度こそその場を立ち去ろうと考えた。
下条さんのご家庭の事情まで聞こえてきてしまったので、これ以上この場に居合わせるのは不適切だと思えたのだ。
私は文芸部のふたりに目線でお礼を伝え、その場を離れた。
踵を返して5、6歩進んだところで再び下条さんから声をかけられた。
「遠見さん、ごめん。少しだけ待ってて貰っていいかな?」
驚いた私はつい反射的に
「はい」
と返事をした。
そう答えてしまった手前、ここからは立ち去れない。
こういう時に相手からどれくらい離れたところに待っていれば良いのかよく分からなかったので、私は文芸部のブースのすぐ近くのバリケードの前に立って待つことにした。
盗み聞きをするつもりはないが、下条さんと文芸部の眼鏡の先輩との会話が自然と耳に入ってくる。
「加奈子先輩はお元気にしていますか?」
という問いに対して、下条さんは笑顔で答える。
「はい。自宅から中府大学に通っているので毎日顔を合わせるのですが、この週末は大学の居合道部の合宿があるみたいで暁月祭に来られないことをとても残念がってました」
その言葉に驚いたようで眼鏡の先輩は
「加奈子先輩はてっきり大学でも文芸サークルに入っているだろうと思ってましたが、居合道ですか?ついに自分でもやってみたくなったんですね」
と尋ねる。下条さんも
「はい。書くのも楽しいけど実際に刀を握ってるともっと楽しい、と張り切ってました」
と嬉しそうに答える。一体何の話をしているのか私には理解できない。
眼鏡の先輩は
「道定重樹先生、あっ、加奈子先輩のペンネームです。妹さんには明かしても問題はないですよね。先輩の時代小説『秘剣・火焔狼シリーズ』はとても人気があるんですよ。特にOBやOGの皆さんの間では熱心なファンがたくさんいます。主人公の孤高の剣士のダークヒーローな魅力とかっこいい立ち回りのシーンの描写とが人気の秘訣ですよ」
と話を続ける。どんなジャンルなのかピンと来ないのだが下条さんのお姉さんは文芸部に所属していた人なのだ。侍かもしくは別の類の戦士が出てくるような小説を書いているようだから”あの作品”を書いた方とは別人だろうと思う。残念ながら。
下条さんはクスッと笑いながら
「そうですか!私はいつだったかの文集に載ってた姉の作品を読んだことがあるのですが、あまり良さが分からなかったんですよ」
と自分の正直な感想を述べた。
「加奈子先輩の作風は読む人を選ぶジャンルだからね。だからこそ逆に熱心なファンがいて、現在も道定重樹先生が進学先の大学で続編を書いているようであれば教えて欲しい、と連絡をくれるOBやOGも結構いるんですよ」
と眼鏡の先輩は下条さんのお姉さんの小説の人気ぶりを披露する。
「そうだったんですね。でも、残念です。姉は自ら剣士になる道を選んでしまいました。ですが、ファンの皆さんが続編を待っていることは伝えておきますね」
とさらっと答える。初めて知ったのだが下条さんは頭の回転が速く会話のテンポが実に良い。
眼鏡の先輩は手を合わせて
「よろしくお願いします。加奈子先輩がもしも小説投稿サイトにでも投稿することがあれば同じクラスの筑間さんに伝えてくれると嬉しいです」
と下条さんに依頼する。きっとたくさんの人から続編が読みたいとせがまれているのだろう。
「ネット小説ですかあ。そこは私もチェックしてないです。もしかしたら既に作品を投稿しているかもしれないですから、姉が合宿から戻ってきたら確認しておきますね」
と下条さんも請け負う。
私はこの一連の会話を聞いていて意外なことに気付いた。
普段から友達とかっこいい「バスケ部の大町くん」の話に花を咲かせている下条さんが、どう見ても冴えない感じの眼鏡の先輩と楽しそうに会話をしているのだ。
下条さんのグループの人たちって、かっこいい男子生徒以外には興味ないのだろう、とずっと思っていた。彼女たちは下条さんを筆頭に自身も見栄えがしてクラスの男子たちから人気がある子たちばかりなのだ。そんなグループの筆頭が地味な文芸部員の先輩とお姉さんの話で盛り上がっている。下条さんの表情から察するにその言動に嘘偽りはない、と思う。
私は下条さんのことを先入観で判断しまっていたのかも知れないと反省した。
下条さんはまだ眼鏡の先輩と話しているが、私は遅ればせながら我が身に降りかかってきている危機に気付いた。
一体何のために下条さんは私をわざわざ呼び止めたのだろう?
思い当たる節はある。
私は1年D組の演劇の初演を観た。しかもあのような目立つ形での入場をしたのだから下条さんには確実に知られてしまっているだろう。この遠見咲乃は開演直前に満員の会場へ入って来て見知らぬ男子生徒に席を譲らせてまでD組の舞台を観たのだ。問題視されても仕方あるまい。
それに春の球技大会では、男子のバレーボールの決勝戦を稜子と一緒に観戦していたところを見られたはず。試合中に何度か下条さんと目が合った。離れたところにいても下条さんの鋭い視線には流石に気付く。私は稜子の友人のそこにいる茶髪の文芸部員の生徒を応援しに行っただけなのだがそんな理由を話したところできっと信じてもらえないだろう。確定した事実として、球技大会になど全く関心を持っていないはずの1年A組の遠見咲乃はわざわざ自分のクラスと関係のない1年D組対1年F組の男子バレーボール決勝戦を観に来ていたのだ。それも気に入らないと不快に思われている可能性がある。
悪気があろうとなかろうと私のような者が下条さんの大切にしている領域へ踏み入ってしまったことを快く思ってはいないだろうことは容易に予想される。特に今日は狙い澄ましたかのように下条さんのお気に入りの「バスケ部の大町くん」の初演の舞台を観に行った、と誤解されても仕方ない。
恐らくこれからきつく叱責されるのだろう。私はそう覚悟しながら下条さんと眼鏡の先輩の会話が終わるのを待っていた。
これが日本の学校で脈々と受け継がれている、と噂に聞く「いじめ」の始まりなのだろうか?
やはり私如きが下条さんのお目当ての男子生徒の周辺に現れてはいけなかったのだ。偶然が重なったとは言え、その配慮に欠けていたことを深く後悔した。正直なところ、今すぐこの場から逃げ出したかった。だが、例えこの場から逃げても下条さんには友達がいるからいずれ追い詰められて捕まるだろう。ならばいっそのこと逃げたりしないで指示通りに待っていた方が心証は良いはずだ。
文芸部の販売ブースにいるふたりの男子生徒は明かに良い人たちなんだけど頼りなさそうに見えるからとても助けてくれそうにない。
目の前の検問所にはふたりの自治委員がいるが、流石に下条さんもその前で堂々と詰問することはないだろう。まずは目立たない場所に連れて行かれるのが定石だろうから、自治委員の誰かが偶然にでも通りがからない限り誰も助けてはくれないはずだ。
私がひとり懊悩しているうちにいつの間にか下条さんは眼鏡の先輩との会話を終え、お姉さんのために購入した「文芸・東雲」を手にして私の前に立っていた。
文芸部の文集がこれで2冊売れた、良かったね、稜子。
現実逃避のために、そんなことを心に思い浮かべていた。
早速、下条さんが柔和な笑顔を保ったまま
「お待たせしてごめんね。じゃあ遠見さん、場所を替えて少しお話しできるかな?時間があればで良いんだけど?」
と話しかけて来た。やっぱりだ。私はこれからきっと辛い目に合う。
ここで涙の一つも出せば文芸部員か自治委員か誰かが助けてくれる可能性はあるだろう。だが、生憎と私はそこまで弱くはないので泣けない。
やむなくこう答えた。
「はい。良いですよ」
すでに別の場所で待機させている友達のところへ連れていかれ、3人がかりで厳しく追及され、たくさんの苦情を受け、もしかしたら2度と歯向かって来ないように心を折られるのかも知れない。
やはり「今からでも逃げたほうがいいのかな」と思ったりもするのだが足が竦んで逃げられない。第一、走って逃げたところで私は運動の苦手な、おそらくこの学校で2番目に走るのが遅い女子生徒だ。相手はバレー部員である。結果は火を見るよりも明らかである。
私は下条さんに言われるがままに付き従って移動した。目的地は中庭であった。
体育倉庫の裏とか武道場の裏とか人気のないところへ連れて行かれることを覚悟したので少々拍子抜けした。
「じゃあ、ここでお話しましょう」
と促されてふたりでベンチに腰掛けた。先ほど私がアイスティーを飲みながら休憩していたのと同じ木陰のベンチだ。
意外にもそこには誰も待ち構えていなかった。その場にいるのは下条さんと私のふたりだけ。下条さんのグループのふたりの友達はいない。
ひとり静かに時を過ごして心身を休めた先刻とは違い、今はとても心の休まる気がしない。
針のむしろに座らされている感じがした。
下条さんからどんな厳しい言葉が出てくるか、私は内心怯えながら待っていた。
しかし、下条さんは中々その「話」を始めない。
そして意外なのは下条さんの表情。先ほどの柔和な表情のままなのである。
いつもは見た目がキツい印象だったのに、今は何故かとても穏やかな雰囲気なのである。さらにはにっこりと笑顔まで浮かべながら、ついにこう私に問うた。
「遠見さん。さっきのD組の舞台、観に行ってたでしょ?」
嘘をついても仕方がないので私は正直に答えた。
「はい。観に行ってました。従姉妹のいるクラスなので」
下条さんは驚いた表情で尋ねた。
「遠見さん、従姉妹が同じ学年にいるの?」
私は隠しても仕方ないので事実を伝える。
「はい。D組の遠見有希は私の従姉妹です」
下条さんは一瞬空を見上げてから思い出すように
「ハンドボール部の遠見さんのこと?」
と重ねて問うた。
「はい」
と私は答えた。体育会系の部活の部員同士だから面識があってもおかしくない。
「私ね、赤野台中学の出身だから有希とは同じクラスになったこともあるの。奇遇ね。それとね、遠見さん。同じクラスなんだから、もっと気軽に話してくれて大丈夫だよ」
と下条さんは何故か私に気を使っているような様子である。有希とも中学時代からの知り合いのようだ。だからと言って私に免罪符が与えられると決まった訳ではないので警戒は続けた。
「すみません、慣れなくて」
とだけ答える。
「遠見さん、真面目だもんね。少しずつ慣れてくれればいいわ。
で、どう思った?」
と尋ねられた。質問の真意が掴めない。迂闊なことは口走らない方が良いだろう。
「え?どう思ったか、ですか?あの演劇を観た感想ですか?」
と確認を取る。
とうとう本題である「バスケ部の大町くん」の話が始まるのだと身構える。
だが、下条さんの口からは
「うん。面白かったよね」
と意外な言葉が出て来た。「大町くんがかっこ良かった」ではない。何故だ?
言葉を選びながら私は答えた。
「はい。面白かったし、なんというか、上手く言えないのだけれど、みんな一所懸命やってたのが印象的でした」
これなら逆鱗には触れないと思う。
その返答を聞いた下条さんは急に真剣な表情になった。
私はどうやら逆鱗に触れてしまったようだ。返答に失敗したのか?
だが意外にも下条さんは
「だよね。せっかくの文化祭なんだし、やっぱあれくらいやってもらわないとダメだよね。D組の子たちは夏休みも平日はほぼ毎日練習してたらしいもん」
と表情を崩さずに力説を始めた。何の話題について話していたんだったっけ?と事の発端を思い返す。そうだ、1年D組の演劇の話をしていたのだった。まだ「バスケ部の大町くん」を巡る議論は始まっていない。
とりあえず、私は話を合わせる
「ほぼ毎日?」
私は学校から指定された出校日と合唱部の練習のある日と1年A組の自称・ゲネプロの日以外には夏休みに登校していないから他のクラスの演劇の練習状況など知らない。何故そんな話を私に振るのだろうか?
下条さんは続ける。
「うん。私はバレー部の練習で登校した時にD組の様子を見に行ったことがあるんだけど、いつ行っても誰かしらが教室で練習しててね。キャストの子たちに向かって舞台監督がかなり厳しいことを遠慮なく言ってて驚いたの。『こんなキツいこと言ってても大丈夫な信頼関係なんだな』って尊敬したわ」
下条さんは「バスケ部の大町くん」の演劇の練習風景を見たくてD組の教室に足繁く通っていたのだろう。これが目的なのは間違いない。だが、そこであの演劇の舞台裏を観てしまったのだ。
体育会系の厳しい部活で頑張っている下条さんが側から見てても心配するくらいの厳しい稽古をD組はずっと続けていたのか。あの舞台を観ているから別に驚かない。それくらいの修練があの舞台の裏にはあると考えるのが当然である。
私も納得しつつ言葉を繋ぐ。
「それくらいD組のみんなは本気だったってことでしょう」
下条さんは大きく頷いて
「そう。そこが重要なのよ。だから私たちは真っ先にD組の舞台を観に行ったの。夏休みの間ずっとあんなに頑張ってたんだもん。文化祭の本番でどれほどのものを観せてくれるのかな?って興味があったから。もちろん、他にも理由はあるけど、まあそれは遠見さんも知ってるよね」
私は黙って首肯する。
大町くんが目当てという理由に違いない、と分かっていたがそんなことは今更言うまでもないし、下条さんも私に隠そうともしない。
ともかく、「バスケ部の大町くん」が主要な論点ではないことが判明したので私はの底から安堵した。
それにしても意外だ。下条さんはお気に入りの男子生徒が出てるから、っていう目的だけじゃなくて、ちゃんとクラス演劇としてD組の舞台を観に行って評価している。
下条さんは大きくため息をついてから続ける。
言葉が更に熱を帯びる。
「やっぱり、予想を超えて凄かったよ、D組の舞台は。
男子バレー部の上田くんなんて部活の練習でも真っ先にコートに来て自主練してて、最後まで居残りしてるんだよ。先輩たちからの期待も大きいからチーム内で一番厳しく鍛えられていて、それでもへこたれたりしないで頑張ってる。
大町くんもそう。バスケ部に入部したての頃からレギュラーの先輩たちと一緒のチーム練習に加わってて1年生の中でも一番大変なのに、部活の練習が終わってからも体育館に残って残ってずっとひとりで黙々とシュート練習をしてるの。だから1年生なのに先発メンバーだけど誰にも文句は言わせてない。
小海さんだって女子サッカー部のエースだから部活の練習が大変でしょ?
クイズ研の子は名前なんだったっけな?」
下条さんは何とか思い出そうと宙を見上げる。
私は大切な友人の名前を伝える。
「ひかりのことですか?」
「ひかり、、、そうそう、安住ひかりさんだっけ?あの子もクイズ研で頑張ってたんでしょ?私はテレビのクイズ番組を見てないけど。
キャスト全員がそれぞれ部活が忙しくて大変なのに、空いた時間を全て練習に充ててるような姿勢で厳しい稽古を重ねて短期間であそこまでの舞台を作り上げてきた。やっぱ違うよね」
下条さんはひかりのことまで褒めてくれた。私は自分のことのように嬉しくなった。
私はこの人についても語るべきだと思ったので
「キャストの生徒たちも頑張ってたけど、やっぱり、最後に紹介された舞台監督の人が一番凄いんじゃないかな?」
と自分の考えを述べた。間違いない。この会話の向かう先は当初の私の予想とは全然違うはずだ。別の方向へ進んでいると思う。
下条さんも大きく頷く。
「だよね、やっぱり。彼、確かサッカー部の人なんだよね。名前忘れたけど。うちの学校で一番多い白川中学の出身の人たちの間にとっては結構な有名人らしいよ。サッカーでも勉強でも学校行事でも何でも一所懸命頑張ってるんだって、昔から」
やはりあの舞台監督は誰もが認める凄い人だったのか。
「有名人なんですね」
と当たり前のことを訊き返す。
「うん、男子でも女子でも白川中学出身の子で彼のことを悪く言う人はいないもんね。きっと噂に違わぬ凄い人なんだと思うよ。やっぱりD組は結果を出して来たって一緒に観た友達はふたりとも喜んでたよ」
そうか、下条さんの友達もD組の舞台を演劇作品として評価しているのか。私と同じだ。
一呼吸置いてから下条さんは続けた。
「だからね、D組のクラスの演劇だけはこの先も何回か観に行こうってみんなで話してたの。それならさあ、『話の通じそうな人がもうひとりいそうだから、どうせならその人も一緒の方がもっと楽しいんじゃないかな?』ってことになったのよ」
下条さんはすっかりD組の演劇のファンになったということなのね。でも、最後の文章の意味が分からない。
「え?何の話をしてるんですか?」
と私は訊き返す。もしかしたら?という期待もあったが、それは単なる私の勘違いかも知れないので。
すると、痺れを切らした下条さんは
「私たちと一緒にD組の舞台を何回も観に行かない?って誘ってるのよ。もう、遠見さんは真面目を通り越して鈍感すぎだよ」
と声を荒げる。若干の照れもあるようだ。頬が赤い。
「私と、一緒に?」
念のため確認する。想定外の事態になってしまったからだ。
「もちろんよ。ふたりとも『人数が多い方が楽しいし、遠見さんなら良いよ』って大歓迎だから。ダメ?」
何故私の方がお願いされているのか話の展開が急過ぎて動転しているが、なんとか答えた。
「いいえ、ダメじゃないです。私なんかで良ければ」
下条さんはホッとした表情でスマホを取り出すと
「じゃあ、決まりね。この先、校内の他のところも観て回ると思うから次にどの公演を観に行くか連絡を取り合えるようにDINEのIDを交換しない?」
と提案した。
「え?いいの?」
と驚いたが、
「いいのも何も、こちらからお願いしてるんだけど、ダメかな?」
と頼まれてしまった。断る理由がないので
「いいえ。もちろん大丈夫です。私なんかのIDで良ければ」
私は同意した。
学校の非常用連絡網としてDINEを利用することもある、と入学説明会で伝えられていたため、私のスマホにはDINEのアプリが入っている。幸いなことに入学以来一度も災害や事故などの緊急事態は生じておらず、いまだに学校からの非常用の連絡手段として使ったことはない。私用でも使ったことはなかった。久しぶりにアプリを開いた。
私はDINEの使い方をすっかり忘れていたので下条さんは呆れていた。
下条さんに操作法を改めて教えてもらいながらIDの交換を行った。
こうして私のスマホのDINEのアプリには稜子とひかりに続いて、3人目のIDが登録された。まさか、稜子とひかり以外の生徒とID交換をする日が来ようとは全く予想していなかった。
そのついでにDINEには非常時の連絡網以外にも文化祭のために新設された学内の生徒向けの「暁月祭専用連絡網」があることも教えてもらった。早速、その連絡網にも登録して書き込まれている情報を確認してみた。1年D組のクラス演劇の初演についての話題も多く、当然ながら高評価なようだ、と知った。
周りを見回して知り合いがいないのを確認してから、下条さんは小声で話し始めた。
「もうさあ、うちのクラス、ダメじゃない?ここだけの話」
私も首肯してから答えた。
「まあ、強いて言えば」
下条さんも大きく頷いてから
「D組と比較しちゃうとね。やってることが甘過ぎるのよ。
何度かついでに観に行ってみたけど練習はいつも和気藹々と楽しそうにやっててさ、基本の発声練習をしたのは最初の一回だけらしいよ。みんなお友達だから頑張りすぎず楽しくやっていこうね、って感じで練習もそんなに必死にしなかったみたい。ミュージカルなのに肝心の歌については各自カラオケで練習するだけだったみたいよ。あのゲネプロなんて酷かったもんね。あんなの人様に見せて自分たちの評価を下げて恥ずかしくないのかな?」
と有り体に思っていることを話した。
この人は私のことを信頼してくれているんだ、と実感した。
私にはゲネプロのあの出来栄えを正当に評価できている自信がなかったので
「元のアニメ映画を観てないから私には分からないけど、下条さんから見てもやっぱりそうなの?」
と自分の審美眼が正しいかどうかを確認するための質問をした。
下条さんは首を横に振ってから
「私だってあの映画は観てないよ。アニメもミュージカルも観ないから。
でもさあ、流石にあんなものを完成品って言っちゃダメだよ。
私みたいな素人が見ても歌も演技も下手だし、原作の映画を観ていない人にはストーリーが全く理解できないでしょ?
衣装もね、手芸部の子が自分のブランドのファッションショーか何かと勘違いしてるんじゃないかな?どのキャストも同じような服を着てたじゃない。あんな狭い舞台に同じような服装を着たキャストがたくさんいたら、もう誰が誰やら全く区別できないよね。
Tシャツとシンプルなボトムスだけで登場人物の個性を浮き立たせてたD組とは大違いよ。D組は衣装係の子も凄いよ。
D組は何より選んだ作品が面白かったじゃない。私が今までタイトルを聞いたこともなかった作品だけど。
折角ふたりの生徒がクラス演劇向けの作品を候補に挙げてくれたのに議論もしなかったA組とは雲泥の差よ」
下条さんの意見は私と合致していた。
下条さんはさらに続けて
「私はこれでもバレー部の一員として必死に部活に打ち込んでいるから、ああいう真剣にやってない、チームとしてまとまらずに自分勝手なことばっかりやってる人たちって許せないのよ。だから、もうA組のクラス演劇なんてどうでも良いのよ。あの人たちとはノリが合わないから私たちはクラスの文化祭の打ち上げにも行かないつもりよ」
と一気に捲し立てた。
その語勢に押された私は
「下条さんって、意外です。そんなに思ったことをはっきり口にする人だと思ってもなかったので」
と心中を明かした。
「私だって誰に対してもこんな風に思ってること全てを喋ったりする訳じゃないわよ。なんかね、遠見さんって、今までの印象と全然違ってたの。実際に話してみると、話しやすい人なんだね。
遠見さんは『下条がA組の演劇を酷評していた』なんてことを絶対に周りに言いふらしたりしないでしょ?だって遠見さんは真面目で信頼できそうだもん。
やっぱり、思い切って声をかけて良かったわ」
と下条さんも意外な心情を明かした。綺麗な顔に安堵の表情を浮かべていた。
私のことをそんな風に見ていてくれた人が同じクラスにいたなんて。とても嬉しかった。そして私も心のままに話した。
「私も下条さんがこんなに気さくに話してくれる人だと思ってなかったから驚きました」
下条さんは一転して困ったような表情になり
「もう、遠見さんったら。遠慮しすぎよ。
それとね、私のことは『下条さん』じゃなくて『杏奈』で良いよ。筑間さんも安住さんも下の名前で呼んでるでしょう?私もそれで良いよ。遠見さん、そっちの方が呼びやすいんでしょ?
それにさ、私の名前って『あんな』だから遠見さんも呼びやすいでしょ?」
と魅力的な右目でウィンクする。
同じ女性の私でもドキッとする魅惑の笑顔だ。
「はい。確かに呼びやすいです。『杏奈』と呼びますね」
と魅了された私は素直に従う。杏奈の特徴的な目にはそれだけの魅力がある。
「じゃあ、私も『咲乃』って呼んで良い?」
嬉しそうな表情で杏奈はそう尋ねるが私には断る理由がないので
「ええ、もちろん」
と歓迎する。
「それじゃ、決まりね、咲乃。1年D組の舞台は今日の午後にもう一回観に行くわよ。明日からは一般公開があるから今日とは段違いに混み合うだろうから、今日のうちにもう一回観に行こう。咲乃は同じ舞台を1日に2回も観るのは嫌?」
と早速、お誘いが来た。もちろん大歓迎である。元よりD組の舞台は繰り返し観るつもりだったのだから。
「はい。大丈夫です。私もそのつもりでした」
と即答した。
「じゃあ、集合時間とかはまた連絡するね。で、咲乃はこの後どこに行くの?」
「特に予定は決まってないです」
「じゃあ、お弁当一緒に食べない?ちょっと早いけど。空いてる教室が生徒の休憩スペースになってるからそこで一緒にどう?」
「良いですよ」
「じゃあ、今から一緒にお弁当を取りに行って、お昼にしよう」
私たちは中庭を小走りに駆け出した。
うっかり段差につまづいて転びかけた私は杏奈に身体を支えられた。
「もう咲乃ったら。だから放っておけないのよ」
杏奈が素敵な笑顔で私に囁く。
こうして、私にこの高校で3人目の友達が出来た。
私が素晴らしいと感じたものを観て同じく素晴らしいと感じてくれる感性の持ち主で、同性の私までも魅了してしまうとても素敵な女の子。
自分では一歩を踏み出す勇気のない私に向かって、私が後ろに下がった分まで大きく前に進み出て来てくれたのだ。杏奈のその勇気に対しては言葉にできない感謝の気持ちでいっぱいだ。
「素晴らしき哉、人生!」
不思議と昔観たことのある古いモノクロ映画のタイトルが脳裏をよぎった。
悲恋や悲劇ばかりを好んで観ているはずの私がこんな映画も観ていたんだな、と自然と笑みが溢れた。
(続く)




