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羊飼いも山羊もいない  作者: 遊舵 郁
九月、祭りのころ
43/63

【39】白薔薇の女王:第2節

 暁月(あかつき)高校に入学し、私は期せずしてあいつと再会した。

 その時にはただ「世の中って意外と狭いんだな」くらいの印象しかなかった。



 高校で同じクラスになったので、教室でのあいつの様子を見ていて気づいた。周りのみんなにとってあいつは縁の下の力持ちなどではなく、あいつ自身が太陽のような人なのだ。

 あいつの周りには自然と人が集まりその誰もが笑顔になる。

 太陽系の中心であり、自分の周囲を回る惑星を明るく照らす恒星。そういう存在であった。

 そんなあいつと楽しそうに接している仲間たちの様子を遠目に見ているとその人の輪から離れた自分の席に佇む私の心までが暖かくなるのを感じた。


 休み時間にも教室にいれば時折、あいつが楽しそうに話している内容が耳に入ることもある。大概は学校内の可愛い女子生徒の話ばかりなので私はイライラさせられた。

 何故そんな些細なことが私の気に障るのか、その理由に気付くのには随分と時間がかかった。

 まさか私のような者がそんな感情を持つことになるなんて想定していなかったからだ。



 春の球技大会では、あいつが中心となってうちのクラスの男子生徒たちが練度の高い凄いバレーボールのチームを作った。試合中はあいつのキャプテンシーと頼もしい姿から目が離せなかった。クラスのみんなの期待に応えて優勝を勝ち取った。圧勝であった。


 大会後にカラオケ屋さんでクラスの打ち上げがあった。1年D組で勝手に設けた今回の球技大会のMVPに選ばれたこともあって、今回の主役であるあいつはやはりクラスの中心で輝いていた。

 私には隅っこの席に座ってそんなあいつを眺めていることしか出来なかった。




 7月にセミナー合宿のために研修センターへ向かうバスの中であいつは私の席のひとつ後ろに座っていた。あいつが女子生徒の隣に座れず落ち込んでいるのが分かった。あいつでも落ち込むことがあるんだな、と驚いたが、その理由が実に下らないのがあいつらしくて笑えた。


 パーキングエリアでの休憩後に後ろの席から自然と耳に入ってきたあいつの「自分が今までの人生でいかにモテなかったか」という回顧録は聞いていた私までも胸が痛くなった。

 あいつが次々にフラれていく話を聞きながら「なんで世間の女の子たちは誰もあいつの良さを理解できないの?」と怒りすら覚えた。




 夏休みが近くなると文化祭で上演する教室演劇の演目を決める討論の場が設けられた。2つの戯曲が最終候補に残り、そのどちらに決めるかという話し合いは何度も暗礁に乗り上げかけた。結局、いきなり舞台監督に立候補した生徒の鶴の一声で文化祭で披露するクラス演劇の演目がドタバタコメディーの方に決まると同時に、なし崩し的にその相棒でありクラスのお笑い担当でもあるあいつが主演を務めることが決まった。

 私もすぐさま演者に立候補した。

 女子サッカー部の先輩たちから「1年生や2年生のクラスでは文化祭の演劇をきっかけに仲良くなって付き合い始めるカップルが毎年のように現れる」というジンクスを聞いていたのもあったが、そこまでは望まないとしても、何より私はあいつのそばにいたかったのだ。演者に選ばれれば、夏休みの間も演劇の練習の間は私はあいつと一緒にいられるからだ。


 上演作品の候補として挙げられて梗概(こうがい)のプリントを読んで演劇の概要を知った時から分かっていたのは、探偵事務所の中で繰り広げられる物語の4人の登場人物が全て男性のようだということ。だがそれがどうした?私はどうせ周りから「男勝りな女」だと思われているのだからいざとなったら男装してでもその演劇に出演するつもりでいた。実際にそう宣言した。幸いなことにこのお芝居には気の強い空手家の役がある。ちょうど私にぴったりの役だと思っていた。



 後日、担任の先生から上演予定の作品について報告があった。先生が原作者の主宰する劇団とコンタクトを取ってくれたおかげで正式に上演の許諾が得られ、同時に女子生徒の出演も了承された。私は正式に自分が舞台に立てることが決まったので、ホッと胸を撫で下ろした。


 舞台監督と演者の他に、演出助手や衣装係、音響係や舞台写真係などの役割分担が次々と決まった。

 それぞれの担当の生徒たちは芝居の稽古と並行して準備を進めてくれた。


 夏休みに入ってから、私は少しでも今までの「鋼鉄の女」「男勝りな女」というようなイメージを変えたくて髪を伸ばし、髪の色を変えた。

 ひとりで決めて両親には無断で美容院へ行って髪を染めてきたのだが、特に両親から叱られはしなかった。父は些か驚いていたが、母はむしろ

「少しは女の子らしいこともするようになったじゃない」

と喜んでいた。



 夏休みに女子サッカー部のミーティングが学校のチャットスペースで行われ、用事が済んでから他にはどんな話し合いが行われているかと閲覧していたら、おそらくあいつとあいつの相棒が主催していると思われる「この際だから学内でどの子が一番可愛いか決めようぜ!」というチャットがあったのでチャットルームに入ってその模様を見てみた。自由参加のチャットであり、女の子の参加も歓迎されていたから私が見に行っていけない理由はない。


 そのチャット内で、自分は誰某(だれそれ)が学内で一番可愛いと思う、というような実に下らない内容について力説しあっている男子生徒たちの熱い議論を眺めていて思わず爆笑した。

 当然ながらハンドルネームを使用して議論していたのだが、どの生徒があいつなのかすぐに分かったので、その場であいつの好きなタイプの女子の傾向がわかった。優しい女の子からややキツめの女の子まで守備範囲はとても広い。実にあいつらしい。

 それでも私は少なくとも自分があいつの好みの範疇に含まれていないことを確認できた。元より分かってはいたことだったが、実際に現実を突き付けられると少し心が痛んだ。



 お盆休み明けに演者の衣装合わせがあった。みんなで同じブランドのTシャツを着て、ボトムスや靴は衣装係のコーディネートに沿った趣旨の私物を持参して着用して舞台に上がることは前もって伝えられていた。なんと私はミニスカートを履くことになっていた。私はミニスカートなど持ち合わせていなかったので、スカートとスカートの下に履く短パンを衣装係が前もって用意してくれていた。

 周囲の生徒たちはとても驚いていたが、一番驚いていたのは私自身だった。


 衣装係の女子生徒にこっそりとその意図を尋ねると、私が舞台で着るTシャツに描かれた「学園都市の電撃使い(エレクトロマスター)」というアニメの主人公の女の子のビジュアルと私の外見の雰囲気がなんとなく似ていたからそのキャラクターの服装に似せた、ということだった。なんとなく合点がいった。

 そして、小声でこう付け加えた。

「その主人公の女の子は強くてみんなに頼られるヒーローなんだけど、実は密かに思いを寄せる身近な男の子の前では素直になれない不器用で可愛い一面もあるのよ。だから、あなたにぴったりでしょ?」


 私という人間の本質と胸に秘めた想いを見抜いている人がクラスの中にいたのでとても驚いた。もちろん彼女はこのことを誰にも口外しないと約束してくれた。



 この衣装係の女子生徒はいつも学校の制服を可愛らしく着こなしているので常日頃より羨ましく思っていたのだが、この一件があってから私は彼女と親しくなり、休日には一緒に洋服を買いに出かけるようになった。ボーイッシュな私と可愛らしい彼女がふたりで街中を歩いていると案の定、よく男女のカップルと間違えられた。



 夏休み中のある日曜日にふたりで中府(なかくら)市内の繁華街に買い物に出かけた際、いくつかのお店で買い物をしてからカフェでお喋りをした。彼女の話は可愛い女子高生が好きなもので満ち溢れていて、サッカーと陸上に人生の大部分を費やしていた私にとってはとても新鮮であった。楽しいひと時もあっという間に終わりそろそろ帰ろうとカフェを出てから駅へ向かう途中で、彼女がフランス語らしき店名のお洒落なお花屋さんへ立ち寄った。

 訊けば、その日は彼女のお母さんの誕生日だったとのこと。そんな大切な日に私との買い物なんかに付き合わせてしまったことを謝ったが、彼女は

「お母さんはお父さんと今日一日デートしてるから良いのよ」

と笑顔で答えた。うちの両親も相当仲が良いと思うが、彼女の両親もとても夫婦仲が良いようだ。


 彼女は自分のお母さんへ誕生日プレゼントとして贈る花束を頼んでいた。若い男性の店員さんに予算を伝えて「お任せで」と依頼していたが、お店の中にある花を見回してからこう付け加えた。

「白い薔薇を一輪入れて下さい」


 花束が出来上がるのを待っている間に彼女からこんな話を聞かされた。

「白い薔薇はうちのお母さんが大好きな花なの。きっとお父さんからもいっぱい贈られているだろうけど、私からの花束にも一輪くらいは入れたいなって思ったの。

 お母さんから白薔薇の花言葉を教えて貰ってたんだけど、ちょっと待ってね」

 スマホのメモを見ながら彼女は続けた

「えっと、『純心』『私はあなたにふさわしい』『深い尊敬』『無邪気』『約束を守る』だって。誰かさんにぴったりじゃない?」


 私は思わず照れてしまい赤面した。

 ちょうどそのタイミングで彼女の頼んだ花束が出来上がって店員さんが「いかがでしょう?」と確認に来てくれた。

 色とりどりの花たちに囲まれて白く美しく咲く薔薇の花。

 私もそんな風になれたら良いのにな、などとと柄にもないことを考えてしまった。


 駅で彼女と別れてから私は地下鉄に乗り、自宅への最寄りの駅の一つ手前の駅で降りた。

 確か、この駅の近くにあったはず、、、と記憶を頼りに表通りから一本奥の路地へ入り、目的のお店を発見した。良かった、まだお店があった。

 雑居ビルの角にある古い店構えの小さなお花屋さん。中学時代に何度か前を通りかかったことがあったので覚えていたのだ。

 今までお花屋さんなんて母の日と父の日くらいしか行ったことはなくて、その時は自宅の近くのお花屋さんを利用した。今回は、事情が少し異なるので自宅の近所のお店を利用するのは躊躇われた。隣の駅のそばの店ならばご近所の知り合いに遭遇する恐れは無いだろう、と判断したのだ。


 私は緊張しながらその小さなお花屋さんに初めて入った。

 お店には年配の女性の店員さんがひとりだけいた。店主であろう。私と目が合うと

「いらっしゃいませ。どういったご用命でしょうか?」

と笑顔で声をかけてくれた。

 私は照れ臭さを振り切って

「あの、もし白い薔薇があれば、それを一輪だけ欲しいのですが」

と勇気を出して頼んでみた。

「白い薔薇ですね。ございますよ。一輪ですね。プレゼント用ですか?」

と返答が来た。白い薔薇がお店にあって良かった反面、贈る相手もいないのに花を買う自分がとても惨めに思えて後悔した。

 怪訝そうな顔をして店主がこちらを見ているので、頑張って

「いえ、自分用に、買うので、包装は簡単で結構です」

と返事をした。

 すると、店主は

「ご自分のお部屋にお花を飾られるのですね。とても良いご趣味です。

 お嬢さんは高校生ですか?お若いのに素敵ですね」

と笑顔で褒めてくれた。私のことをちゃんと女の子として見てくれた。とても嬉しかった。


 店主は自分用に購入する一輪の花だというのにとても綺麗に包装を施してくれて、美しい白薔薇がさらに輝いて見えた。

 代金を受け取ってお花を私に渡すと、お礼を伝えた私に向かって店主は

「是非ともまたお近くにお越しの際には当店へお立ち寄り下さい。その日のあなたの気分に合わせた季節のお花をご用意いたしますので」

と丁寧にお辞儀をしてくれた。良いお店を見つけた。私は勇気を出した自分のことを心の中で褒め讃えた。


 帰宅すると母が花を手に帰宅した私を見て

「綺麗な白薔薇ね。ちゃんと生けないとダメよ」

とだけ口にして水を入れた花瓶を渡してくれた。お花の手入れについて簡単に説明をしてくれた。

 私は自分の部屋に行き、丁寧に包んでくれた包装紙を剥がして一輪の白薔薇を花瓶に差した。

 私はこの花のようになりたい、という願いを心に抱きながらしばらくの間、この白薔薇のそばで暮らした。


 その後も、花瓶のお花が枯れるとまたあのお花屋さんへ行き、次の花を買って自室に飾る習慣がついた。お店にある時には必ず白い薔薇を買った。


 私の部屋にはもうひとつ変わったことがある。

 この夏休みの間にお洒落に詳しい友人の協力のおかげで私の洋服箪笥の中には女の子らしい洋服が増えた。しかし、私にはまだその洋服を着て外に出る勇気がないので人前ではまだ披露できていない。




 夏休みの間、サッカー部の練習のない平日の昼間はほとんど全てクラス演劇の練習に充てられた。舞台監督の生徒の求める演技のレベルが予想以上に高く、小さな頃からサッカーと陸上競技に明け暮れて演劇経験は勿論、文化的な活動など全くして来なかった私はその要求についていくのがとても大変だった。

 それでも舞台監督の期待に応えるため、そしてあいつの前で良いところを見せるために、役作りの一環として自主的に中府市内にある有名な空手道場にも体験入門した。


 サッカーや陸上のような西洋のスポーツと日本の武道は基本動作がまるで違う。

 慣れない構えの姿勢や重心移動や体捌きに苦戦しながらも何とか人前でお見せできるくらいの基本動作を身に付けることができた。体験入門の短い期間だけでこれだけことを達成できたので我ながらよく頑張ったと思う。

 体験入門が終わり、道場の皆様へお礼を言って去ろうとしたが、道場の師範代から引き止められて

「うちの道場へ門下生として正式に入門して空手を極めるつもりはないか」

と真剣に勧誘された。

 とても光栄な話であるが「文化祭のクラス演劇に生かすため」という不純な動機で空手道場に体験入門した自分のことを心の奥で恥じていたので私は言葉を尽くして丁重にお断りした。師範代は

「気が変わったらいつでも来て下さい。空手の道はいつでもあなたに開かれてますから」

という実に勿体ないお言葉まで私にかけてくれた。



 こうして、サッカー部の活動、演劇の練習、空手の体験入門、そして人生初の女の子らしいイベントの数々で満たされたとても充実した夏休みが終わった。




 夏休みが明けると実力テストがあり、その後、待ちに待った暁月(あかつき)祭が始まった。


 1日目に開催された体育祭で、私は100m走とクラス対抗リレーと部活対抗リレー、それに加えて、自分が求められている役割はまさにこれであろう、と予想して立候補した女子生徒による男装コンテストのミスター暁月コンテストにも出場した。


 私の最初の出番である100m走のレースのスタート前。スタートラインで準備しているとゴール付近で待っているあいつの姿が見えた。クラスメイトたちと一緒に応援に来てくれていた。

 私は笑顔でVサインをしてあいつに勝利を誓った。すでにクラスのみんなの前でも「私は勝ってくる」と宣言していた。まず自分の高い目標を口にして退路を断つ。これは私のメンタル・コントロールの仕方であり、競技に臨む際のルーティーンの一貫である。私は決してみんなが言っているような「強心臓」ではないのだ。

 女の子らしさのない私にはこういう競技でのアピールしかできない。他の女子生徒たちのように可愛く振る舞うことなど出来ないからだ。ならば逆に得意分野でとことん私の良いところをあいつに見せつけて振り向いてもらうしかない。

 私はその瞬間に決めた。あいつが見てくれている競技は全部勝つ。それで力づくであいつを振り向かせてみせる、と。

 この積極性はもしかしたら父親譲りなのかも知れないな、と後で気付いた。



 一方、あいつが体育祭の間に何をしていたかというと、運動が得意なので他に活躍できる競技がありそうなのにも関わらず「好きな女子生徒とお近づきになるチャンスがあるかも知れない」という実に馬鹿馬鹿しい動機で借り物競走に出場していた。

 競技の本番で見事に「憧れの先輩」というお題を引き当てて、とても可愛らしい3年生の女子生徒を連れてゴールしていた。

 私の心の中では嫉妬心や悔しい気持ちよりもあいつの幸運を喜ぶ気持ちが勝った。

 今までモテない人生を送ってきたと語っていたあいつの身にもたまには奇跡が起こってくれて本当に良かった、と本心から嬉しかった。

 あいつのあんな素敵な笑顔を見てたら怒る気持ちなんてどこかへ消えてしまう。仕方ないな。



 体育祭で行われた3つの短距離走のレースに挑み、私は死力を尽くして走り、全てのレースに勝った。私が勝つたびにあいつはクラスメイトと一緒に大喜びしてくれた。とても嬉しかった。何よりの栄誉であった。

 しかし、ミスター暁月コンテストだけは優勝に届かなかった。

 昨年の体育祭のコンテストも優勝している2年生の先輩は別格だった。私ではどう頑張ったってあの人には到底敵わない。

 その優勝者の女子生徒もきっと自分が大好きな人に向けて自分の魅力を伝えようと頑張ったに違いない。そう私の勘が告げた。私みたいな者にも「女の勘」があったのだな、と我ながら驚いた。




 私にとって最大のアピールの場であった体育祭は無事に終わり、翌日から文化祭が始まった。

 文化祭初日は学内の生徒だけで行われる。


 クラス演劇の第一回公演はかなり緊張した。何せ初めて演劇の舞台に立ったのだから仕方ない。

 私は何回か台詞を間違えて飛ばしてしまったが、あいつはその都度、私に合わせて台詞を続けて助けてくれた。本当にいつも頼りになる。ありがとう。


 とても緊張した初演が終わりホッとしていた私とは違い、第一回公演の後にあいつは普段以上にすっかり浮かれていた。

 あいつは舞台の上から自分が好きな女子生徒が客席にいたことまで確認できていた。そして、その子のことを自分のファンなのだろうと力説していた。おそらく勘違いだろう、と思う。



 あいつは第二回公演でも開演前に客席のお客さんの顔ぶれを確認して、おそらく別の演者の男子生徒の勇姿を見るために来場したと思しき女子生徒のことをまたもや自分のファンだと勘違いして喜び、お目当ての男子生徒に向かって手を振っている美人の生徒に対して腑抜けた顔で呑気に手を振り返していた。完全に道化であった。

 自分がその女子生徒から相手にされていないことにすらあいつが気付いていないまま浮かれている状況をとても黙って見過ごしていられなかったので、私はあいつの頭を小突いて釘を刺した。


 その後、あいつが常日頃から大ファンだと公言していた女子の先輩までもが来場したのでさらに浮かれっぷりに拍車がかかってしまった。もはや私が苦言を呈したとしても全くの無駄だろうと諦めた。例え今はこんな浮ついた状態でも芝居が始まり舞台に立ちさえすればバレーコートにいる時のようにあいつは輝きを取り戻すことだろう。そう信じた。


 開演の少し前から私は共演者の男子生徒と書き割りのドアの後方で待機した。


 程なくして舞台が幕を開けたが、あいつは不甲斐ないままで、ますますダメになっていた。台詞すらまともに喋れない始末だ。客席からは失笑が漏れていた。

 自分が好きな女子生徒たちが観劇しているからなのだろうが、あいつの腑抜けた芝居は舞台の裏側で聞いている私にとってもあまりに情けなくて悲しかった。

 舞台に向かって

「あなたはそんな頼りない男じゃないでしょう!」

 そう怒鳴りたい気持ちをなんとか抑えた。


 一緒に書き割りの後方で待機していた共演者の男子生徒の出番が来たので、「あんたのファンの女の子が最前列の真ん中で待ってるから、その期待に応えてこい」という応援の気持ちを込めて彼の大きな背中を拳で強めに叩いた。


 私が力付けて送り出した彼が舞台に登場した後も、あいつは心ここにあらずという状態のままだった。依然としてお芝居は崩壊し続けた。

 こうなったらこの失態は私がなんとかして解決するしかない。

 きっと舞台上にいるあいつ以外の演者たちも教室後方で観ている舞台監督も他のクラスメイトたちも関係者全員が私にそう期待しているに違いない。



 私は舞台に上がるとまずはお芝居を壊さない範囲で考えうる全ての方法によってあいつを落ち着かせようとした。

 だが、やはりそれではまだ足りない。


 私は覚悟を決めた。

 あいつから、否、この場にいる全員から自分が嫌われてしまっても構わない。あいつがこのままみんなからの評価を下げ続けるよりはずっと良い。例え私が悪者になってでもあいつを本来いるべき明るい光の差す晴れ舞台に帰してあげるべきなのだ。


 かくなる上は、書き割りの後ろで出番を待っている間に考えた、最後の手段として残しておいた作戦を実行するしかない。もう迷わない。

 その旨を共演者の男子生徒にだけ伝わるよう小声で伝えた。

 察しのいい彼のことだ、きっと理解しただろう。



 台本から逸脱してしまうことを厭わず、私は即興の演技であいつを無理に急き立てて舞台の中央に立たせ、共演者の男子生徒に抑えさせた。


 ごめんね。私だってこんなことしたくないの。

 でもこれ以上ここにいるみんながあなたのことを「ダメな奴」だって認識してしまうことに私はとても耐えられないの。

 例え私のことを嫌いになっても構わないから、いつものあなたに戻って! 

 私が想いを寄せる人はこんなにも素晴らしい男なんだってみんなの前で証明して見せてよ。お願いだから。

 そう心の中では泣き叫びながら、私は渾身の中段回し蹴りをあいつに叩き込んだ。


 私の強すぎる想いを乗せた蹴りはあまりに激しく威力を増しあいつの腹部に命中した。


 私は心の底から後悔した。

 私は自分自身の脚力を完全に過小評価してしまっていたのだ。


 あいつの体が崩れる。膝が落ちる。

 お願いだから倒れないで。なんとか持ち堪えて。

 償いなら何でもするから。

 私はそう願った。


 跪いたままあいつは全く動けなくなった。とても台詞どころではない。

 幸いにも対応力の高い共演者の女子生徒があいつの台詞を喋って芝居を続けてくれた。

 ありがとう。不器用な私にはとても出来ない芸当だ。


 すると、あいつは歯を食いしばりながら今度はその女子生徒の台詞を貰い受けて喋り芝居を続けようとした。

 ありがとう。あなたなら切り抜けてくれると信じてたよ。


 あいつが必死に立ち上がり蹴られた腹部を見せると、真っ赤に腫れ上がっていた。

 本当にごめんなさい。私はまた心の中で泣いた。


 その後、あいつは苦しげな表情を隠してなんとか芝居を続けた。



 一方、共演者の男子生徒による終盤の長台詞は圧巻だった。

 プロンプターの助けを全く借りずに一人で鬼気迫る演技を続けた。

 彼が台詞を喋り終えて舞台上から立ち去ろうとするのをあいつは引き止めようとした。

 脚本通りならそこで止まってくれるはずなのに彼は全く止まらない。

 あいつは全力を振り絞って何とか彼を止めると最後の台詞を必死に喋って舞台は幕を閉じた。



 暗転しても動かない彼の大きな背中を私とあいつのふたりがかりでなんとか押して下手側の舞台袖に移動させた。


 場内は大きな拍手に包まれたが、私の意識はあいつの痛々しい姿に釘付けであった。



 舞台に灯りがつき、カーテンコールが始まった。私たち女子の演者が先に舞台に上がった。


 しかし、ふたりの男子の演者はなかなか舞台に上がってこない。

 どうやらあいつはもう動けないみたいだった。

 立場上、私は仕方なく笑顔で下手側の舞台袖のふたりの男子に手招きしていたが、私の本心は今すぐにでもあいつの元に駆け寄りたくて仕方がなかった。しかしそれは許されないし、そんな私は誰からも求められていない。


 やがてあいつは共演者の肩を借りて舞台に上がってきた。

 その変わり果てた姿を見た観客たちから爆笑が起きた。


 みんながあいつの名前を連呼するとあいつはまた無理をして元気なそぶりを見せた。

 私はそんなあいつにすぐさま駆け寄って抱き付き

「ごめんね」

と謝りたかった。

 でも、それは私に与えられた役割ではない。


 私は別の方法であいつを労うことにした。

 共演者にまたあいつの体を抑えさせて、私が傷付けたあいつのお腹に寸止めした拳でそっと触れた。

 爆笑が起きた。それで良い。私はそういう役目の担い手なのだ。


 共演者の女子生徒と観客たちが一緒になって励ますと、あいつはまたまた無理をして元気な様子を見せてからにこやかに退場した。

 そして舞台袖でお腹を抑えてしゃがみ込んだ。

 私はすぐにでもあいつの元に駆けつけたかった。

 だが、その気持ちを必死に抑えて、他の演者たちとともにしばらく客席の生徒たちからの声援に応えた。


 観客たちの拍手が少し弱まったので私たちも舞台から降りることにした。

 その際に私は照明係に声をかけて場内を明るくさせて、この舞台を無理矢理終わらせた。

 もしもアンコールがあれば、あいつはまたみんなの期待に応えて無理をして絶対に立ち上がる。

 私はもうそんな姿を見たくなかった。これ以上は私の心が耐えられなかっただろう。



 舞台袖に下がると私はすぐにあいつの元に駆け寄り謝罪した。

 涙のひとつでも流して縋り付くのが本来あるべき姿なのかもしれない。

 だが、それは私の仕事ではない。


 幸いにも共演者の女子生徒がその役目を担ってくれた。

 涙こそ流さないものの、とても心配そうに背中をさすっていた。


 プロンプター役の生徒が、その友人の女子生徒が差し入れてくれた薬をあいつに渡した。

 あいつが自分のお母さんに電話をして確認を取れたらその薬を使うことになった。

 まずはあいつが自分でお母さんに状況を説明して渡された薬を使っても大丈夫だと確認した。あいつは、軽い怪我をした、とお母さんに嘘をついていた。私のせいだ。あいつに嘘までつかせてしまった。

 その後、プロンプター役の生徒がスマホを受け取りあいつのお母さんから再度、薬を使う許可を確認していた。

 私はそのスマホを奪い取って、あいつのお母さんに「あなたの大切なお子さんを傷付けたのはこの私です。本当に申し訳ありません」と心からのお詫びをしたかった。でも、そんなことをしたら場の空気が悪くなる。きっとあいつはそんなことを求めていないだろうし、きっと悲しむだろうと容易に予想できたので自制して黙っていた。


 幸いなことに、自分が気に入っている清楚な雰囲気の女子生徒から渡された薬を受け取ってからあいつは元気になった。

 あいつを元気付けることができるのは、そういう可愛くて優しい女の子なのだ。決して私などではない。

 そこにはとても私の入る余地はなかった。

 せめてもの償いに、あいつの痛々しいお腹に湿布を貼る係をさせてもらった。あいつは笑顔で

「ありがとうね」

とそれに答えた。

 自分を傷つけた私に対して気遣いまでしてくれるなんて。「なんであなたはそんなに優しいの?」と涙がこぼれ落ちそうだった。

 私は湿布を一枚貼るごとに「ごめんなさい」と一言ずつ心の中で謝った。


 ちょうどその頃、とても厳しい表情をした舞台監督の生徒が合流し、私の機転が壊れていく舞台を救った、と感謝された。

 だがそれは違う。

 私が本当に守りたかったクラスの舞台などではなく、あいつの名誉だけだったのだ。

 しかし、私はそれを口に出さずに黙っていた。そんなことを言ったらあいつはきっと私に同情して心を痛めると分かっているからだ。




 次の公演に向けての指導が終わると昼食のための休憩時間になった。

 こんな酷い仕打ちをクラスメイトに対して行ってしまった私に向かって、なおも

「一緒にお弁当を食べよう」

と声をかけてくれたクラスメイトたちからの誘いを私は断った。

 教室から廊下に出て足早に出口へ向かい、校舎から外に出るとグラウンドを全力で駆け出した。

 体育倉庫の裏にようやく人気のない場所を見つけると、その場で声を出して泣いた。



 私はどうしてこんなにも不器用なんだろう?

 どうして素直になれないんだろう?

 なぜあれほどまでに深くあいつを傷付けてしまったのだろう?

 溢れる涙が止まらなかった。




(続く)

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